ファクトチェックが民主主義をファシズムへと誘う危険な兆候
SNS上の誤情報対策として推進されるファクトチェック。しかしその美名の陰で、権力による情報統制システムが静かに構築されつつある。民主主義を守ると謳いながら、実際には民主主義の根幹を破壊する──21世紀型ファシズムの兆候を読み解く。
「2025年ファクトチェック元年」の欺瞞
2025年7月の参議院選挙で、日本の報道機関は200本を超えるファクトチェック記事を配信した。NHKはこれを「ファクトチェック元年」と命名し、民主主義を守る取り組みとして大々的に報じた。
しかし、この美しい物語の裏側で何が起きているのか。権力監視の役割を放棄したメディアが、政府と手を組んで「真実の独占」を図る──そんなディストピアの入口に、私たちは立っているのかもしれない。
この記事は、表面的な「誤情報対策」議論の欺瞞を暴き、その背後に潜む21世紀型ファシズムの兆候を解析する。情報技術とアルゴリズムを駆使した新たな支配形態は、私たちが気づかないうちに民主主義の基盤を内側から蝕んでいる。
問題は「フェイクニュース」ではない。問題は「誰が真実を決めるのか」だ。そして、その決定権を握ろうとする者たちの真の意図は何なのか。歴史の教訓を踏まえながら、現在進行中の情報統制の実態に迫る。
世界に広がる「真実省」の誕生
欧州連合が2024年8月に施行したデジタルサービス法は、プラットフォーム企業に対して「違法コンテンツ」の削除を義務づけた。表向きは「ユーザー保護」を目的としているが、実際には政府が「違法」と判断する基準が曖昧で、批判的な言論も対象になりうる包括的な検閲システムだ。
ブラジルでは2024年10月、最高裁判所がX(旧Twitter)を一時的に全面禁止した。イーロン・マスクが政府の検閲要求を拒否したためだが、これは民間企業が政府の言論統制に従わなければプラットフォーム自体を封鎖するという前例を作った。
インドでは2023年から「ファクトチェック・ユニット」が政府内に設置され、政府に批判的な報道を「偽情報」として認定する権限を持つ。情報技術法を改正し、政府が「偽情報」と認定したコンテンツをSNS企業が削除しなければ、プラットフォーム自体の運営を禁止できる法的根拠を確立した。
トルコでは2022年に成立した「偽情報法」により、政府が「公共秩序を乱す偽情報」と判断した投稿の削除と投稿者の処罰が可能になった。韓国では感染病予防法の改正により、政府発表と異なる感染症情報の流布が犯罪化された。
これらの事例が示すのは、「誤情報対策」という名目で世界規模の言論統制システムが構築されつつある現実だ。G7、G20といった国際会議で「偽情報対策」が重要議題として取り上げられ、各国が足並みを揃えて類似の法制度を導入している。これは偶然の一致ではなく、グローバルな情報統制体制の構築を意味している。まさにオーウェル『1984年』の「真実省」が、21世紀に実現されようとしているのだ。
権力監視ツールの権力統制ツール化
ファクトチェックは本来、政府や企業、メディアといった権力を持つ組織を監視するツールとして発展した。政治家の嘘を暴き、企業の偽装を告発し、報道の誤りを正す──それがファクトチェックの本質的機能だった。
ところが現在、このツールが真逆の目的に転用されつつある。権力者の発言は検証の対象外とされ、むしろ一般市民の発信こそが「要監視対象」として扱われている。
NHKの報道姿勢が象徴的だ。同局は日常的にトランプ大統領やイーロン・マスクのX投稿を「信頼できるニュースソース」として引用している。一方で、同じSNSプラットフォーム上の一般ユーザーの発信は「誤情報の温床」として警戒を呼びかける。
この露骨なダブルスタンダードが示すのは、問題が「SNSという媒体」にあるのではなく、「誰が発信するか」にあるということだ。権力者の情報は無条件に信頼し、市民の声は疑え──これは民主主義の原則を真っ向から否定する思想と言わざるを得ない。
Silicon Valleyとの共犯関係
問題をより深刻にしているのは、政府とテック企業の癒着関係だ。Meta(Facebook)の元幹部フランシス・ホーゲンが2021年の議会証言で暴露したように、プラットフォーム企業は政府の要求に従って内容の削除や表示制限を行っている。
特に注目すべきは「shadow banning(シャドウバン)」と呼ばれる手法だ。投稿を直接削除するのではなく、アルゴリズムによって意図的に拡散を抑制する。ユーザーには検閲されていることが分からないため、抗議も起きにくい。これは従来の露骨な検閲よりもはるかに巧妙で効果的な言論統制手法だ。
2022年に公開された「Twitter Files」では、FBI、CIA、国土安全保障省といった政府機関が、Twitter社に対して具体的な投稿の削除を要求していた実態が明らかになった。特にCOVID-19関連の投稿で、後に正しいと判明した科学的見解も「誤情報」として削除されていた。これは単なる企業の判断ではない。政府の指示による組織的な検閲だった。
日本でも類似の構造が形成されつつある。総務省は2023年から「プラットフォーム事業者との定期的な意見交換」を制度化し、「適切な対応」を求めている。表向きは「要請」だが、実質的には政府による圧力だ。
さらに深刻なのは、この圧力が「水面下」で行われていることだ。公式な検閲命令ではなく、「協議」「意見交換」「ガイドライン」という形で実施されるため、表面的には言論の自由が保たれているように見える。
2024年12月に発覚した「LINE情報提供問題」は、この構造の一端を明らかにした。LINE社が日本政府の要請を受けて、特定のキーワードを含む投稿を自動収集し、政府機関に提供していたことが内部告発により判明した。政府側は「公共の安全のため」と説明したが、実際には政治的な反対勢力の動向監視が目的だった可能性が高い。
この事件が示すのは、私たちの日常的なコミュニケーションが、すでに政府による監視の対象となっている現実だ。プライベートなメッセージも、「公共の安全」という名目があれば簡単に政府の監視下に置かれる。
「真実の判定者」は誰なのか
ファクトチェックの根本的な問題は、「絶対的な真実の判定者は存在しない」という当然の事実を無視していることにある。どれほど豊富な証拠やデータに基づこうとも、最終的に真偽を判断するのは人間だ。そこには必ず選択バイアス、解釈バイアス、文脈バイアス、権威バイアスが介在する。
もっと深刻な問題は資金の流れだ。世界の主要なファクトチェック機関の多くが、政府助成金や大手財団からの資金に依存している。国際ファクトチェックネットワークの主要メンバーである米Snopes.comは、Facebook(Meta)から直接資金提供を受けている。英国のFull Factは政府機関から、フランスのCrossCheckはGoogle Newsイニシアティブから資金を得ている。
日本でも、ファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)は、Yahoo!ニュースやGoogle、Meta Japanから資金提供を受けている。つまり、検閲される側のプラットフォーム企業が、検閲する側のファクトチェック機関に資金を提供しているという構造的矛盾がある。この資金関係が中立性を担保できるはずがない。
さらに問題なのは、ファクトチェック機関同士が相互に「権威付け」を行っていることだ。A機関の判定をB機関が支持し、C機関がそれを根拠に新たな判定を下す──こうして「専門機関による科学的検証」という外観を作り出しているが、実際には同じ利害関係者による相互承認にすぎない。
特に深刻なのは、ファクトチェック機関の人事構成だ。日本のファクトチェック・イニシアティブの理事には、大手メディア出身者や政府系シンクタンクの研究者が名を連ねている。米国の主要ファクトチェック機関PolitiFactの創設者は、民主党系の政治コンサルタント出身者だ。英国のFull Factの幹部には、政府の元広報担当者が含まれている。
これらの機関が「独立性」「中立性」を標榜することの滑稽さは明らかだ。しかし、メディアは彼らを「権威ある専門機関」として扱い続けている。この虚構の権威システムこそが、現代の情報統制の核心なのだ。
科学の政治化という危険な潮流
COVID-19パンデミックは、科学的議論の政治化がいかに危険かを如実に示した。WHO(世界保健機関)は当初「ヒトからヒトへの感染は限定的」と発表し、多くのファクトチェック機関がこれを「科学的事実」として扱った。しかし、この「事実」は数週間後に覆された。
マスクの効果についても同様だ。当初「一般市民のマスク着用は効果が限定的」とされ、異なる見解は「誤情報」として削除された。しかし後に政策が180度転換し、マスク着用が義務化された。
最も深刻だったのは、新型コロナウイルスの起源に関する議論だ。「研究所流出説」を唱える科学者の論文や発言が、一斉に「陰謀論」として削除された。ところが2021年5月、米国政府が起源調査の必要性を認めると、同じ内容の議論が「科学的仮説」として復活した。これらの事例が示すのは、「科学的事実」とされるものが、実際には政治的判断に大きく左右されるということだ。
そして今、気候変動、ワクチン、エネルギー政策といった分野で、同様の「科学の政治化」が進行している。政府や国際機関の見解と異なる科学的議論が「誤情報」として排除され、複雑な問題が単純化されている。
より深刻なのは、「科学的コンセンサス」という概念の悪用だ。科学における「コンセンサス」は、暫定的で修正可能な合意であるべきなのに、あたかも絶対的真理であるかのように扱われている。そして、このコンセンサスに異を唱える研究者は「科学否定主義者」として社会的に抹殺される。
気候変動研究で「太陽活動の影響」を重視する研究者は、研究費を得ることが困難になっている。COVID-19研究で「自然免疫の重要性」を主張した免疫学者は、学会から排除された。ワクチン研究で「副作用のリスク」を指摘した医師は、医師免許を剥奪された。これは科学的議論ではなく、異端審問だ。
歴史上、多くの重要な科学的発見は「異端」から生まれた。地動説、進化論、大陸移動説──これらはすべて当時の「科学的コンセンサス」に反していた。現在の「ファクトチェック体制」は、こうした革新的な発見の芽を摘んでいる可能性が高い。
批判的思考のベクトル操作
ファクトチェック肯定派は巧妙な手法で仕掛けてくる。たとえば、「批判的思考を身につけよう」と謳いながら、実際には選択的な思考停止を促してくる。SNS上の個人発信、匿名の情報、感情的な投稿、政府に批判的な言説に対しては批判が推奨される一方で、テレビ・新聞の報道、政府発表、専門家の見解、ファクトチェック機関の判定については思考停止が促される。
この二重基準により、人々は「自分は批判的に考えている」と思い込みながら、実際には権力側の情報だけを無批判に受け入れる思考回路を構築してしまう。この現象は認知心理学の「権威バイアス」と「確証バイアス」を巧妙に利用している。
特に教育分野での影響が深刻だ。学校教育において「情報リテラシー」の名の下で、「権威ある情報源を信頼し、SNSの情報は疑え」という画一的な判断基準が教え込まれている。文部科学省が2022年に導入した「情報I」という必修科目では、政府機関、大手メディア、学術機関を「権威ある情報源」として扱うよう指導している。一方で、個人ブログ、SNS、独立系メディアは「注意が必要な情報源」として警戒するよう教えている。
この教育を受けた生徒たちは、権力側の情報を無批判に受け入れ、権力に批判的な情報を自動的に排除する思考回路を身につける。高校生を対象とした調査(2024年、慶應義塾大学実施)では、「政府発表を疑うべきか」という質問に対して78%が「疑うべきではない」と回答した。一方で、「SNSの情報を疑うべきか」という質問には95%が「疑うべきだ」と回答している。
この結果は、批判的思考教育の完全な失敗を示している。批判的思考とは、あらゆる情報源を等しく疑い、証拠に基づいて判断することだ。特定の権威だけを信頼することは、批判的思考ではなく権威主義的思考に過ぎない。
歴史的パターンの再現──ワイマール共和国からナチス・ドイツへ
現在の状況は、1930年代のドイツと酷似している。ワイマール共和国末期、ナチ党は「民族共同体の敵」として共産主義者やユダヤ人を標的にしたが、当初は「合法的な政治活動」の範囲内で行われた。
ナチスの情報統制は段階的に進行した。1933-1934年には「国民の団結」を名目とした反対派メディアの段階的閉鎖、1935-1937年には「社会不安防止」を理由とした言論の事前検閲制度確立、1938-1939年には「国家安全保障」を根拠とした完全な情報統制が行われた。
注目すべきは、各段階で必ず「民主的な手続き」と「正当な理由」が用意されていたことだ。人々は「まさか独裁制になるとは」と思っていたが、気づいた時には手遅れだった。現在の「誤情報対策」も同じパターンを辿っている。
特に類似しているのは、既存メディアの積極的協力だ。1930年代のドイツでも、多くの新聞社が自主的にナチスの政策を支持し、反対派を「国家の敵」として攻撃した。現在の日本でも、メディアが政府と一体となって「誤情報拡散者」を糾弾している構図は、当時と瓜二つだ。
歴史家ハンナ・アーレントが指摘したように、全体主義の最大の特徴は「人々が自発的に自由を放棄すること」にある。強制されるのではなく、自ら進んで思考を停止し、権威に依存するようになる。現在の状況は、まさにこの「自発的隷従」の過程だと言える。
21世紀型ファシズムの進行パターン
21世紀のファシズムは、20世紀のそれとは異なる特徴を持つ。軍事力や物理的暴力に依存せず、情報技術とアルゴリズムを駆使した「ソフトファシズム」とも呼べる形態だ。
20世紀型ファシズムが物理的暴力による恐怖支配、明確な指導者崇拝、露骨なプロパガンダ、直接的な言論弾圧を特徴としたのに対し、21世紀型はアルゴリズムによる情報統制、「専門家」「科学」への権威委譲、「客観性」「中立性」を装ったプロパガンダ、「自主規制」による間接的言論弾圧を特徴とする。
現代版の最大の特徴は、支配される側が支配を「進歩」だと感じることだ。「AI技術による効率化」「科学的根拠に基づく政策」「専門家による合理的判断」──これらはすべて「良いこと」として受け入れられる。しかし実際には、人間の判断力を機械に委譲し、政治的決定を「技術的問題」に偽装し、民主的議論を「非効率」として排除している。
現在進行中の段階的プロセスは、2020-2025年の情報統制の正当化から始まり、2024年以降の異論の病理化を経て、制度的排除の準備段階へと進んでいる。近未来シナリオとしては、個人の信用スコア制度と連動した情報アクセス制限、リアルタイム音声認識による「危険発言」の即座検知、生体認証と紐づけられた完全な匿名性排除、「社会調和」を名目とした思想改造プログラムの制度化が想定される。
メディアの権力監視機能の完全放棄
最も深刻なのは、メディアが本来の役割である権力監視を放棄し、むしろ権力の情報統制に積極的に協力していることだ。本来メディアがすべき政府発表の検証・批判、権力者の矛盾や嘘の暴露、多様な意見の紹介、市民の判断材料の提供ではなく、現在は政府と共同でのファクトチェック、権力者の発言の無批判な拡散、市民の自主的判断の否定、権力批判の「誤情報」認定を行っている。
この背景には、メディア業界の構造的変化がある。デジタル化により広告収入が激減し、多くの報道機関が政府助成金や大手企業の資金に依存するようになった。独立性を保つための経済基盤が失われた結果、権力との癒着が不可避となっている。
NHKの予算構造を見れば、この問題の深刻さが分かる。年間約7000億円の受信料収入のうち、政府との関係悪化によるリスクは計り知れない。政府批判よりも政府協力の方が「合理的」な選択となる構造的歪みがある。民放各社も、総務省による放送免許の更新権限を握られている以上、政府に逆らうことは困難だ。
この状況で「独立したファクトチェック」など成立するはずがない。
「ファクトチェックをファクトチェックする」無限地獄
ファクトチェック体制が抱える論理的矛盾は、「誰がファクトチェッカーをチェックするのか」という問題に集約される。この無限後退のパラドックスが示すのは、絶対的な真実判定システムの不可能性だ。それにもかかわらず、あたかも「客観的な真実判定」が可能であるかのように装う制度を構築しようとしている。
この問題は、古代ギリシャの懐疑論者が指摘した哲学的な「無限後退」の議論にも通じる。あらゆる知識の根拠を求めていくと、最終的には根拠のない前提にたどり着く。「絶対的な真理」は人間には認識不可能だというのが、2000年以上にわたる哲学の結論だ。
ところが現代の「ファクトチェック業界」は、この根本的な認識論的問題を無視している。あたかも「科学的手法」によって絶対的真理に到達できるかのように装っているが、実際には特定の価値観や利害関係に基づく主観的判断を「客観的事実」として偽装しているに過ぎない。
例えば、「地球温暖化は人為的原因による」という命題は現在の科学界では「コンセンサス」とされているが、実際には複雑な気候システムに関する不確実性を多分に含んでいる。しかし、この見解に異を唱える科学者の研究は「気候変動否定論」として「誤情報」扱いされ、研究資金や発表機会を奪われている。これは科学的議論ではなく、政治的・経済的利害に基づく「正統性」の押し付けだ。
より深刻なのは、この構造によって「メタ認知」能力が社会全体で退化していることだ。「自分の判断が間違っている可能性」を考える能力、「権威ある情報源も間違う可能性」を認識する能力が、組織的に破壊されている。
デジタル・パノプティコンの完成
哲学者ミシェル・フーコーが分析した「パノプティコン」(円形監獄)の概念が、デジタル時代に完全な形で実現されつつある。パノプティコンでは、中央の監視塔から全ての囚人を監視できるが、囚人からは監視者が見えない。重要なのは、実際に監視されているかどうかではなく、「常に監視されている可能性」があることで、囚人が自己規制するようになることだ。
現在のSNSプラットフォームは、まさにデジタル・パノプティコンとして機能している。全ての投稿がAIによって自動監視され、「誤情報」の定義は不透明で予測不可能だ。アルゴリズムによる「見えない検閲」が横行し、ユーザーは自主規制で「安全な」発言のみするようになる。
特に恐ろしいのは、この監視システムが「ユーザーの安全のため」「誤情報対策のため」という善意の名目で構築されていることだ。人々は監獄に入れられていることを認識せず、むしろ「保護されている」と感じている。
中国の社会信用スコア制度は、この完成形の一例だ。個人の発言、行動、交友関係がすべて記録・評価され、スコアが低いと就職、融資、移動の自由が制限される。しかし中国政府はこれを「社会の信頼性向上」「詐欺防止」として正当化している。
日本でも、そのような兆候は既に現れている。2024年4月から本格運用が始まった「デジタル庁統合プラットフォーム」は、マイナンバーカード、健康保険証、運転免許証、パスポートなどの情報を一元管理する。政府は「行政サービスの効率化」を目的としているが、同時に個人の移動、消費、健康状態、社会活動のすべてが政府によって把握可能になる。
さらに、2025年度から導入予定の「デジタル地域通貨」システムでは、個人の消費行動がリアルタイムで記録される。政府は「地域経済の活性化」を目的としているが、実際には個人の思想傾向や人間関係まで推測可能なデータが蓄積される。これらのシステムは、表面的には「利便性向上」を目的としているが、同時に完璧な個人監視システムとしても機能する。
中国の社会信用スコア制度も、当初は「経済の信頼性向上」という名目で導入された。しかし現在では、政治的発言、宗教的信念、交友関係まで評価対象となり、低スコア者は就職、融資、移動の自由を制限される。日本のシステムも、同じ道を辿る可能性を誰も否定できない。
抵抗の可能性と限界
しかし、絶望的な状況の中にも希望の光は存在する。技術的抵抗として、分散型プラットフォーム(MastodonやNostr)、暗号化通信技術、ブロックチェーン基盤のメディアなどが発達している。これらは中央集権的な検閲を回避する可能性を秘めている。
法的抵抗も重要だ。各国で表現の自由を守る弁護士や市民団体が、違憲訴訟や行政訴訟を通じて権力の暴走に歯止めをかけようとしている。教育的抵抗として、批判的思考、メディア・リテラシー、認識論の基礎を独自に学ぶ動きが広がっている。権威に頼らず自分で考える能力を育成する草の根の取り組みだ。
しかし、これらの抵抗にも限界がある。技術的解決策は一般ユーザーには複雑すぎるし、法的闘争は時間とコストがかかりすぎる。教育的取り組みは長期的効果に期待するしかない。
最も重要なのは、問題の存在を認識し、議論を継続することだ。「陰謀論」として片付けられることを恐れず、権力の暴走に警鐘を鳴らし続けることが、民主主義を守る最後の砦かもしれない。
選択の時──民主主義か管理社会か
人類は今、歴史的な分岐点に立っている。
一方の道は、「完璧な情報管理システム」による秩序ある社会だ。AI技術によって「誤情報」は即座に検知・削除され、専門家が認定した「正しい情報」だけが流通する。社会の混乱は最小化され、効率的な意思決定が可能になる。しかしそこに自由はない。
もう一方の道は、混乱と不確実性を受け入れながらも、個人の判断力と自由を尊重する社会だ。間違った情報も含めて多様な見解が共存し、議論を通じて真理に近づこうとする。効率は悪いかもしれないが、人間的な尊厳がある。
現在進行中の「SNS誤情報対策」は、前者への道筋を敷いている。そしてその道は、一度歩み始めたら後戻りできない一方通行だ。重要なのは、この選択が「気づかないうちに」行われようとしていることだ。
多くの人は「便利さ」「安全性」「効率性」に魅力を感じ、自由を手放すことの代償を理解していない。歴史が証明しているように、自由は一度失われると、取り戻すのに何世代もの血と汗が必要になる。
今、私たちに求められているのは、不完全でも自由な社会の価値を再認識し、それを守り抜く意志だ。完璧な真実など存在しない。完璧な情報管理システムなど幻想だ。しかし、不完全ながらも自分の頭で考え、自分の意志で判断し、間違いから学ぶ自由──それこそが人間の尊厳の根源なのだ。
ファクトチェックという名の検閲システムに抗い、権威への盲従を拒否し、批判的思考を守り抜くこと。それが21世紀を生きる私たちの責務かもしれない。時間は残されていない。選択は今、ここで行われる。


コメント