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企画特集 3【神奈川の記憶】
(113)相次いだ「人権蹂躙事件」〈下〉
■「自白させろ」検事が指揮
◇陪審制導入で無罪判決続出
1935年前後から県内で社会問題となった「人権蹂躙(じゅうりん)事件」は、拷問により自白を強要しでっち上げた冤罪(えんざい)事件だった。
無理な捜査はなぜ行われたのだろう。
衆議院の速記録をたどると、県警察部の部長らを批判する発言が見つかった。だが、一つや二つの事件ではない。個人的な問題とは思えない。県議会の記録は、機密費から褒賞が与えられていたことを伝えているが、警察官の功名心だけでは理解できない。
すると「県警察史」(72年に県警が刊行)に県警察部刑事課次席だった警察官の回顧談が見つかった。
取り調べはすべて検事の指揮により行ったもので、「こうして調べよ」と命令されると、そうしなければならなかったと説明。そのうえで「汚名をきた警察官のために明らかにしたい」として検事の指導を具体的に列挙している。「証拠調べはしなくていい。自白させればいい」「多少の無理はあってもよいから、自白させろ」「確信をもって自白させてくれ。自白は確信の反映だ」といったもの。
自白第一主義の考え方が支配的で官尊民卑の風潮があった――と「県警察史」は指摘している。
*
検事はなぜそうした指示をしたのか。そこがなかなか見えてこない。天皇機関説事件が35年に持ち上がるなど思想統制が強化された時期だが、警察や検察の歴史に詳しい研究者に尋ねても、直接の原因、あるいはなぜ神奈川で多かったのかは思いつかないという。そればかりか「拷問や自白の強要は明治時代からあった」と指摘された。
そうして検討すると、どの段階で拷問が増えたのかは不明確で、確かなのは「35年ごろから社会問題になった」という事実であることに気付く。
その視点で振り返ると、画期が浮かぶ。陪審制の導入だ。28年に始まった。
市民から選ばれた陪審員が裁判で有罪か無罪かを判断するのが陪審制。死刑か無期の懲役・禁錮に処せられる可能性がある事件は原則として陪審で、それ以外でも被告人が希望すると陪審にできる制度だった。一方で辞退もできた。
横浜弁護士会は2006年に刊行した125周年記念誌に、戦前の陪審制のまとめを載せている。それはいくらか驚きだ。
28年~40年の間に陪審制で行われた刑事事件を調べた結果、横浜地裁では被告人の34・3%が無罪になっていた。東京地裁では17・2%、全国平均は18・8%なので高率にも見えるが、仙台地裁は64・7%であり、決して突出した数字ではないことが分かる。
「自白をもとに起訴しても陪審で無罪になった。その結果、警察や検察が批判を浴び社会問題となった」と調査をした間部俊明弁護士は考える。
陪審制の導入は大正デモクラシーの成果だった。平民宰相として知られた原敬が熱心だった。明治天皇の暗殺を企てたとされた大逆事件(1910年)が契機とされる。1人の証人も出廷しないまま判決が言い渡され、12人が処刑された。裁判のあり方に原は危機感を覚えたようだ。検察が政治的に力を持つことへの牽制(けんせい)との指摘もある。
普通選挙の実現に比べると知られないが、陪審制は大正デモクラシーが生み出した。そして市民の感覚が裁判で機能したことを示すのが「人権蹂躙事件」だったのだろう。県警察部長は37年の県議会で「拷問神奈川の汚名を返上し、県民に信頼される警察の建設」をすると答弁している。
*
だが、陪審制はうまく機能しなかった。松田の連続放火では182人と被告が多いことを理由に陪審は実施されなかった。次第に陪審を辞退する事件が多くなった。戦争へと向かう体制にとっては不都合な制度だったようだ。
そして43年に陪審制は「停止」する。労力や費用を戦争に結集するためで、「戦争が終われば復活させる」との方針が新聞には載っている。それと相前後して思想弾圧の横浜事件は始まっていた。
陪審制は明治初期から導入が検討された。西南戦争では、戦争の原因を明らかにするために陪審裁判をするべきだと福沢諭吉は主張している。明治憲法の制定時にも検討されたが、不平等条約の改正のためには強力な政府の確立が優先だとして見送られていた。
昭和戦前期の歴史は、米国との戦争へと向かう一直線の道のようにイメージされがちだが、大きな分岐点がここにもあったことが見えてくる。さらに明治にまで視野を広げると、国の形として「異なる選択肢」があったことが見えてくる。
陪審制の停止から66年の時を経て2009年に裁判員裁判が始まった。それを社会にどう生かしていくかは、繰り延べられた歴史の宿題を解く作業ともいえそうだ。
(渡辺延志)
【写真説明】
(上) 1936年の県議会の決議。「人権蹂躙ハ一大不祥事。不法行為ノ絶無ナランコトヲ望ム」と全会一致で可決した。拷問は社会的に容認されるものでなかったことを物語る=県立公文書館蔵の県議会議事録
(下) 松田の連続放火を伝える1937年5月の朝日新聞。「空前の保険魔大集団」の下に、「東京で陪審裁判?」の見出しが見える。被告が多く横浜での陪審は不可能との内容。右は7月の新聞で「免訴続出」「窮地に立つ浜検事局」と報じている
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