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ソロデビュー50周年 矢沢永吉 孤高のスーパースターの「長い旅」  中森明夫

矢沢永吉
矢沢永吉

 戦後日本最大のロックンローラー矢沢永吉がソロ活動50周年を迎えた。激情とロマンに溢れ返るシャウトは私たちを魅了してやまないが、その「長い旅」は平坦な道とは程遠かった。キャロル時代から矢沢を見続けてきた中森明夫氏が、秘話を交えてスーパースターの軌跡を辿る。

あなたの歌を聴くことができて幸福だった

 よろしく

 この四文字で、四つの音の独特のイントネーションで、誰だかわかる。そう、矢沢永吉である(「よろしくぅ」というほうがニュアンスが近いかも)。永ちゃん。ヤザワ。E.YAZAWA……いわずと知れたスーパースターだ。

 今年は矢沢永吉がソロデビューして、50周年である。50年!  すごい。現在75歳、秋には東京ドームでの単独コンサートを開く予定だ。当然、ドームでの最高齢記録を塗り替える。矢沢はいったいどこまで行くのか? 

50年前、1975年に私は上京した。三重県から東京の私立高校へと進学したのだ。15歳、見る景色すべてが目新しかった。

『ぎんざNOW!』という生放送の公開番組を見に行ったのだ。「男の木曜日」と称して出演者も観客も全員男性である。まだリーゼントヘアの清水健太郎が司会で「矢沢永吉さんを取材した!」と興奮気味に語り、VTRが流れた。矢沢はソロデビュー直後で「50歳になって『アイ・ラヴ・ユー,OK』を歌いたいね」と笑う。当時、彼は26歳だった。

 へぇ、と思った。白いスーツを着てワイングラスを片手に微笑むその姿……これはもうキャロルの矢沢じゃない!  革ジャン姿で『ファンキー・モンキー・ベイビー』をシャウトする永ちゃんとは程遠かった。ソロデビュー曲『アイ・ラヴ・ユー,OK』は、なんとも甘ったるいラブバラードである。それだけに矢沢の歌の上手(うま)さが際立つ。

 私の故郷は三重の漁村だった。1970年代前半、不良たちが大暴れしている。中学は坊主頭で、チョッパーの自転車に乗り、荷台に積んだラジカセからキャロルをガンガンに鳴らして突っ走る少年チャリ暴走族の姿があった。そうした田舎の不良仲間たちにソロになった矢沢は大不評だったのである。「永ちゃんは革ジャンを脱いでキンタマを抜かれた!」と吐き捨てた。

 私は複雑な気持ちがした。上京してアイドルや名画座やサブカル雑誌や、東京のポップカルチャーに身を投じた。20歳になる頃には、YMOやRCサクセションやテクノやニューウェーブにハマったりもして。しかし、時折、矢沢の曲を耳にすると、グッとくる。自らの感性の最古層には田舎の不良たちと聴いた永ちゃんの歌声があるのだ。1978年、矢沢は『時間よ止まれ』を大ヒットさせる。甘いラブバラードだ。不良少年のカリスマから一躍、一般大衆のポップスターへと変貌を遂げていた。

ああ、矢沢は、もうだめなのか?

 矢沢永吉は批評できない。批評する気になれないのだ。ミュージシャンとしては、ノリのいいロックンロールと甘いラブバラード―この2種類しかない(実際には違うのだろうが、そのように聴こえる)。ストレートの速球とよく落ちるフォークボール―たった二つの球種でメジャーリーグを制覇した野茂英雄投手のようなものだ。それで50年間もトップを走り続けてきたのだから、驚異的である。

 矢沢のファンは批評文なんか読まない。もっともよく届く言葉は、矢沢自身の発言である。そう、『成りあがり』だ。〈矢沢永吉激論集〉と称して、1978年に刊行。すぐに私も読んだ。感動した。活字なのに、矢沢が直接語りかけてくるような生々しい声が聞こえる。

〈銭で買えないものがある? 冗談じゃない おまえ そんなことが言えるのか〉

 上昇志向を丸出しにしていた。金が欲しい。ビッグになりたい。〈HOW to be BIG〉の副題がある。1980年、NHKの『若い広場』に出演して「矢沢さん、ビッグの次は何ですか?」と訊(き)かれて「グレート」と答えたのは有名だ。近年、再放送で確認したら、少しニュアンスが違う。ふっと笑った矢沢が「言葉の遊びをしましょうか?」と一拍置く(ここが重要!)、その上で「ビッグの次は……グレート!」と吐き捨てるのだ。かっこいい。なんとも不敵な30歳のスーパースターだった。

 ところが、数年後、同じくNHKの番組に出た矢沢は変貌している。アメリカへ渡り米国デビューしたが、ヒットに恵まれない。「今の矢沢、全米トップ50にランクされたら……涙を流すね」といった旨の弱音を吐いた。ビッグの次はグレート、その次は? と訊かれ、逡巡(しゅんじゅん)する。そうして、か細い声で「……幸せ」と呟(つぶや)いた。それから十数年後、『アー・ユー・ハッピー?』と題する『成りあがり』の続編が出版される。身内スタッフの詐欺に遭い、35億円もの巨額負債がのしかかる(「永ちゃんは借金もビッグです!」と芸人に笑われた)。なんとも苦い内容のものだった。

 ああ、矢沢は、もうダメなのか? しかし、そこから奇跡的な復活を遂げる。たった6年で巨額の借金を完済したと報じられた。ドラマや映画やテレビの歌番組にも出るようになる。大衆的スターになった。実は、もうこの時点で〈矢沢永吉という物語〉は完結していたのだろう。それでも矢沢は走り続けた。忌野清志郎も坂本龍一も大瀧詠一も、もはやこの世にはいない。吉田拓郎も現役を引退した。だが矢沢は、75歳になった矢沢永吉だけは、今でもステージに立ってロックンロールしつづける。

矢沢が秘密クラブで篠山紀信と邂逅

 四十数年ぶりに『成りあがり』を再読した。こんな一節に目を留めたのだ。

〈カメラの篠山紀信さんも『リブ・ヤング!』を見て、協力してくれる姿勢になってきた〉

 なるほどそうか、篠山はキャロルの鮮烈な写真を撮り、ブレーク前から矢沢と親交を持っていた。1990年代、私は篠山と一緒に仕事をしている。毎週のように会い、よく呑(の)み明かしたものだ。ある日、「中森さん、矢沢のライブへ行こう!」と誘われ、武道館へと行った。会場にぎっしりの男性客たちが、E.YAZAWAのバスタオルを一斉に投げ上げる。新鮮だった。ステージ上の永ちゃんは文句なくかっこいい。終演後、篠山はずっと「よろしくぅ」と矢沢の物真似(ものまね)をしていた。バーで篠山による矢沢永吉論を聞いたのである。

「あのさ、前に宝塚の男役のトップと矢沢のライブに行ったんだ。そしたら彼女、すごく感心していてね。『参考になる』ってさ。矢沢は素の男じゃないって言うの。〝型〟なんだな、ステージの上ではすべてがね。ほら、女形と同様の男形だって」

 へぇ、と思った。ステージ上の矢沢が男ではなく、〝男形〟だというのを、宝塚のトップ男役スターが見抜いていたのが面白い。矢沢とは一つのフォームであり、スタイルと見えたのだな(当然ながら、スーパースターは見る者によって変幻自在であるだろうが)。

 当時、篠山は東京の夜の怪しいスポットを撮る仕事をしていた。深夜のロケハンにつき合ったのだ。六本木の地下にある秘密クラブだった。薄暗い店内にテクノ音が鳴り響き、特殊装置による奇妙なライトが点滅している。先端人種とおぼしき客たちが踊っていた。フロアの中央に異様な気配がある。頭を上下左右に振って、全身を震わせる独自のダンスに熱中する中年男だ。あっ、と思った。著名なファッションデザイナーである。その姿を背後から見つめる長身の影が壁際に立っていた。連れの男性だろうか? どこか場違いな雰囲気が漂っている。

 そちらに近づいて、えっ、と声を上げた。……矢沢永吉である! まさか、こんなところで。心臓が止まりそうになった。矢沢は時折、周囲を見まわしている。なんだか居心地が悪そうだ。周りの客は、気づかないのか? いや、気づいていて反応しないのか?  矢沢自身もそんな疑念を抱いていたことだろう。スーパースターとして自然の自意識だと思った。

「矢沢永吉さんがいらっしゃいますよ!」と私は篠山に耳打ちした。壁際の長身の影へ、もじゃもじゃ頭の写真家が近づいてゆく。「篠山先生!」と声が上がった。「おう、矢沢さん!」。二人はがっちりと握手を交わす。矢沢は満面の笑みを浮かべていた。孤独な深夜のクラブでやっと知人を見つけて、うれしくてたまらない様子だ。矢沢は篠山の耳元で何やら盛んに早口でまくしたてている。

 篠山が私に手招きした。「こちら、作家の中森明夫さん」。私はおずおずと頭を下げて「矢沢さんにお会いできて光栄です!」と言うと、差し出された手を握りしめた。大きな、あたたかい手だった。ああ、自分は今、永ちゃんと握手している! 「田舎の仲間にめちゃめちゃ自慢できますよ」と思わずもらすと、矢沢はニヤッと笑って、私の肩をポンポンと叩いた。とても自然な大スターの仕草だった。

 ほんの10分ほどの邂逅(かいこう)である。「よし、次へ行こう」とうながされ、篠山と私は店を出た。外は、けっこうな雨が降り出している。折り畳み傘を開いて、私は篠山に差しかけた。六本木通りを西麻布方向へ50メートルぐらい歩いたろうか?  背後に気配を感じる。激しい雨の中を、誰か走ってきた。えっ。なんと……矢沢永吉だった!  我々が何も言わずに店を出たので、追いかけてきたのだろう。篠山も目を丸くしている。やっと追いついた矢沢は、ずぶ濡れで、ハァハァと息をつきながら「篠山先生!」と声をかけた。手を差し出して篠山とがっちり握手を交わす。「また……また、何か一緒にやりましょう!」と言った。そうして、再び、全速力で雨の中を店のほうへと走っていったのだ。去り際に例の「よろしくぅ」と告げて。

 唖然(あぜん)とした。すごい!  これが矢沢永吉なのだ。深夜2時、大雨の六本木の路上でも、ずぶ濡れになりながら……「矢沢永吉は、矢沢永吉」だった!!

独自の道を走り続けた孤高のロッカー

 日本版グラミー賞との触れ込みでMUSIC AWARDS JAPANの第一回授賞式が、5月に京都で開かれた。キング・カズことサッカーの三浦知良がプレゼンターとして登壇して、高らかに告げる。「……エイキチ・ヤザワ!」。颯爽(さっそう)とステージに現れた矢沢は赤いコートを脱ぎ捨てて『IT’S UP TO YOU!』を披露した。気持ち良さそうにシャウトしている。長きにわたる音楽活動を讃(たた)えて〈タイムレス・エコー〉なる賞が授与され、カズから手渡されたトロフィーを掲げて「最高!」と叫んだ。会場中の若いアーティストらが拍手している。司会の菅田将暉に「おめでとうございます!」と声かけられ「いや、僕もう50年近く歌ってるんですけど、こういった音楽賞は初めてかなあ……というぐらいです。本当に今日はうれしくて」と笑った。「今日いる若いアーティストにひとこといただいていいでしょうか?」と菅田に乞われて、微笑みながら矢沢は言ったのだ。「みなさん、がんばってください。50年、やってください!」

 ああ、いいシーンだな、と思った。独自の道をひた走ってきた孤高のロッカーを、ようやく日本の音楽シーンが認め、後輩ミュージシャンたちがリスペクトの拍手を送っている。それにしても……50年。その年月の重みがずしんと感じられる。缶ビールで乾杯したホロ酔いの私は、電話したくなった。「永ちゃん、見ましたか? かっこよかったですね!」と。篠山紀信に。しかし、篠山は昨年の一月に亡くなっている。歳月の流れを痛感して、寂しくなった。

 およそ半世紀も星として生きるというのは、どういう人生だろうか? どれほど孤独な「長い旅」だったことか? それでも……ヤザワ、E.YAZAWA、あなたがいてくれてよかった。永く生きるものだな。65歳の私は心からそう思う。同時代にあなたの歌を聴くことができて本当に幸福だった。ありがとう、永ちゃん。よろしくぅ。


◇なかもり・あきお

 1960年、三重県生まれ。評論家。作家。アイドルやポップカルチャー論、時代批評を手がける。著書に、『東京トンガリキッズ』『アナーキー・イン・ザ・JP』『午前32時の能年玲奈』『青い秋』『TRY48』など多数。近著に自身のアイドル評論人生の集大成たる『推す力』

<サンデー毎日8月31日号(8月19日発売)より>

サンデー毎日2025年8月31日号
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