2022/07/08 両墓制について
インターネット上に、尹奉吉殉国碑は遺骨が埋葬されていないので、墓ではない、だから遺骸や遺骨のない「墓」を墓地に建ててはならない、という主張が展開されている。遺骸や遺骨のない「墓」は墓ではないというならば、時が経ち、遺骸や遺骨が微生物によって分解され、土に戻れば、その墓には遺骸も遺骨もなくなるが、それを墓ではないと主張するのだろうか。
現実には、人々は遺骸も遺骨も無くなった「墓」を墓といい、花を手向け、ろうそくや線香を灯し、手を合わせているのはなぜか? すなわち、墓に遺骸や遺骨が存在するかどうかが問題なのではなく、墓前で手を合わせ、故人を偲ぶことこそが墓(モニュメント)と人間の関係性なのである。墓前で思い出すのは、遺骸や遺骨ではなく、生前の故人の姿である。
柳田國男をはじめとした民俗学者による「両墓制」についての研究を、新谷尚紀論文、千葉徳爾論文、川添善行論文などから学ぶことにしよう。
両墓制論文から学ぶ
新谷尚紀著『両墓制と他界観』(1991年)では、柳田國男、最上孝敬、原田敏明、国分直一、竹田聴洲らの論文を検証し、墓制を「(34p)類型①死体埋葬地点に一連の墓上装置を施すだけで、石塔は建てない。類型②死体埋葬地点の真上に石塔を建てる。類型③死体埋葬地点のそばに少しずらして石塔を建てる。類型④死体埋葬地点からまったく離れて石塔を建て、墓域が死体埋葬の区画と石塔建立の区画との両区画に二分されている。類型⑤死体埋葬地点とまったく離れて石塔を建て、死体埋葬の墓地とが完全に隔絶して別々になっている」の五類型に分類し、②③は単墓制、④⑤は両墓制としている。
新谷は、両墓は形態上、埋め墓は死体埋葬地点の上に施される一連の墓上装置の集合であり、詣り墓は死者供養のために建てられた仏教式石造墓塔の集合と認定した。
千葉徳爾論文「両墓制の時空間的展開」(1995年)では、「(183p)(両墓制では)死体安置の形は、形ある人体の一部である骨の安置は死体埋葬地に、無形の霊魂の方は墓石もしくはその他の標識のある埋葬地以外の場所に存在する」、「(185p)骨を埋める墓と霊を祭る墓とは、目的ばかりでなく使用期間、形態その他が異なって対等の墓として存在するものではない。骨の埋葬地はウメバカ、ミバカ、ノバカ、ステバカ、ムショ、サンマイなどといい、霊魂を招祭する地はセキトウバカ、ヒキバカ、マイリバカ、マツリバカ、ラントウ、ボチ、テラといった。サンマイは死体埋葬地とみなされて、集落からより遠い観念上のムラ境、つまり人々が生活するこの世に対し、外の世界への出口に設けられている。マイリバカは居住地になるべく近く設置され、儀礼をおこなうのに都合のよい地点が選定されている」、「(187p)室町期には、…貴族や上層武家にならって、墓制を両墓制を模して葬地外に供養塔を建立し、もしくは敷地付近に持仏堂や卒塔婆を設けるものが多くなった。社会的地位や財力を有せぬ人は、自家の一部や室内に仏像や位牌を安置して、祖霊招魂の場とした。すなわち、仏壇の成立であって、これも両墓制の変形とすることができる」、「(191p)但馬国内では、…第1次の埋葬地は…集落から隔たった、あまり通視できない場所にあり、また海岸では度々波浪に破壊浸食される水際にあり、これら第1次墓地が、死体処理を目的としていた…」などと記述している。

川添善行論文「両墓制集落における祭祀と埋葬の空間論」(2010年)によれば、「(52p)墓とは祭祀と埋葬というふたつの役割を有している。日本には、かつて、そのふたつの役割を分離させる両墓制と呼ばれる葬制が存在しており、…現在多くの集落で両墓制から火葬の単墓制へと移行してしまった」、「(53p)柳田國男以来の両墓制の空間論的分析では、詣り墓が村落の内部にあり、埋め墓が村落の外側にある」、「(53p)墓地埋葬等に関する法律では、死体を埋める場所を墓所とし、死体を埋葬または焼骨を埋蔵する施設を墳墓とするならば、…埋め墓のみが<墳墓>に該当し、遺骸を埋葬しない詣り墓は<墓>ではないということになる。しかし、実際には両墓制は存在し、死体の埋葬されていないはずの詣り墓さえ<墓>と呼んでいる」、「(53p)両墓制を<埋葬のための空間と祭祀のための空間を、同一の集落共同体の領域のなかにそれぞれ別々に有している葬法>と定義する」などと記述している。

金沢にも「詣り墓」
野田山山頂近くに加賀藩初代藩主・前田利家(1599年没)の墓があり、そのふもとの桃雲寺(野田町)には、墓所に登っていくことが困難な妻・まつのために利家の分祀墓(「詣り墓」)が建てられた(「高徳院殿贈従一位行亜相桃雲見公大居士」「慶長四巳亥年 閏三月三日」「風、火、水、地」と刻印)。『加賀藩前田家墳墓史』(八木士郎著)は、「分骨塔」「謙所」と推測しているが、その根拠となる古文書は示されていない。
また、1978年島田一郎(一良)ら6人が大久保利通を暗殺(1878年)し、処刑直後に東京の谷中霊園に、「埋め墓」が建てられた。処刑50年後の1928年には、野田山のふもとにある桃雲寺近くに「詣り墓」が建てられている。
鈴木大拙は1966年に東京聖路加病院で亡くなり、北鎌倉の東慶寺と野田山に墓碑がある。銭屋五兵衛は1952年に獄死し、彦三町の長徳寺、金石町の本龍寺、野田山の三ヶ所に墓碑がある。
このように、亡き人を偲ぶのに、遺骨のありなしに関係なく、墓碑を建て、家には仏壇を置き、死者と向き合うことが、金沢でも普通におこなわれてきたと思われる。
不当な植民地支配に直面した尹奉吉は、意を決して亡命し、大韓民国亡命政府の韓人愛国団に参加し、日本帝国主義に植民地解放戦争を挑んだのである。1932年4月29日上海虹口公園での戦いで捕虜となり、ハーグ陸戦条約を無視して処刑され、暗葬にされた。暗葬地は「埋め墓」であり、殉国碑は「詣り墓」であることは歴然としており、ネット上の謬論は退けられている。
残すべきは何か
上記のように、民俗学者たちは、過去の日本には単墓制と両墓制(埋葬のための空間と祭祀のための空間)が存在したと結論づけている。すなわち、両墓制の意義は、人間は肉体と霊魂によって構成されており、肉体は埋葬地に埋めて、やがては微生物に分解されたり、海に流されたりして、自然に帰るが、霊魂は生活空間に建てられた墓石(モニュメント)に宿り、人々の招きに応えて、死後も、人々とともに存在し続けるという。そこには、有形の肉体よりも、無形の霊魂こそが人間の本質(動物との違い)であるとして、対象化・具現化しているのが、墓(モニュメント)である。
「遺骨がなければ墓ではない」と、外面しか見ようとしない、浅薄な思考ではなく、遺骨の存否にかかわらず、墓前で先人を偲び、学ぼうとする、人間の精神的営為の対象こそが、墓なのである。私たちは、人類発生(アフリカ)以来の先人から、長い年月を経て受け継いできた精神(知)を、次世代に渡すためにこそ、墓(モニュメントや記録)を必要としているのではないか。
インターネット上に、尹奉吉殉国碑は遺骨が埋葬されていないので、墓ではない、だから遺骸や遺骨のない「墓」を墓地に建ててはならない、という主張が展開されている。遺骸や遺骨のない「墓」は墓ではないというならば、時が経ち、遺骸や遺骨が微生物によって分解され、土に戻れば、その墓には遺骸も遺骨もなくなるが、それを墓ではないと主張するのだろうか。
現実には、人々は遺骸も遺骨も無くなった「墓」を墓といい、花を手向け、ろうそくや線香を灯し、手を合わせているのはなぜか? すなわち、墓に遺骸や遺骨が存在するかどうかが問題なのではなく、墓前で手を合わせ、故人を偲ぶことこそが墓(モニュメント)と人間の関係性なのである。墓前で思い出すのは、遺骸や遺骨ではなく、生前の故人の姿である。
柳田國男をはじめとした民俗学者による「両墓制」についての研究を、新谷尚紀論文、千葉徳爾論文、川添善行論文などから学ぶことにしよう。
両墓制論文から学ぶ
新谷尚紀著『両墓制と他界観』(1991年)では、柳田國男、最上孝敬、原田敏明、国分直一、竹田聴洲らの論文を検証し、墓制を「(34p)類型①死体埋葬地点に一連の墓上装置を施すだけで、石塔は建てない。類型②死体埋葬地点の真上に石塔を建てる。類型③死体埋葬地点のそばに少しずらして石塔を建てる。類型④死体埋葬地点からまったく離れて石塔を建て、墓域が死体埋葬の区画と石塔建立の区画との両区画に二分されている。類型⑤死体埋葬地点とまったく離れて石塔を建て、死体埋葬の墓地とが完全に隔絶して別々になっている」の五類型に分類し、②③は単墓制、④⑤は両墓制としている。
新谷は、両墓は形態上、埋め墓は死体埋葬地点の上に施される一連の墓上装置の集合であり、詣り墓は死者供養のために建てられた仏教式石造墓塔の集合と認定した。
千葉徳爾論文「両墓制の時空間的展開」(1995年)では、「(183p)(両墓制では)死体安置の形は、形ある人体の一部である骨の安置は死体埋葬地に、無形の霊魂の方は墓石もしくはその他の標識のある埋葬地以外の場所に存在する」、「(185p)骨を埋める墓と霊を祭る墓とは、目的ばかりでなく使用期間、形態その他が異なって対等の墓として存在するものではない。骨の埋葬地はウメバカ、ミバカ、ノバカ、ステバカ、ムショ、サンマイなどといい、霊魂を招祭する地はセキトウバカ、ヒキバカ、マイリバカ、マツリバカ、ラントウ、ボチ、テラといった。サンマイは死体埋葬地とみなされて、集落からより遠い観念上のムラ境、つまり人々が生活するこの世に対し、外の世界への出口に設けられている。マイリバカは居住地になるべく近く設置され、儀礼をおこなうのに都合のよい地点が選定されている」、「(187p)室町期には、…貴族や上層武家にならって、墓制を両墓制を模して葬地外に供養塔を建立し、もしくは敷地付近に持仏堂や卒塔婆を設けるものが多くなった。社会的地位や財力を有せぬ人は、自家の一部や室内に仏像や位牌を安置して、祖霊招魂の場とした。すなわち、仏壇の成立であって、これも両墓制の変形とすることができる」、「(191p)但馬国内では、…第1次の埋葬地は…集落から隔たった、あまり通視できない場所にあり、また海岸では度々波浪に破壊浸食される水際にあり、これら第1次墓地が、死体処理を目的としていた…」などと記述している。
川添善行論文「両墓制集落における祭祀と埋葬の空間論」(2010年)によれば、「(52p)墓とは祭祀と埋葬というふたつの役割を有している。日本には、かつて、そのふたつの役割を分離させる両墓制と呼ばれる葬制が存在しており、…現在多くの集落で両墓制から火葬の単墓制へと移行してしまった」、「(53p)柳田國男以来の両墓制の空間論的分析では、詣り墓が村落の内部にあり、埋め墓が村落の外側にある」、「(53p)墓地埋葬等に関する法律では、死体を埋める場所を墓所とし、死体を埋葬または焼骨を埋蔵する施設を墳墓とするならば、…埋め墓のみが<墳墓>に該当し、遺骸を埋葬しない詣り墓は<墓>ではないということになる。しかし、実際には両墓制は存在し、死体の埋葬されていないはずの詣り墓さえ<墓>と呼んでいる」、「(53p)両墓制を<埋葬のための空間と祭祀のための空間を、同一の集落共同体の領域のなかにそれぞれ別々に有している葬法>と定義する」などと記述している。
金沢にも「詣り墓」
野田山山頂近くに加賀藩初代藩主・前田利家(1599年没)の墓があり、そのふもとの桃雲寺(野田町)には、墓所に登っていくことが困難な妻・まつのために利家の分祀墓(「詣り墓」)が建てられた(「高徳院殿贈従一位行亜相桃雲見公大居士」「慶長四巳亥年 閏三月三日」「風、火、水、地」と刻印)。『加賀藩前田家墳墓史』(八木士郎著)は、「分骨塔」「謙所」と推測しているが、その根拠となる古文書は示されていない。
また、1978年島田一郎(一良)ら6人が大久保利通を暗殺(1878年)し、処刑直後に東京の谷中霊園に、「埋め墓」が建てられた。処刑50年後の1928年には、野田山のふもとにある桃雲寺近くに「詣り墓」が建てられている。
鈴木大拙は1966年に東京聖路加病院で亡くなり、北鎌倉の東慶寺と野田山に墓碑がある。銭屋五兵衛は1952年に獄死し、彦三町の長徳寺、金石町の本龍寺、野田山の三ヶ所に墓碑がある。
このように、亡き人を偲ぶのに、遺骨のありなしに関係なく、墓碑を建て、家には仏壇を置き、死者と向き合うことが、金沢でも普通におこなわれてきたと思われる。
不当な植民地支配に直面した尹奉吉は、意を決して亡命し、大韓民国亡命政府の韓人愛国団に参加し、日本帝国主義に植民地解放戦争を挑んだのである。1932年4月29日上海虹口公園での戦いで捕虜となり、ハーグ陸戦条約を無視して処刑され、暗葬にされた。暗葬地は「埋め墓」であり、殉国碑は「詣り墓」であることは歴然としており、ネット上の謬論は退けられている。
残すべきは何か
上記のように、民俗学者たちは、過去の日本には単墓制と両墓制(埋葬のための空間と祭祀のための空間)が存在したと結論づけている。すなわち、両墓制の意義は、人間は肉体と霊魂によって構成されており、肉体は埋葬地に埋めて、やがては微生物に分解されたり、海に流されたりして、自然に帰るが、霊魂は生活空間に建てられた墓石(モニュメント)に宿り、人々の招きに応えて、死後も、人々とともに存在し続けるという。そこには、有形の肉体よりも、無形の霊魂こそが人間の本質(動物との違い)であるとして、対象化・具現化しているのが、墓(モニュメント)である。
「遺骨がなければ墓ではない」と、外面しか見ようとしない、浅薄な思考ではなく、遺骨の存否にかかわらず、墓前で先人を偲び、学ぼうとする、人間の精神的営為の対象こそが、墓なのである。私たちは、人類発生(アフリカ)以来の先人から、長い年月を経て受け継いできた精神(知)を、次世代に渡すためにこそ、墓(モニュメントや記録)を必要としているのではないか。