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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20220724 続「両墓制」について

2022年07月24日 | 尹奉吉義士
20220724 続「両墓制」について

 当ブログ「アジアと小松」(7/8)で、「両墓制(埋め墓、詣り墓)」についてレポートしたが、その後の調査で、金沢野田山墓地でも「両墓制」がごく自然に存在していることがわかった。

複数のお墓
 野田山山頂近くに加賀藩初代藩主・前田利家(1599年没)の墓があり、そのふもとの桃雲寺(野田町)には、「高徳院殿贈従一位行亜相桃雲見公大居士(利家の戒名)」「慶長四巳亥年 閏三月三日」「風、火、水、地」と刻印されている五輪塔(詣り墓)があり(下写真左)、桃雲寺のHPには、「夫人芳春院が山頂まで登るのが困難なため、当寺から山頂の墓所を拝むための遥拝墓と伝えられている。又、遺骨あるいは遺髪を納めた利家の墓との説もある」と記されているが、その根拠となる古文書は示されていない。
 1878年5月、島田一郎(一良)ら6人が大久保利通を暗殺し、処刑直後の7月に斬首刑に処せられ、東京の谷中霊園に墓(埋め墓)が建てられている。処刑50年後の1928年には桃雲寺近く(裏手)に「詣り墓」が建てられている(下写真右)。

  

 銭屋五兵衛は1852年に獄死し、金沢市金石の本龍寺のお墓に葬られ、彦三長徳寺(分骨)、野田山(分骨)にも墓碑がある。野田山墓地管理事務所で聞くと、「五番観音」の近くだと言われて、確認に行ったが、「これだ」というお墓を見つけることが出来なかった。
 鈴木大拙は1966年に東京聖路加病院で亡くなり、北鎌倉の東慶寺と野田山に墓碑がある。
 徳田秋声は1943年に死亡し、遺骨は自宅に安置していたが、1983年東京小平霊園に墓を建てた。金沢並木町の静明寺にも墓碑(分骨)がある。
 西田幾多郎は1945年に死亡し、宇ノ気森区の共同墓地に墓があり、鎌倉・東慶寺(分骨)、京都・妙心寺(分骨)にも墓がある。
 高峰譲吉は1922年に死亡し、ニューヨーク・ウッドローン墓地に埋葬され(埋め墓)、東京・青山霊園にも遺髪を納めた詣り墓がある。
 八田與一は1942年5月8日に死亡し、遺体は山口県萩市沖の見島で引き上げられ(6/13)、台湾に送られ、荼毘に付され、烏山頭ダムの近くに墓(埋め墓)が建てられたが、戦後、分骨して、家族が暮らす愛知県にお墓(詣り墓)を建てたと、金沢ふるさと偉人館の学芸員から聞いた。
 島田清次郎は1930年に東京で死亡し、美川町の共同墓地に葬られ(埋め墓)、小川町の共同墓地にも詣り墓がある。
 東条英機は処刑後火葬され、遺骨は遺灰とともに太平洋に散骨された。東京・雑司ヶ谷霊園に墓碑があるが遺骨はなく(詣り墓)、愛知県西尾市に「殉国七士廟」に遺灰が混じり合って納められているという。
 尹奉吉は1932年に金沢・三小牛山で処刑され、野田山陸軍墓地と市民墓地をつなぐ通路に暗葬された。1990年代に暗葬碑(埋め墓)と殉国碑(詣り墓)が建てられ、多くの人がお詣りに訪れている。

日本軍兵士の墓
 明治以降、日清戦争からアジア・太平洋戦争終結までに多数の戦死者を出してきた。日清戦争までは戦死者ごとに土葬にして墓を建てていたが、日露戦争後戦死者が多数にのぼり、火葬が原則となり、「一戦役」ごとに戦死者の分骨を集めて、一基の合葬碑を建てることになった。石川県戦没者墓苑の忠霊塔、満州事変、上海事件、日露役、征清役の碑がそれに当たる(下写真左)。

 

 アジア・太平洋戦争では310万人の戦死者があり、そのうち230万人が将兵であり、そのうち100万人以上の遺骨が戻ってきていないと言われている。野田山墓地には戦死した兵士の大きな墓(上写真右)が目に付くが、しかし、それらの墓のうち相当部分は遺骨が納められていないと思われる。
 論文「戦没者の遺骨と陸軍墓地」(横山篤夫2008年)には、「(105)此等部隊(ガダルカナル島作戦部隊)ハ其ノ作戦任務ニ鑑ミ撤退ニ異常ノ困難ヲ極メ陣没将兵ノ遺骸ヲ悉ク収容シ得サリシモノアルヘク又収容スルモ之ヲ火葬スル能ハスシテ埋葬シタルモノアルヘシ。」、「(106)前述ノ如ク作戦ノ特質上遺骨ハ必スシモ還ラサルモノアランモ英霊ハ必ス還ルヘク此英霊ヲ先ツ原隊(留守業務担当部隊)ニ還送シタル上夫々遺族ニ交付セラルルモノナリ。故ニ此ノ箱内ニハ遺骨アリト考フルヨリハ英霊ヲ収メ参ラセシモノナリ」、「(116)村役場から義父に遺骨箱が届けられたが遺品もなく、木箱の中は夫の名前を書いた二〇センチ程の長さの紙が一枚入っていたきりだった。…その後暫くして自宅に親類を集め葬式をした。家の墓のある寺の墓地に木箱を埋め」、「(117)公報が来た後で役場の人が遺骨箱を持って来てくれた。中には何も入っていなかった」などと書かれているように、遺体は戦地に放置され、戻ってこなかった例を多数挙げている。
 写真5はグアム島に残された遺体が葬られているお墓である(下写真右)。これらの戦死将兵の家族には「戦死公報」のみが届けられたのだろう。

 

 このように、亡き人を偲ぶのに、遺骨のありなしは関係なく、墓碑を建て、家には仏壇・位牌を置き、死者と向き合うことが、金沢でも普通におこなわれてきたのである。

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