漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画の作業を砂にする方法関連

 うろおぼえの話ですが、ツボに石を入れるみたいなたとえ話があって、デカい石をツボに入れたあと、そこに小石を入れ、最後に砂を入れてパンパンにするみたいな話で、その話の教訓は、デカい石は最初に入れないともう入れられないという感じの話でした。

 

 良い話だなと思いますが、そこからもう一つの結論も見出せると僕は感じていて、それは、「デカい石も砕いて砕いて砂にしてしまえば、入れられるタイミングを作れる」ということです。

 

 僕は会社員と漫画家の二足の草鞋をやっており、その上で、同人活動もしたり、原画展の企画をしたりと、色んなことをしています。それらを必ずしも計画通りにはできていないですし、今日も遅れていた仕事を気合でなんとかしたところですが、破綻はさせずになんとかできています。

 その、ギリギリなんとかなっている領域で意識しているのは、「各種の仕事をどこまで砂にできるか?」ということです。

 

 一日の生活の中で2時間集中できる時間を確保するのは難しいですが、5分だけなら見つかるかもしれません。その5分を一日に24回見つければ2時間になります。

 その5分に入るものが砂です。仕事を砂にできれば、その5分を活用できます。

 

 5分ぐらい手が空く瞬間を生活の中に見つけることはさほど困難ではないと思います。例えば、外食で注文した料理ができるのを待っている時間や、電車を待ったり乗っている時間です。人と待ち合わせをして待っている時間や、映画館について予告編が流れている時間です。短いですが、テレビやYouTubeを見ているときのCMの時間や、スプラトゥーンのマッチングの時間なども使えなくはありません。

 

 そのような時間を自然と活用できれば、生活を大きく変えることなく兼業が可能になります。

 

 別に世間の多くの人は兼業なんてしたくないと思いますが、僕みたいに、商業誌で漫画を描くチャンスが目の前にあるけど、会社を辞められるほどにそこに賭ける気にはならない人間にとっての希望の光が兼業です。

 兼業は上手くできれば、ローリスクです。ローリターンかハイリターンかは売れるものを描けるかによりますが、少なくともハイリスクローリターンを避けることはできます。

 

 さて、それではどのように砂にしていくといいでしょうか?

 大きな考え方は2つです。
 ①作業を細かく分割する
 ②分割した作業を瞬発力で処理できるようにする

 

 ①はまあどこかに切れ目を作ればできると思うんですけど、工夫が必要なのは②です。せっかく細かく分割した作業も、手をつけられなければ意味がないからです。

 5分なんていうわずかな隙間時間は、「やりたくないな」「めんどくさいな」と思っていたらすぐに過ぎてしまいます。作業チャンスはすぐに消えます。そもそも作業なんて基本的には気乗りがしないものです。なので、どうやって瞬間的に手をつけるかが重要となってきます。

 作業の分割は、おおざっぱに言えばコマ単位で分割、工程単位で分割、絵の中のオブジェクト(キャラの1人1人、背景の物体単位など)単位で分割などで考えています。

 そして、そうやって分割された作業があるときなのに、手をつけられないことがあります。手がつけられないときに自分の頭の中を観察してみると大抵、作業内容を実態以上に大きく感じています。

 分割しているのに大きく感じるというのがどういう状況かというと、それは「不確定要素が大きいとき」です。不確定な部分を過大に見積もってしまい、瞬発力だけの一瞬で手を付けるには作業量が大きいなと感じ、「今じゃない」と思ってしまうことで先延ばしにしていまい、手をつけられません。

 

 その場合の対策は、「不確定要素を排除し、作業量を見積もれる状態にすること」です。例えば原稿に大体のアタリは入れているものの、ペン入れでどのような構図にするかが確定していないときなどがそれにあたります。

 自分が今からやらないといけないことがクリアに見えていない場合、それは重たい作業になるので、重たいことはやりたくありません。

 

 例えば、「目の前のボタンを押してください」と言われたらすぐ押せますが、「この部屋のどこかにあるボタンを探して、マニュアルを参照して、正しいボタンを押してください」と言われたらとても面倒になります。部屋のどこにボタンがあるのかが分からないときに、「探すのかあ」と思った時点で頭の中に膨大な作業量が広がり、後回しにしてしまいます。

 そういうときは、例えば「部屋の区画の一部にボタンがないかを探す」というような、見積もり可能な作業に置き換えるとやりやすくなります。

 

 漫画の具体的な工程の話としてするなら、僕は基本的に構図は3Dモデルを使って決めています。その理由はパースの正確性もありますが(なお、正確であればいいというものでもない)、それよりも「試行錯誤のしやすさ」にあります。線で絵を描いて構図を探ると、線を描いたり消したりしながら何度もやり直して構図を探っていくことになりますが、3Dモデルなら、カメラをちょっと引いてみるとか、角度をちょっと変えてみるとか、人間の立ち位置を保ったままで様々な角度からよりよいの構図を探す試行錯誤がストレスなくできます。

 ストレスなく構図を探れるということはつまり、作業の見積もりが過大にならないということです。そうやって一旦3Dモデルでどこに何を描くかが決まれば、その後は見積もりしやすい作業になります。

 また、一旦キャラ同士の立ち位置を3Dモデルで固めると、次のコマの構図を決める場合に、既に前の立ち位置が決まった3Dモデルがあるので、そこからの変更で描くことができるようになります。3Dモデルをイチから並べる必要もなくなるので、作業の見積もりも小さくなります。

 

 このように、不確定なものを減らすことを意識しながら作業工程を分割することで、まずはこれだけやるかと思いやすくなります。

 自分が何を不確定で重たく感じるのかはそれぞれ作業を進める中で見極める必要があります。

 

 次にペン入れですが、ペン入れをするときに心がけるのは、「失敗してもいい」と思うことです。失敗しないようにペン入れをしなければと思うと力みがあり、力みは作業を重たくします。

 せっかくやり直しが簡単なデジタルで作業をしているのだから、失敗なんていくらでもしていいわけです。失敗したなと思ったら、そのレイヤの透明度を上げて下描きだったことにして、改めてペン入れをすればいいだけです。僕はこの二段構えを双龍閃と呼んでいます。ペン入れを一度失敗しても、まず何か描いてあるだけで、再度ペン入れをする際のガイドになるので、格段に作業がしやすくなります。

 

 下描きについて心がけているのは、「完璧な下描きを描こうとしないこと」です。完璧な下描きは正確になぞる必要がありますが、正確になぞろうとすると線が死に、完璧を破壊されたペン入れになります。ペン入れはあくまでいつも最初に一発で決めるという心持ちとし、下描きはその参考のためのガイドラインでしかないと考えるといいと思っています。なので、最悪、ぐっちゃぐちゃの下描きでもいいわけです。どこに何を描くかのガイドにさえなればいいので。その場合、下描きをするということが一息でできる簡単な作業になります。

 なぜならちゃんと描かなくてもいいからです。何か適当なものが描かれているだけで、ペン入れをするときの精度が上がるので、とりあえず何か描いておけばいいという話になります。そう、砂になってきましたね。砂のように下描きができるようになります。

 

 また、大事なのは「中途半端なところでも平気で作業を止めること」です。取り掛かる前に作業量を見積もってしまいますが、どこでやめてもいいならその作業量は小さく見積もることができるようになり、砂になります。例えばキャラの目だけ描いて終わりにしてもいいです。

 いつ止めてもいいことと思うことは、始めるハードルを下げる効果があります。

 

 実際、僕が作業をしているときには数分間をワンセットとして、すぐに飽きて作業を放り投げています。そして、数分間スマホを見るなどをしたあとで、またすぐに作業を再開します。そして数分後には放り投げたりします。

 漫画の作業をしているときは、ツイートも増えるのですが、それはSNSに何かを書くことも、漫画を描くことも同じぐらいの粒度の砂になっているので、隙間の中で入れ替え可能なものになっているからです。

 

 そのような感じに、色んな作業を細かい単位でむちゃくちゃに分散させながら、順不同に進める中で、ぼんやりと浮かび上がっているように進めているのが僕が今やっているやり方です。

 なんとなく、「順列都市」に出てくる塵理論にも似ているなと思います。時系列に沿って順番に進めなくとも、できるところから分散させて計算を進め、その中の主観ではその順序入れ替えに気づきもせずにつじつまが合います。何言ってるか分からない人は「順列都市」を読んでみてください。読んだうえで、全然違うじゃねえかと思うかもしれません。

 

 このように僕は、漫画の原稿をじんわりとあぶり出しで出てくるように描いています。非常に細かく分割した作業単位を、隙間時間に数分間だけ集中してこなし、それが十分な回数繰り返された結果として、コマが完成しています。いきなり10の作業をすることはできませんが、一息でできる1ずつの作業を空き時間に10回繰り返すことで終わらせていくようなイメージです。

 なので、飲み会とかで僕が飲みながら漫画を描いているところを見ている人は、僕がいきなり作業を始めたかと思うと、いきなりやめているような光景を見ていると思います。長時間集中することは大変なので、それは瞬間的に盛り上がったわずかなやる気を数分だけ消費してこなしている状態です。

 

 ここで重要なのはiPadを使っていることが前提で、作業を始めようと思ったら数秒で作業ができる環境が重要です。なぜならば、例えばアナログ原稿で、原稿や文房具を広げるところから始めないといけない場合、その作業量が大きすぎて、「やろうかな」と瞬間的に思っただけのわずかなやる気では作業開始にまで至らないからです。

 iPadで漫画を描いているおかげで、一瞬を逃さず数分だけの作業をできるようになって、このやり方ができるようになりました。

 

 このやり方の問題点は、作業の進め方がむちゃくちゃなので、一人で描くときはいいですが、アシスタントに仕事を頼むことが難しくなるということです。アシスタントの人に描いて貰うには、仕事を作らないといけませんし、手が空かないようにちゃんと段取りを考えないといけません。それは力みであり、力みがあると自然に自分の作業を進めることができなくなります。

 今は一人で描いているのでいいですが、人に手伝ってもらうことになったら、今のようにはできないだろうなと思います。

 

 まとめます。

 兼業で漫画を描く場合、毎日何時間かの集中する時間を作るのはとても大変です。時間のマネジメントも大変ですし、そのための多大なやる気を捻出するのも大変です。なので、わずかなやる気で数分間だけ集中して作業することを、回数を繰り返して進めていくという方法が、少なくとも僕には合っていることが分かりました。

 そのためには作業を細かく分割していくことです。そして、その分割された作業は一瞬のやる気だけで取り掛かれる見積もり量に抑えなければなりません。なぜならば量が多いと思ったら取りかかれないからです。

 そこで出てくるのが、不確定要素を減らすことを目的とした作業分割です。まずは不確定な領域を減らすことだけの手を付けやすい作業を作り、そこだけやったらいいことにします。そのように自分のわずかなやる気でできることに合わせたやり方をするのがいいと思います。

 

 さらには、本当にやる気がないときに、条件付けで進める方法もあります。心とは関係なく、この条件が満たされたら何かをするというように自分をしつけることで、例えば、この椅子に座ったらiPadを取り出すとか、やる気を消費せずに作業に取り掛かれるまで自分を制御できるようになると大変作業はスムーズになります。

 最大静止摩擦力のように、人の心も最初に動かすことに一番大きなエネルギーが必要で、一旦動き始めたらそれよりも少ないエネルギーで動き続けられます。そのように最初に必要なエネルギーを抑えるというアプローチも大切ではないかと思います。

 自分に合う方法で、少ないやる気で何かができるようにやる方法を模索してみるといいですね。

 

 ちなみに、こういう話をインターネットに書くと、「そんなことをしてまで漫画なんて描きたくないんですけど?」みたいなコメントがよくつくのですが、僕がそこに思うのは、描きたくないのなら別に描かなくていいと思うということです。こういう話はあくまで、できれば描きたいけど、今上手く描けていない人へのヒントになるかもという可能性に向けて書いているので、描きたくない人は最初から想定読者ではありません。

 「描きたいと思うのに、実際は描けなくて苦しい」と思うのは、以前の自分がそうであったという話で、その状況をなんとかするためにやり方に工夫を重ねているのが今回紹介したような考え方とやり方です。

 

 やりたい人はやってみてください。やりたくない人は一生やらなくても誰にも咎められるようなことではないと思うので、気にせず生きましょう。

 

【追記】

参考までに僕が実際にどれぐらいの下描きをして、ペン入れをしているかの例です。

 

漫画表現における「時間差立体派」という言葉の解釈関連

 先日、「士郎正宗の世界展」に行ったところ、士郎正宗先生が自身の絵の特徴について「時間差立体派的(笑)に歪んでいる」と表現されていました。僕は原画を沢山見た後にこのコメントを読んだので、ああそうだなあ、その歪ませ方がすごいと納得をしました。

 

 しかしながら、ネットを検索してみたところ、この「時間差立体派」という言葉について書いている人が見当たりませんでした。なのでその話を書いてみようと思います。

 「時間差立体派」という言葉自体は辞書的な参照先がなく、士郎正宗先生の造語、あるいは士郎正宗先生が属する何らかの集団の中でのローカル言葉ではないかと思うので、聞かないと正確な意味は分かりません。では、この言葉を皆さんはどう思いましたか?どういう意味で捉えたかをまず自分で考えてみてください。

 

 では、僕の解釈を書きます。

 

 立体派とはキュビズムのことなので、時間差の観点からのキュビズムであると思いました。つまり、キュビズムが対象物を複数の空間的な視点を独特の画風をもって一枚の絵に合成する手法とするならば、時間差キュビズムは、複数の時間的な視点を独特の画風をもって一枚の絵に合成する手法ということになります。

 一枚の絵の中に異なる時間的な視点が合成されたものとした場合、歪んでいるという言葉の意味も捉えられると思います。本来一枚の絵に入らないものを入れるためには、物の形は正確にはできません。時間の異なる絵を繋げて合成する必要があるため、必然的に歪むのです。

 

 これは漫画という表現における代表的な技法です。漫画の絵は程度の差はあれ、必然的に時間差立体派になっていくものだと思います。

 

 例えばこの絵を見てください。

 このような絵は漫画では自然にあるものですが、時間の観点からは不自然です。なぜならば、絵が一瞬の時間を切り取ったものであれば、右と左にいる人が同時に喋っているということになるからです。しかし漫画の読者は漫画的な視線の流れに従って、右の人がAと喋ったあとに、それを受けて左の人がBと喋っていると捉えるでしょう。

 つまり、時間が異なる人物が一枚の絵に合成されています。

 

 もし同じ表現をアニメでした場合、以下のように右の人が喋っている絵と、左の人が喋っている絵は別のコマになると思います。

 しかし、漫画ではこのように右の人が喋っているコマ、間のコマ、左の人が喋っているコマのようには一般的にしません(演出上必要な場合はすることもあります)。なぜならば、限られたページ数で物語を表現する上では効率が悪いからです。だから複数の時間を1つのコマに合成することで圧縮を試みます。

 

 他に分かりやすい事例で言えば、拳銃の発砲表現があります。銃口が光り、オートマチックのスライドが下がり、薬莢が排出されるのを1コマで表現している絵を見たことはないでしょうか?しかしながら、動画的に捉えるのであれば、火薬が爆発して銃口が光ったあと、その反動でスライドが下がり、そして薬莢が排出されるという順序があるはずです。実際に発砲されている拳銃の動画の中のコマを切り取ってもそんな絵にはなりませんが、拳銃を発砲して、銃口が光り、スライドが下がり、薬莢が排出されるという一連の流れを瞬間的に描くのであれば、このように時間を合成するのが効果的な表現になります。

 ちなみに、もしコマを分割して3つのコマで同じことを描いた場合、漫画演出上はスローモーションの表現として捉えられてしまうと思います。

 

 この時間の合成がとても求められるのがアクションの作画だと思います。色々な漫画を見てみると、漫画の中にも「動画的なアクション」と「漫画的なアクション」の演出があることにも気づくのではないでしょうか?動画的なアクションは、1コマに合成される時間の視点が少なく、漫画的なアクションは時間の視点が多いです。漫画的なアクションの事例としては、例えば「あずみ」や「瞬きのソーニャ」などでよく見る表現として、1コマの中に主人公の姿が複数描かれ、何人もの人を連続して倒すものがあります。これは主人公の動きがとても速く圧倒的であることが表現され、好きなものですが、絵を写真のように一瞬を切り取ったものとして見る人が見た場合、なぜ同じ人が1コマに何人もいるのか?と疑問に思ってしまう絵かもしれません。

 しかし、漫画を読み慣れている人はそうは思わず、コマの中の絵を追っていく中で、頭の中で自然に動画的に再構成して見れるものだと思います。

 

 そして、ようやく歪みの話になっていきますが、このような複数の時間的視点の合成は人体でも行われるものです。例えば、漫画における発勁描写を考えてみます。

 ①地面を踏みしめる足と、②それを下半身から胴を経由して螺旋状に腕に伝えていく流れ、そして③掌が敵に当たるインパクトの瞬間、④当たった敵が吹き飛ぶ様子、全て異なる時間です。身体の部位ごとに少しずつ時間がずれているため、人体デッサンとしては歪んでいるはずです。

 しかし、その歪んだ合成結果こそが、1コマに詰められる情報密度を最大化したものであり、漫画表現の持つ特異な良さでもあります。

 

 これはアニメーター出身の漫画家が、「絵は上手いのに何か物足りない」と言われるときの原因の一つだと思います。アニメーションの絵は1枚の絵で1つの時間しか描きませんが、漫画の絵は絵を歪めてでも、複数の時間を1枚に合成しているため、絵から受け取れる情報が合成された時間の数だけ増えます。

 先ほどの発勁表現のたとえで言えば、インパクトする瞬間だけの切り取った絵よりも、その前の地面を踏みしめてその力を掌に引き上げる時間が合成されている方が、情報量が多いと感じるというような原理です。

 

 ちなみにアニメーション的な絵が漫画においては下手だというわけでもなく、動画の1枚を切り取ったような絵なのに、その前後が想像できるすさまじい絵を描く人もいます。こちらは絵の上手さによって成り立つもので、仮にそんなに一枚絵が上手くなくても記号的な手法で情報量を増やせるのが漫画の良いところだと思います。

 これは漫画表現にアニメーションが劣っているということを言いたいわけではなく同じ絵に見えても媒体によって特性が異なるということだけを言いたい文章だと理解してもらいたくて書いています。

 

 そういえば僕が前にSNSでこの「漫画表現は時間のキュビズムである」という話をしたときは、「メダリスト」のアニメの表現が、原作漫画の表現の再現になっていないという話題のときだったのですが、メダリストの漫画表現もすさまじい情報の圧縮があり、一つのコマ、一つのページの中に時間を分解した動きの情報を合成して、実際の映像であれば何分もかけてみるようなフィギュアスケートの演技を数秒間の間に頭に叩き込まれるような体験があります。

 一方で、アニメでは時間に沿う形で描いていたため、目指している方向性が全く異なるわけです。そのため、漫画と比較すれば情報量がゆるやかで、ガツンとした体験は減っているかもしれませんが、その代わりとして、漫画では圧縮の過程で抜け落ちるものや、音などの漫画では表現が難しいこと、漫画表現ではどうしても抜け落ちてしまうものを補完するように描いていて、漫画では見えなかったものがアニメでは見えるようになったので、補完するようないいものだなと思いました。

 

 さて、士郎正宗先生の漫画をその観点から見てみると、そのような情報の圧縮をアクションのコマの各所で行っていることが読み取れると思います。コマの最初に目を持っていくところと、最後に目をやるところに時間差があるかどうかを考えてみれば捉えやすいのですが、時間が動いているのに、物体としては破綻せずに見えていて、具象的に詳細に描いているように見えて、その背後に情報圧縮を目的とした抽象化と歪みによる合成が存在しています。

 

 徹底的に情報を込めることを目的とした作画については、時間差立体派的な部分以外にも見て取ることができ、例えばパースの取り方があります。現在漫画の作画で用いられる写真をベースにしたものや3D作画では再現しにくい、感覚的なものを含んだ強めのパースで特に屋内は描かれることが多く、それはコマの中に必要な情報を詰め込むためではないかと思いました。画角的に入らないから描かないとかではなく、必要なものをコマの中に収めて描くためのパースです。

 

 コマの外の解説文を含めて、一枚の紙の中に、他の漫画ではなかなか見られないような大量な情報量を詰め込むという手腕がそこにあり、それはアニメ化されたものには存在しない、漫画の表現媒体としての特性を使い切ったようなものだなと感じました。

 

 具体的にどこがどうかは、これを読んでいる皆さんはご自身で単行本を確認してください。士郎正宗の世界展は大阪でも開催されるそうなので、それを見に行ってもいいです(なお、原画は複製原画になると聞きましたが)。

 

 士郎正宗先生は自身の世間的な評判について、何屋なのかが分からないと言われがちというような話も書かれていましたが、この漫画表現の突き詰め方からして、僕の視点からは紛れもなく漫画家です。漫画という表現媒体に対しての探求心があり、表現技法として突き詰められていると感じるからです。

 ここまで書いてきたものの、時間差立体派という言葉に対する僕の理解が正しいかは不明なので、実は完全に間違ったことを書いているかもしれません。もし、我こそは分かっているぞ!という人がいるならば、時間差立体派の意味について書いてみてくれると助かります。

褒める評価が行われにくい構造関連

 なんらかの商品やサービス、そして人に関して、評価をする機会やタイミングがあったりします。日本ではそういった場において、低い評価がつけられやすいという話があり、場所や対象にもよりますが、統計的にも傾向が出ていることもあれば、日々の生活の中でそれに直面することもあります。

 

 それって何らかの文化的なものなのかなと思いますが、それの傾向が温存されているならば、そこには何らかのメカニズムがあるのではないかと思うので、そこについて考えてみたいと思います。

 

仮説1:評価習慣が乏しい

 そもそも評価が行うこと自体に消極的という話もあります。その場合でも、我慢ならないと悪かったときだけ意見表明や懲罰感情によって積極的に評価を行うことがあるため、結果的に総合すると低い評価になりがちになってしまいます。つまり、評価を低くつけがちなのではなく、高い評価の場合は表明をしないことで結果的に評価が低く見えているという状態です。

 

仮説2:褒め方が分からない

 何かを褒めるときの語彙と、何かを貶すときの語彙で、後者の方が豊富であるため、貶す方向に言葉が重なりやすいということが考えられます。それは日常的に褒めて褒められるということをあまりやってこなかったという鶏と卵のようなものではないかと考えられます。どのように褒めるかが効果的かが分からないため、貶し言葉の方を多く使ってしまうという循環がある可能性があります。

 

仮説3:自分が褒められることに飢えている

 2とも共通する部分がありますが、日常生活の中で褒められる経験が少ない場合、しかし、自分では自分にはとても価値があると考えていると、それを表明したくなることがあると思います。つまり、人とのコミュニケーションの中で「自分はすごいんだぞ」ということを主張したくなってしまい、評価の場においても、自分以外の何かを褒められるタイミングを、自分自身を褒めることに使ってしまうために、評価タイミングを逸してしまうということがあるのではないでしょうか?

 その自分はすごいんだぞという主張は、相対的にそれ以外のものは自分よりもすごくないという主張となって、低評価をしていると解釈されると思います。

 

仮説4:評価を格付け的なものと捉えている

 自分以外の何かを高く評価することを、自分をそれよりも一段下げる行為と捉えている場合があると思います。3とも共通しますが、そうなると、自分を下げないためには自分以外の何かを褒めるわけにはいかず、逆に何かを貶して見せれば相対的に自分に価値があると確認ができるため、そのような傾向になるかもしれません。

 そのような人が何かを褒める場合もあり、それは褒める対象と自己を同一化した場合です。これがすごいということは自分もすごいとなる場合に褒めが発生し、さらに、それがすごいということを踏み台にして、別の何かをすごくないと貶せるタイミングでは、2つのメリットが重なっているために選ばれがちな行動です。何かを褒めるときに何かを貶す行動というのはこの考えで説明ができます。

 類似するものとしては、高く評価することを有限の資源と考えていて、その貴重なものを与えてやっているという態度もあるように思います。それは、なかなか褒めないことで褒めの希少性を上げ、それを与えることに意味を感じて欲しいという行動だと捉えられるため、それによって自分の価値を高めようとしているとも解釈が可能です。

 

仮説5:完璧であるということにこだわっている

 何かの9割9分がよかったとしても、残りの1分がどうしても受け入れがたいときに、9割9分がよかった話よりも残りの1分が悪かった話をしてしまうことがあると思います。そこにあるのは、「その1分さえなければ完璧だったのに」という気持ちではないかと思います。そこにこだわってしまうとき、9割9分の良さに関しては、そのほどんどがよかったにも関わらず、そのほとんどのよかった部分に言及されることが少なくなってしまうでしょう。

 

 他にも原因が考えられるかもしれませんが、このような仕組みが色んな場所で複合的に発生することで、全体として低評価がつけられやすい傾向が出ているのではないかと僕は考えています。

 

 とはいえ、自分が何かをしたときに良いところには無反応で低評価ばかりをつけられるとテンションが上がりませんし、どっちの方向に進めばいいかの手がかりにもなりにくいです。なので、もうちょっと改善した方がいいのではないかと思います。

 

 対策としては、「自分が良いと思ったときにはその部分をちゃんと表明すること」だと思います。これは、特に仕事などでは重要な部分で、人が作ってきた成果物にダメな部分だけ指摘していると、その部分は直ったものの、良かった部分まで壊れてしまっていることがあるからです。その場合、ここが良かった、この良かった部分は生かす形で直して欲しいと伝えた方が精度が上がりますし、実務的な意味を持った褒めがあると思います。

 

 良いところに何もリアクションを返さなくてもそれが温存されるというのは、たまたまそうなってくれたという運が良いだけの話で、そこで良いものを維持しようとする志が成り立たせているだけのもので、その志を持った人が去ったときに崩壊してしまう危険性があります。それを避けるためにも、物事を良くしていくためには、良い部分悪い部分の双方に対する反応を返していく必要があるのではないかと思います。

 

 僕の周りでは、人の良かった部分を気軽に素直に良かったと表現することが多いです。これの良い部分としては、他の人に褒められるということで日常的に満たされるし、不安にならなくて済むので、自分はすごいんだぞと他の人たちに向かって主張する必要性が低くなる部分です。余裕があることで、機会を他人を褒めることに使えるようになり、それによってそのサイクルがより強固になるので、良いことだなと思います。

 気を付けて欲しいのは、無理矢理褒めろという話ではなく、良いと感じた部分は感じたままに良いと表現することです。それはあくまで自分がそれをそう感じたというリアクションであって、それによって相互の関係性や今後の行動を調整するための手掛かりに過ぎません。

 上手くやっていくためには、良いも悪いも気軽に表明できる場を作って維持することで、常に「より良い」を目指せる場所にすることが大切だなと思います。

 

 褒めが行われにくい環境があったときに、その原因を場所にいる人間性の悪さに求めたりするのはあまり意味がないように思えて、皆自分がいる場所において最適な行動をとっていたらそうなっているだけなのではないかと思います。そういう構造があって維持されているという話です。

 なので、それによって居心地が悪いと感じるなら、構造をどのように変化させれば、別のメカニズムが動き出すかを考えるのがいいと思っていて、僕は自分が属している場所で日々そういうことをしています。

漫画の連載が終わるときの気持ち関連

 ヤングキングで連載していた「ひとでなしのエチカ」が、先日ジュブナイル編の完結を持って連載終了となりました。10月10日に最終の5巻が出ます。

 編集さんとは、どうにかして再開したいよねという話もしていますし、もともと同人誌だったので、同人誌としてなら新エピソードはいつでも描けるのですが、とりあえずは別の新しい連載を起こすことの方をしようと思うので、新エピソードは今後どのような形でできるのかを模索していこうと思います。少なくとも、もっと漫画を描く技術を向上させて、もっと固定ファンを獲得することは必要でしょう。

 

 連載が終わる理由はシンプルで「売れていないから」です。特に紙の本が売れていません。電子は紙よりも売れていますが、電子の売り上げが紙の本の売れてなさをカバーできるほどの水準にはありません。なので潮時だなと思っていて、終わること自体には「それがいいと思います」と思ったので異論はありませんでした。売れる漫画を作れなかったなという敗北感はありますが、それでも内容は面白いものを描いていると思えていたので、それを連載出来てエピソードの完結まで描かせてもらったことには満足感があります。

 

 現在紙で出版されている漫画に関しては、連載が続くかどうかの分水嶺は「増刷されるかどうか」にあることが多いと思います。なぜならば漫画の発行部数は巻を重ねるごとに減っていく(順番に買う人が多いので、当然前の巻より次の巻の方が発行部数は少なくなる)ので、どこかのタイミングで部数が減って採算割れをするからです。増刷すれば基準が増えるので採算割れせずに本を出し続けられます。

 新人の漫画の部数であれば1巻の時点で採算割れをしていることも多く、どこかで人気が出て増刷されるかもという期待で引っ張りつつ、どこかのタイミングでもう増刷は無理だと諦める、ということになると思います。その基準については、最近は最低〇巻は保証します、みたいなことを編集さんから伝えられることもありますね。

 

 ともあれ部数が減ると出版社も赤字を重ねることになりますし、部数の減少に合わせて作者に入るお金も減っていきます。僕は一人で描いているので原稿料で黒字ですが、スタッフを雇っている場合は原稿料がそれで飛んでいき、単行本で黒字を出すスタイルになるので、発行部数が減っているとクリティカルに効いてくると思います。連載が終わったとき赤字が残ったというケースも耳にします。その状態で無理に続けるよりも、早めに仕切り直して別の「今度は売れるかもしれない新しい漫画」を描いた方がいいという判断があると思います。

 なので連載が終わるのは別のもっと売れそうな漫画にチャレンジをするというポジティブな判断という側面もあると思います。

 

 紙から電子への移行が進んでいる中で、紙の本基準で連載の継続が決まるのはどうなんだ?という話はあると思うのですが、少なくとも僕は紙の本を出せるから商業出版に取り組んでいるという側面があり、電子だけなら自分で出すこともできるので、紙は出したいんですよね。

 一方で、紙の本をもう出さなくなったレーベルや出版社もあり、それによって連載の継続がしやすくなっているケースもよくあります。紙で出ていた本が、途中から電子のみになることもありますし、そこに不誠実さを感じる場合もあるでしょうが、紙とセットなら出せないで終わるものの、電子だけなら出せるので、せめてそれはやろうという苦渋の決断があるのだと思います。

 

 紙の本は海外では伸びていたりするそうですが、日本国内では縮小し続けています。その理由は色々あり、電子版への需要の以降や(ちなみに電子も頭打ちという話もありますが)、紙自体の高騰であったり、書店の減少による接点や販促施策の減少、売り上げの予測と在庫管理技術の最適化による余計な本を刷らないで済むようになったなどがあると思います。

 部数が減ればどこにも置いてない本になり、どこにも置いてない本が売れないという話になってくるので負のスパイラルです。そこに抗うには、売れる本だから置いて貰って、より売れる本にするという正のスパイラルが必要で、そのためにすべての漫画は作者も出版社も、上手く行くためのことをできるだけしていると思います。広告宣伝を頑張ったり、何かの賞を受賞するように応援したり、編集部でYouTubeを始めたり、試し読み試作やアプリを使った誘導など、色んな試みがされていると思います。

 でも、それでも実際に上手く行くのは一握りでしょう。

 

 そこで上手く行くまでどれだけチャレンジを継続できるのかということが重要なのではないかと思います。僕はまだしばらくはチャレンジできると思うので、継続しようと思っています。

 

 「ひとでなしのエチカ」自体はめちゃくちゃ気に入っている漫画ですし、連載をできてとても良かったです。子供の頃から大好きな漫画家さんたちに漫画をすごく褒めて貰ったり、ずっと心の支えにしてきたamazarashiの秋田ひろむさんに帯にコメントを貰ったり、GACKTさんにテレビでオススメをして貰ったり、こんなにありがたいことがあるのか?と思うような夢のようなことが沢山ありました。

 連載中に何人もの読者の方から熱のこもったお手紙を貰ったり、コミティアでスペースまで来てくれた読者の方からすごく褒めて貰ったり、感謝の言葉を貰ったり、描いて良かったなと思います。池袋のジュンク堂で特設コーナーを作ってもらったりもしました。

 

 おかげで、もともと同人誌で数十冊程度だけ売っていただけの漫画を、桁が2つ増えるぐらいには買って貰えたし、立派な単行本を5冊も出させて貰うし、連載にしましょうと言ってくれた編集さんにはずっととても良くしてもらっていて、とても良かったですね。問題は、続けていくためにはもう1桁多く売ることを目指さないといけなくて、僕にはそれができなかったということなのですが。

 

 もっと売るためにはどうすればよかったのか、次はどうすればいいのかを考えてはいますが、基本的には、読者にとって先を読みたいと思えるような面白い漫画であり、手元に置いておきたいと思えるような大切な漫画になるものを描くという部分であるように思います。もう一つ付け加えるなら、この漫画面白いよと人に伝えたくなるような漫画である必要があると思います。

 

 元々自己満足の同人誌であるという部分が影響していると思いますが、僕自身が面白いと思うことばかり描いてしまって、そういう読んでくれる人に向けたホスピタリティが不足していたように思いました。なので、もともと感性の合う人にはとても喜んでもらえたものの、それ以外の人を巻き込む力に欠けていたのではないかと思っています。一応その部分も考えて描いているつもりではありましたが結果を見ればできておらず、とても難しいですね。

 

 今回の連載終了は端的に実力不足だなと思います。実力不足で結果が出せなかった、という当然の結果です。でも、できるだけのものは描いていたので、読んで面白いと思ってくれた皆さん、色々と手を貸してくれた皆さん、ありがとうございました。まだ単行本作業中ですが、最終巻も良い本にするつもりなのでよろしくお願いします。もっと実力をつけて再チャレンジをしようと思います。

 

 amazarashiのジュブナイルの歌詞も最後こう終わります。

 「物語は始まったばかりだ」

 

 5巻の予約は各種ストアで始まっているので、良かったら買って読んでみてください!

www.hanmoto.com

 

2025年夏、最近の株式投資関連

 去年から株式投資を真面目にやろうと思って取り組んでいます。2025年に入ってからの現時点の状態、つまり2025年1月1日から2025年8月8日までの動きとしては、評価益を含めたプラスでは1200万円程度、そのうち利益確定したのは400万円程度という状況です。

 

 勝ってはいますが、4月にはトランプショックで評価益が200万円程度まで下がっていた時期もありますし、7月1日から7月31日までの1ヶ月だけの状況を見ると200万円以上のマイナスだったり、それが8月に入ってから一気に300万円以上増えているという情緒不安定な状況で、安定して勝てているとは言い難いです。

 株の評価益についてはこの瞬間の値であるという意味しかないものだと思います。何も保証されませんし、いつ一気に負けに転じるとも分かりません。

 

 また僕の取り組み方の問題としては、日中は会社で働いているため、仕事中は売り買いをすることもできません。朝と昼休みと市場が閉じたあとに株価を確認し、買いと売りの注文を先んじてしておくというのが日々のやり方です。買いは今現在の価格から一定割合を下げた額で注文をいれておき、売りも、ここまで上がるなら売ってもいい額として設定しています。

 

 前回株式投資について書いたときには、売るタイミングが全く分からないという状況でしたが、今はある程度手掛かりができていました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 まず原則論として「株は売らないこと」だと思いました。なぜなら売ると利益に税金がかかるので、それによって資産総額が減るからです。手数料もかかります。株価が長期的には統計的に右肩上がりになることを信じるなら、細かい値動きは無視して売らずに持っておくという正解があるように思います。それなのになぜ売るのかというと、「手元に現金が欲しいから」です。なぜ手元に現金が欲しいかというと、「それで別の株を買うから」です。

 

 つまり、「買うべき株を買うべきタイミングで買うために現金を作っておく、そのためにあらかじめ株を売っておく」というのが原則になるのではないかというのが今時点の考えです。

 

 その場合、売るのは価格が上がり調子の好調な株、買うのは買うそばから価格が下がっていくような株だなと思いました。なぜなら、「安い株を買って高く売る」という原則に従うためです。ただし、どの会社の株を買うかは価格で決めているわけではなくて、その会社の現在の状況と将来の展望を考えて、そのうち上がる時期があるだろうと思える株にまず絞り込んでいます。

 

 これをやると、資産の評価額自体は不安定になると思います。なぜなら上がっている株を手放して、下がっている株を手に入れているので、評価額の流れは右肩下がりになっていくからです。上がるのは、その下がり調子の株が上がり調子に反転したときで、それが起こるのは売買の直後ではありません。長期的なものとして取り組むべきだなと思っています。

 

 なので、自分の考えを信じて動じずに長期間待つということが大切だなと思います。この考えであるため、基本的に損切りはしませんが、損切りをするとしたら、会社の事業に不信感が発生したときだと思います。

 金額ではなく、長期的に付き合うことがリスクになると思うなら手放した方がいいという判断になります。なぜならこれまで書いてきたことのすべては、「長期的には株が上がっていく」ことを前提としているからです。ここに保証はありません。ある時間の切り取り方によっては、それが真でない時期もあるのではないかと思います。それが自分の人生の様々なタイミングと重ならないことを祈るばかりです。

 

 ちなみに僕が行った売りの判断は、利益を最大化するという観点からは既にある種の失敗を重ねていて、なぜなら売った株はだいたいそのあとでさらに価格が上昇しているからです。上り調子の株をわざわざ売っているのだからそうなって当然です。愚かですね。

 でも、そこで売った株で作った現金で、別のいずれ上がる可能性がある株をちょうどいいと感じたタイミングで買っているので、トータルで失敗であったかどうかはしばらく経ってから分かることだと思います。そして、その時点では正解だったと思っても、次のタイミングでは間違いだったとさらに認識が変わるかもしれません。

 

 基本的に長期的な株式投資において瞬間瞬間の正解にはあまり意味がないのではないかと思います。その正解は長期的な目線では不正解かもしれません。時間をどこからどこまでの期間で区切るかによって、同じ株のグラフを正解に見せることも失敗に見せることもできると思います。

 株の難しさは、長期的に勝つことが目的なのに、短期的な勝ち負けの方が気持ちに作用する力が強いことだなと思います。なので、ドルコスト平均法で無心に淡々と同じことを続けていくことが一つの正解であることにも理解が深まった気がします。

 

 とりあえず今考えていることはここまでですが、今後も続けていく中で色々考えが深まったり、変わったりすることがあると思うので、そのときにまた書くと思います。

 

 現時点の方針をまとめると以下です。

  • 事業に対する長期的な目線でどの会社の株を買う対象にするかを吟味する
  • 株価が下がっても損切りはしない
  • 一定の利益を確保したら別の株を買う現金を作るために一部売る
  • その後、売ったが株がどんどん上がっても気にしない
  • 株を買うタイミングは株価が下がり続けているとき
  • 買ったあとで株価が下がっても気にしない
  • 一定以上に下がったら、さらに買い増す
  • 安く手に入った株が上がるタイミングまで地道に待つ

 

 なお、ここには僕が会社員としての収入と、漫画家としての収入のダブルインカムで入金できるという前提があるので、僕の環境に特化したやり方で、一般的に上手く行く方法ではないと思います。あとは、どこの会社が長期的目線で伸びていくと考えるのかが一番大事なので、そこを見誤ると大損害が出そうな気がします。

 怖いですね。

ジークアクスにおける作劇の圧縮手法とニュータイプの物語関連

 機動戦士ガンダムジークアクスを全部見て思ったのは、「なんでこれを12話でやろうとしたのか?」ということです。その理由は不明ですが、本来26話程度はかけて描くような話を半分以下に圧縮したように見えて、最初から倍速視聴のような感覚で見ていました。

 それによって失われてしまうものもあると同時に、生まれているものもあると思ったのでその話をします。失われてしまうものは、結果良くわからないことが多いということで、埋めれているものは圧縮によって物語から目が離せなくなってしまうことです。

 

 僕の考えとして昔からあるのは、「人間は自分がギリギリ処理できるかできないかぐらいの情報を目の前にしたときに夢中になってしまう性質がある」というものです。逆を言えば、目の前の情報量が少なすぎると退屈してしまいますし、目の前の情報が処理できないぐらい多すぎると最初から見るのを諦めてしまうものだと思います。

 

 これは例えば、ニコニコ動画のようにコメントが流れるようにすると、コメントがない状態では退屈してしまうような映像も見ることができたり、音楽のテンポを速くすると単位時間の情報量が増えて聴けるようになったり、エヴァンゲリオンのオープニングのように追いきれない速度で沢山の絵を出すと見入ってしまったりするようなものです。

 ゲームは人のこういった性質を意識して作られていることが多く、ボタンを押したら何かが反応する短期的な情報処理と、レベル上げ的な操作の積み上げで生まれる中期的な情報処理と、全体のストーリーなどの長期的な情報処理を組み合わせて、プレイヤーが退屈せず夢中になれるように設計されていることが多いと思います。

 

 ここで問題は、人によって情報の処理能力や、何から情報を見出せるかが異なるということでしょう。

 例えば、サッカーの試合を見る能力が高い人は、フィールドの状況から戦術や個々のプレイの情報を見出して退屈せずに見れますが、見る能力が低い場合、点数の増減ぐらいしか読み取れなかったして、数十分に一回ぐらいの頻度で数字の増減があるものとしか捉えられず、全く面白いと感じられないかもしれません。

 

 話はやっと倍速視聴に戻ってきますが、倍速になることで単位時間あたりの情報量が増え、等速では退屈してしまうものを見れるようになる可能性があると思います。つまり、作劇そのものを倍速で行うことで、分かりそうで分からない領域を生み出すことができ、視聴者がそこに夢中になって見てしまうという人間の性質のハックとしての効果があるのかもしれないと思いました。

 

 こう感じたのは、ジークアクスの物語の中で様々な出来事が起こり続け、それを自分が飲み込める前にどんどん展開しているので、そこで起こっていたことを自分が分かったとは思い難いですが、一方で退屈せずに最後まで見られたからです。

 

 見ながら面白いなと思っていましたし、心が動いた場面も多々ありましたが、しかしながら、何が起こっていたかを分かっていたとは思い難いため、見終わったあとには、あれはどういうことだったんだ…という何も整理のつかない気持ちも残りました。

 何度も見ていくと整理がつくのかもしれません。

 

 さて、作劇の圧縮がどのような手法で行われていたかというと、不要な部分を徹底的に省略していくこと、外部の情報(過去作等)を使えるところはそちらに任せて作中では詳細に描かないこと、葛藤のパートをあまり描かずに決断を描くこと等だと思いますが、これらは全て「動き続ける」ことに繋がっているように思います。

 つまり、立ち止まるような描写をできるだけ行わないことで、常に何かが動き続けている状態を維持するということ、それはつまり「アニメーション(動かすこと)をやっている」ということとも捉えられます。

 

 確か「かぐや姫の物語」関連の高畑勲氏のインタビューで、アニメーションとは絵を動かすことで、ストーリーはそれらを繋ぐために存在しているに過ぎないというようなことが語られていたのを読んだ覚えがあります(うろおぼえです)。つまり、ストーリーにアニメーションが奉仕するのではなく、ストーリーがアニメーションに奉仕するという関係性です。そういう意味では、ジークアクスはそのような価値観に則っているように思えました。

 とにかく動かし続けることで、普通にやろうとしたら入らないような情報量を全12話に圧縮してみせたように思います。

 

 そう思ったときに、マチュという主人公はこの物語を牽引する存在であったことに思い至ります。彼女は「よく分かんないけどなんか分かった」という言葉を口にしますが、物事の論理的な理解や整理よりも感覚的に掴んだことを元に身体を動かしていく人であったように思います。つまり、彼女は葛藤の中で動けなくなることがなく、とにかく動いていく中で何かを掴んでいくという存在です。

 つまり、ジークアクスの超速の作劇は彼女が主人公であったからこそ成立したものであるように思いました。

 

 最終話で分かったと思ったのは、これがニュータイプの物語であったということです。そして、この物語で提示されたニュータイプ像を象徴するのがマチュです。ニュータイプとは宇宙に飛び出た人類を、牽引していくような新人類です。そこに必要な性質は、戦闘能力でしょうか?心で通じ合う超能力でしょうか?ジークアクスで描いた答えは「人を先に連れていくための誰よりも早く先に進んでいく力」ではないかと思いました。

 マチュはそんなニュータイプとして描かれていたように思います。誰よりも先に行ける者は、理屈に納得したから先に進むのではなく、それよりも先にもう進んでいる者だと思います。その意味ではエヴァンゲリオンのシンジくんとは真逆です。シンジくんは現状への納得と未来への確信が示されなければ先に進みたくないような人間でした。だから、シンジくんを中心とした話はなかなか動かないこともあったと思います。

 しかしマチュは今に納得がいかなくても、未来に確信がなくても先に走っていける人間であったと思います。その代償として頻繁に間違い、軌道修正をして、また間違い、そして軌道修正を続けて行きます。

 その結果、ゴールテープを誰よりも早く切ったような話だなと思いました。そこが面白かったです。

 

 この物語についてもう一つ思ったのは、ガイナックスの時代から、自作品の中にパロディを入れ続けて来たような人たち(スタッフはその時期からの人だけではないですが)が作った作品であるということです。人は過去の何かに影響を受けるものなので、何かを作っている人たちは自分がこれまでの何かに影響を受けていることへの自覚はあるはずです。でも、その何に影響を受けて来たかを見る人に分かるように描くということは、自覚的である態度だとも思っていました。

 自分が何に影響を受けて来たかを分からないようにして、オリジナルのように見せることもできるはずなのに、自分たちはこれに影響を受けてきたということを誇示するように描くのは、自覚的である、言い方を変えればそこから目をそらすことが不得手なやり方だと思います。そこには自分たちは新しいものではなく、過去の再生産をしているだけというような屈託もあるのではないか?と僕は思います。

 

 その意味で、ジークアクスは、その先を描こうとした物語なのではないかと感じました。過去にあったものを模倣し続けた先に破壊し、過去にはなかった自分たちの生み出したものとしてのマチュたちニュータイプをこの作品世界に残したと捉えられると思ったからです。

 ララァの夢でしかなかった世界が、元々はいなかったはずのマチュたちの世界として壊されずに残ったということが、過去作の模倣を自覚的に繰り返してきた作り手が、それらの先にオリジナルの世界と人を残した物語として捉えることができ、その場合、これは創作活動そのものの話のように思えました。

 

 そう考えるとジークアクスが過去のガンダムを元にする必然性のある物語であり、マチュたちがその中でオリジナルの主人公として駆け抜けた様子がよかったなと思いました。ただし、その場合、ここまでやってようやくプロローグだったようにも思えます。マチュたちがあの世界で生きる話がようやく始まったところであるようにも思ったからです。

 

 結局なんでたった12話であんな話をやろうとしたんだろう?という疑問は残りましたが、12話で成立させるための作劇圧縮技術を徹底的に見せられたような気がしていて、その部分も面白かったです。

 マチュとニャアンとシュウジの今後の物語を見たいと思いますが、それは別に作られないような気もしますね。とにかく毎週面白かったですし、見てよかったです。

【参考にならない】好きな漫画への推し活として原画展を開催する方法関連

 現在、大阪の心斎橋で三宅乱丈さんの漫画「イムリ」の原画展が開催中です(開催期間:6/7~7/6、水曜木曜は定休日)。

www.beartrap8833.com

 

 先日、いつも参加しているWebラジオに「好きな漫画を応援する方法って何がありますか?」という問い合わせが来たので、「原画展を開催する」という答えをして「そんな普通はできないことを言うな」という感じになったのですが、僕は今実際にそれをやっています。

 この文章ではそれを実現させるための方法について書きますが、おそらく誰の参考にもならないでしょう。

 

 「イムリ」は僕の人生においても重要な漫画で、この漫画で描かれていたことに生き方への影響を受けています。「イムリ」は累計100万部以上売れている漫画ですが、僕の感覚ではその面白さに対してまだまだ全然少なく、もっともっと読まれるべき漫画だと思うので、ほんの少しでもいいので読む人に増えてもらいたいと思っています。

 なので、既に読んでいる人にその話をする機会を得て貰うためにもと思い、原画展を開催することにしました。

 

 実現に際してのポイントは2つあります。「場所と仲間」、そして「許可」です。

 

 場所と仲間は、大阪の心斎橋に昨年オープンしたばかりの画廊、ベアトラップギャラリーに客として訪問したところで、原画展の企画提案をするチャンスを貰えたことで解決しました。それなりの期間の開催を行うには、僕自身の稼働では実現不可能です。ベアトラップギャラリーのノウハウがあり機動的に動いてくれる有能な皆さんの協力が得られなければ今回の開催は絶対に不可能であったでしょう。

 許可は、昨年、札幌まで三宅乱丈さんのサイン会に参加しに行ったときに、同じコミックビームで描いているよしみで連絡先を交換させて貰えたことにより、かなりスムーズに進みました。さらには、現在担当編集さんが同じなので、編集部に話を通すのも早かったです。

 

 この2つがクリアできたことで、「イムリの原画展を開催できる」ということになりました。

 

 本原画展の企画コンセプトは「僕が見たいものは皆も見たいだろう」というファン目線の原画展です。まずはファンの皆さんに喜んで貰いたい。でも、ファンのみの楽しみで終わると広がりがないので、初めて見る人にもお話の流れが分かるような展示にしたいと思いました。

 そこで、前期展示は宿命編と題し、主人公のデュルクとその双子のミューバがどのような宿命に翻弄されていったかの物語を感じられる展示にし、後期展示は群像編と題し、その周辺に存在した様々な立場の様々な人たちの生き様を感じられる展示というコンセプトにしました。

 展示される原画は全体からするとごく一部ですが、そこで物語の流れが感じられるような圧縮を行うことを考えています。

 

 原画は100枚程度、カラー原画は単行本の表紙だけでなく雑誌の表紙に使った絵も全てお借りしています。本当はこの何倍も原画を借りて展示したかったのですが、展示スペースが限られているため、血の涙を流す気持ちで厳選していきました。

 それを札幌の三宅乱丈さんの仕事場まで行き、一枚一枚確認しながらお借りしてきました。これが本原画展の裏の目的で、漫画家と企画者であることをいいことに、展示されないものも含めて、見たいものを見たいだけ見てくることができました。しかも三宅乱丈さんと丸二日お話をしながら。この時点で自分への報酬はプライスレスに入ったので、自分自身に対してはコスパが良すぎる企画です。

 

 さて、今回の展示の大きな目玉は、門外不出の設定ノートを展示してもいいと三宅さんに許可をもらったことです。NHKの漫勉でイムリの執筆風景が放送されたときに、チラ見せされていたノートです。僕はそれを見たときから、「これの中身を見てみたい」という欲望を抱えており、その欲望を叶えること、そして、イムリのファンなら同じ気持ちだろうという思い込みのもと、他のファンの皆さんにも見れる機会を作りたい!と思いました。

 

 三宅さんが言うには、設定ノートは人に見せるようのものではないとのことでしたが、札幌までやってきた僕の熱心な頼みにより、「ピエール手塚がそこまで言うのなら…」という感じに許可を出してくれました。そして、その抜粋をグッズにしてもいい許可も貰いました。

 

 最終判断をする人の許可を得られているので、あとは筋を通していくだけです。幸い、窓口は担当さんですし、ベアトラップギャラリーの人たちは過去、コミックビーム編集部とグッズ作成のやりとりをしたこともあり、そこをお任せすることができたのは幸運でした。

 さらにはベアトラップギャラリーのデザイナーさんはとても腕がよく、僕の曖昧な希望を汲み取って、いっぱつでいい感じのグッズデザインを出してくれます。僕の役割はコンセプトや名前を決めて、あとは出てきたデザインに喜ぶだけで済みました。

 

 僕は関東住まいなので、展示されたものを写真で送ってもらい、実際に額装されて展示された原画の並べ方について意見を出して、無事会期を迎えることができました。

 

 先週、大阪まで行ってきましたが、僕が選んだものと、あと会場の一部に僕の漫画の展示コーナーとグッズがあるので、自分の頭の中をギャラリーに再現できたようで実際に見ると、嬉しすぎてヤバかったです。

 ただ、本番はここからです。少人数で開催されている小規模な原画展です。内容は好きな人は喜んで貰えると思いますし、ここでしか見れないものが展示できたという満足感もあります。しかし、それをより多くの人に見てもらえなければ意味がありません。

 

 なので、この文章も少しでも多くの人に原画展の開催情報が伝わればと思って書いています。

 自己満足だけのために始めたわけではないので、会期終了まで人に知ってもらい、一人でも多くの人に見て貰うこと、そこからイムリの話をしたり、新たに読んで貰ったりすること、原画展は入場無料なので、グッズを買って貰ってギャラリーにとってもメリットがあるものとして終わることなど、まだまだ様々あります。

 これを読んでいるアナタ!実際に原画展に足を運んでみませんか?もしくは、グッズ通販を利用してみてはいかがでしょうか?グッズ通販は基本会期終了後になりますが、設定ノートを抜粋した冊子「古代ルーン秘録」は地理的に来れない人でも欲しい人が多いだろうと思い、既に買えるようになっています。よろしくお願いします!!

beartrap8833.shop

 

 最後にまとめると、好きな漫画の原画展を開催したいと思ったら、原画展を開催するための仲間を得ること、そして、その作者に許可をとることがまず必要です。

 僕は日頃から漫画の原画展に足を運び続けるオタクで、その作者と同じ雑誌で連載している漫画家であるという立場からそれらの条件をクリアしました。なので参考にならないと思いますが、手段は違っても同じ効果のあることができればできることではあると思います。

 さあ、皆さんも好きな漫画の原画展を開催してみましょう!!