八田与一と山野金沢市長について
1999年、金沢市議会議員だった山野之義さんは市議会で八田与一について発言し、烏山頭ダムや水利施設の嘉南大圳(カナンタイシュウ)建設の歴史的背景について「確かに事業そのものは日本統治時代のことであり、当時の日本の国策によったものかもしれません」と述べています。
台湾における八田与一を考えるとき、「日本統治」「国策」との関係で考えることが最も重要であるにもかかわらず、山野之義金沢市長は踏み込んで語ろうとず、なぜ烏山頭ダムや嘉南大圳建設に莫大な国家資金を投入したのかを押し隠しています。(山野之義著「八田与一との出会い」、金沢市小学生用社会科副読本「のびゆく金沢」、小林よしのり著「台湾論」なども共通しています)
八田与一は台湾総督府の技術官僚であり、植民地統治のためのダム・潅漑政策の担い手でした。この事実を語らないで、「業績と人格」だけを取り上げて美化することの中には、1895年からの日本による植民地統治(独立運動の弾圧、土地調査・収奪、農産物の収奪、日本語の強制など)の責任をうやむやにして清算しようという意図がはらまれています。
たとえば、『台湾人400年史』には一覧表があり、1902年から1938年の36年間で、生産総額は1160%増ですが、対日輸出は4440%増加しています。また「1907年の台湾の米産額は約460万石、日本本国の食糧供給を担って蓬莱米の登場となり、30数年後の1938年には、米産額が1000万石になんなんとするところまでいった。そして、年々、産額の約半数は日本本国に積み出していたのである。…台湾米の日本輸出は1902年を基準にして、1925年には5,6倍、1932年には11倍になった」と書かれています。
当時の日本は台湾を食糧基地としており、1930年に完成した烏山頭ダムや嘉南大圳は日本への食糧供給のために行われた産米増殖事業だったことを忘れてはなりません。
山野金沢市長が八田与一を前面に出す理由の一つは金沢観光の誘客ですが、もうひとつは小林よしのり流の歴史観を持ちこもうとしていることです。それは金沢市内の学校に自由主義史観に基づく『新しい歴史教科書』を採択するか否かの問題となっていくと思われますので、警戒しなければなりません。
1999年、金沢市議会議員だった山野之義さんは市議会で八田与一について発言し、烏山頭ダムや水利施設の嘉南大圳(カナンタイシュウ)建設の歴史的背景について「確かに事業そのものは日本統治時代のことであり、当時の日本の国策によったものかもしれません」と述べています。
台湾における八田与一を考えるとき、「日本統治」「国策」との関係で考えることが最も重要であるにもかかわらず、山野之義金沢市長は踏み込んで語ろうとず、なぜ烏山頭ダムや嘉南大圳建設に莫大な国家資金を投入したのかを押し隠しています。(山野之義著「八田与一との出会い」、金沢市小学生用社会科副読本「のびゆく金沢」、小林よしのり著「台湾論」なども共通しています)
八田与一は台湾総督府の技術官僚であり、植民地統治のためのダム・潅漑政策の担い手でした。この事実を語らないで、「業績と人格」だけを取り上げて美化することの中には、1895年からの日本による植民地統治(独立運動の弾圧、土地調査・収奪、農産物の収奪、日本語の強制など)の責任をうやむやにして清算しようという意図がはらまれています。
たとえば、『台湾人400年史』には一覧表があり、1902年から1938年の36年間で、生産総額は1160%増ですが、対日輸出は4440%増加しています。また「1907年の台湾の米産額は約460万石、日本本国の食糧供給を担って蓬莱米の登場となり、30数年後の1938年には、米産額が1000万石になんなんとするところまでいった。そして、年々、産額の約半数は日本本国に積み出していたのである。…台湾米の日本輸出は1902年を基準にして、1925年には5,6倍、1932年には11倍になった」と書かれています。
当時の日本は台湾を食糧基地としており、1930年に完成した烏山頭ダムや嘉南大圳は日本への食糧供給のために行われた産米増殖事業だったことを忘れてはなりません。
山野金沢市長が八田与一を前面に出す理由の一つは金沢観光の誘客ですが、もうひとつは小林よしのり流の歴史観を持ちこもうとしていることです。それは金沢市内の学校に自由主義史観に基づく『新しい歴史教科書』を採択するか否かの問題となっていくと思われますので、警戒しなければなりません。