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アジアと小松

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小松基地問題研究会

「八田与一物語」の虚構

2011年06月05日 | 台湾・八田与一
「八田与一物語」の虚構

歴史修正主義について
 山野金沢市長は八田与一について、「台湾南部の嘉南平野は、水利の不便さゆえに不毛の大地と呼ばれていました。八田技師はこの地にダムをつくることによって嘉南の地を豊穣の緑地に変えられるとの調査を行い、当時の台湾総督府を説き伏せ、大正9年(1920年)着工、昭和5年(1930年)に完成にこぎつけました。…このダム及び水路のおかげでこの嘉南の地は、天から雨が降って初めて耕作できる貧困な土地から、15万ヘクタールに及ぶ緑豊かな豊穣の地に生まれ変わることができたといいます。…単にダムをつくり、緑豊かな土地にしてくれたという尊敬だけではなく、その八田御夫妻の人間性を含めた意味での敬いのあかしではないでしょうか。」と述べています(1999年金沢市議会)。
 小林よしのりも『台湾論』で「当時東洋一のダムと言われた巨大なこのダム(烏山頭水庫)は…八田与一が計画したものである。ダムの周りは現在公園のようにきれいに整備されていて…八田与一の銅像は嘉南大圳の完成に喜び、感謝した人々が建立した。」と述べています。
 山野市長も小林よしのりも、「八田与一物語」を利用して、植民地支配が台湾人のためであったかのような虚構を立て、決して「日本の台湾植民地支配」の苛酷な本質を見極めようとしません。それは1932年の上海爆弾事件と尹奉吉を見る目と同じです。
 嘉南大圳がどのようないきさつで建設されたのかを明らかにすることによって、「八田与一物語」の虚構を明らかにしたいと思います。

嘉南大圳建設の目的
 日本は1986年に台湾を植民地にした。植民地経営の一つとして、製糖業を保護育成した。総督府は土地調査、林野調査を行い、大部分の土地山林を「無主地」として没収し、ほとんど無償で製糖会社などに払い下げた。甘蔗の原料採取区域を制定し、製糖工場には補助金を出した。
 また、1905年の日露戦争では軍用米として30万石の台湾米が移出された。内地米が不足(1918年米騒動)し、外地米移入のための水稲増産が嘉南大圳建設のもうひとつの目的だった。
 清水美里は「潅漑面積15万甲という巨大な水利施設は、内地への糖・米2大移出商品の供給地となった台湾において、それを下支えするための植民地的開発だった」と述べている。

嘉南大圳の計画と建設
 台湾総督府は1917年、嘉南平原の潅漑計画を立て、調査団(八田与一)を派遣し、1919年12月に総督府が決定し、1920年から工事が始まった。1924年から濁水渓系統の潅漑が開始され、1930年9月に烏山頭系統の通水が始まった。
 工事は大倉土木、鹿島組、住吉組、黒板工業、太田組が請け負った。大倉土木は2200人を超える朝鮮人を強制連行して大井川電源開発工事を行い、鹿島は986人の中国人を花岡鉱山で強制労働させ(418人を死亡させた)ていた札付きの戦犯企業である。だが、多くは嘉南大圳組合が農民を募集して使役していた。
 烏山頭の工事現場には約700人の日本人と約1500人の台湾人が家族とともに生活していたが、これが「善政」であるかのように言われているが、一つは作業効率の向上のためであり、もうひとつは逃亡防止の側面も否定できない。炭坑では逃亡防止を目的にして、家族を呼び寄せていた。

嘉南大圳をめぐる攻防
 農民は嘉南大圳用水の土地買収に反対し、水路を破壊してたたかった。建設後、関係農民40数万人は多額な水租の徴収に苦しみ、不合理な3年輪作のために作物は減収し、生活が困窮した。農民は嘉南大圳組合に①水租の減額、②土地耕作権・作物選択の自由、③3年輪作の廃止などを要求してたたかった。
 台湾民衆党は1928年第2回全島党員大会で「嘉南大圳3年輪作反対」を決議し、台湾農民組合は1929年のスローガンに「埤圳管理権の奪回。嘉南大圳3年輪潅漑政策反対」を掲げた。
 1930年9月、烏山頭系統の通水が始まったとき、大規模な水租不納運動が始まり、業佃協和会は水租不納同盟を決議し、台南州知事に内容証明を送り、地主120名が庄役場に押しかけた。台湾農民組合は嘉南大圳闘争委員会を作り、各支部へ「水租抗納同盟」を組織し、「水租抗納」のため1000人が4庄の役場を包囲した。嘉南大圳組合郡部部長は水租未納者に差し押さえ処分を断行した。
 水租納入のために人身売買が行われ、「典妻売子(妻を質入れし、子を売る)」と報道された。1920年度の水租は1甲200円、完成後10年間で分割払い(竣工後19年間に延長)が強要された。
 清水美里は「水租の未納者は家財道具や不動産が差し押さえられ、陳力は父母が残した数甲の原野を嘉南大圳潅漑区に編入されたが、水租を納入できず、3歳の我が子を養子として、120円で売った。また陳清藤は水租の金策がつかず、8歳の妹を養女として120円で売った」と述べている。

水租の減額を勝ち取る
 1931年3月の嘉南大圳組合第27回通常総会では、借入金の高利子と負担金の過重が問題になり、1931年度歳入出予算の修正案提出され、紛糾したが、原案が強行可決された。6月の第28回通常総会も紛糾したが、強権発動で散会した。
 しかし、1931年7月、農民は「①国庫の借入金を放棄すること、②日本勧業銀行の借入金を低利借り換え、③事務費、徴収費の節約、④職員の2割整理、3割減棒→特別水租を16円から8円、維持費を8円から6円」という改革案を提出し、その結果、嘉南大圳組合は職員400名のうち100名を淘汰すると発表し、9月には、特別水租甲16円80銭を8円に、乙21円70銭を10円に減額させた。

嘉南大圳建設に関する識者の評価
 清水美里は①「矢内原忠雄は国家の直接援助による半官半民組織の設立、台湾総督府からの天下りによる官憲的経営、投機的な事業計画などを列挙し、農民を搾取していると指摘している」、②「涂照彦は三年輪作という地域潅漑管理制度がいかに精糖会社に有利だったかを実証した」、③「史明、楊肇嘉らはこの事業を製糖業保護政策の一環と見なし、台湾農民を搾取するものと考えた」、④「浅田喬二は嘉南大圳水租不納運動や税金物納運動を抗日農民運動と位置づけている」、⑤「顧雅文は台湾における近代的水利開発はしばしばマラリア発生の原因になったと指摘している」などの歴史学上の評価を上げている。

むすび
 以上のように、嘉南大圳は製糖資本のために国家権力を動員して、農民の反対を暴力的におしつぶして、強制的に土地を収用し、農民から重い負担金を拠出させて作った。
 ダムの設計及び工事の監督を担った総督府技術官僚・八田与一の物語によって、歴史学の議論と乖離した美談が流布されている。嘉南大圳建設に関する重要な事実が欠落し、誇張され、嘉南大圳によって「不毛の大地」が潤わされ、農民の生活が豊かになったと描かれている。『八田与一物語』は歴史修正主義と結びつき、日本の台湾植民地支配を美化し、免罪する作用が働いている。『八田与一物語』を得々と語る山野金沢市長も、日本の侵略と植民地支配を美化することに懸命である。

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(付)金沢偉人物語の虚構
 『金沢偉人物語』の中の「台湾を愛し、偉大なダムを造った技師 八田与一」を検証しよう。
(150)「(八田与一は)日本人と台湾人を区別することなく」…区別の問題ではなく、差別の問題であることをごまかしている。当時、総督府による台湾人差別によってどれほどの犠牲が強いられていたのかを一言も述べていない。差別を列挙すれば、①台湾人の集会結社の禁止、言論出版の抑制、②台湾人の土地、林野の没収、③台湾人だけの株式会社設立禁止、④教育の差別・日本語の強制、⑤就職の差別、賃金差別(日本人の半分以下)、⑥米の強制供出など。
(152)「下関条約によって清国から台湾を譲り受け」…そこに暮らす台湾人の人権を無視している。譲り受けたのではなく、割譲した(ぶんどった)のである。
(158)「3年輪作給水」を美化しているが、甘蔗は稲作のように連作できないので、台湾総督府は製糖業の保護育成のために、3年輪作(甘蔗、稲作、雑作)による甘蔗の植え付けを強制した。台湾解放後、農民は作物を選択する自由を確保し、国際競争力のない甘蔗作付けから撤退し、3年輪作は破産した。3年輪作は台湾総督府の製糖業保護育成と甘蔗の強制的作付けで成立していた農法であった。
(160)「人も住めない未開地の原生林」…林野調査で台湾各地の原生林を没収し、そこで暮らしている人々に必要な原生林を伐採し、強制的に平地に移住させ、糖業資本のための甘蔗畑にしていった。
(160)「職員住宅の建設」…炭坑と同様、作業能率を向上させるために、住宅を作り、町を作った。また、炭坑では労働力の安定供給のために、単身者よりも家族を伴った労働者を雇用している。一種の逃亡防止策であった。
(162)「50名以上の死傷者」…実際には全工事期間で134人が死亡している(病死:97名、公務事故死:35人、民間事故死:2人)。
(166)「与一の銅像」…主として工事関係者のカンパで建設された。農民からのカンパも若干はあったようだ。台湾人が八田与一を偶像化するのは戦後台湾の歴史的いきさつ
(166)日本人の銅像、神社が破壊され、日本語教育が行われなくなった…51年間の植民地支配に対する怒りを理解しなければならない。神社は皇民化教育のための施設であり、台湾人自身のイデオロギーや意志を抑圧する機関だった。
(167)参考資料…矢内原忠雄著『帝国主義下の台湾』や史明著『台湾人400年史』を無視して、台湾と嘉南大圳建設(八田与一)との関係を解明しようという意識が希薄である。

<資料>
「日本植民地期台湾における水の支配と抵抗-嘉南大圳を事例として」(清水美里著)
『帝国主義下の台湾』(矢内原忠雄著 1929年)
『台湾人400年史』(史明著 1962年)
『植民地台湾を語るということ』(胎中千鶴著 )
『全台湾記録(1930年 嘉南大圳引発農民抗争活動)』
『台湾論』(小林よしのり著)
『金沢偉人物語 八田与一』
『台湾を愛した日本人 八田与一の生涯』(古川勝三著 2009年)
『嘉南大圳新設事業概要』(1930年 土木学会図書館蔵)
『嘉南大圳台北米穀事務所調査』(1936年 土木学会図書館蔵)
『のびゆく金沢 台湾の人々を救った土木技師 八田与一』(小学校社会科副読本)
「山野之義さんの金沢市議会発言」(1999年)

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