第34回表情失った姉、一変した街… 刻まれた記憶「二度と起きてはならぬ」
つむぐ 被爆者3564人アンケート 川上繁治さん(94)
2歳上の姉は、被爆で変わり果ててしまった。
福岡市城南区の川上繁治さん(94)は、旧制中学3年生だった1945年8月9日、爆心地から約10キロ離れた造船所にいた。
「戦争なんて、愚かなことするもんじゃない」。80年前の夏の記憶を記者(23)に静かに話し始めた。
広島、長崎への原爆投下から80年となる今年、朝日新聞、中国新聞、長崎新聞が3社合同で被爆者アンケートを実施し、全国の3564人が回答を寄せました。福岡在住の川上さんを新人記者が取材しました。
川上さんは香焼(こうやぎ)島(現・長崎市香焼町)にあった川南造船所に学徒動員されていた。化学分析室で、残飯の加工や、「ノミ取り粉」作りを任されていた。
隊列や銃剣術など、学校での厳しい訓練と比べたら、働く方が好きだった。職員の薬剤師はいつも優しく、一緒に配属された学生ともうまくやっていた。
あの日もいつもと同じように出勤した。
午前11時2分。空襲警報が解除され、いつもより早めに弁当を食べていた時、ピカッと目の前が閃光(せんこう)につつまれた。「照明弾ば、落として馬鹿や」。周りが口をそろえた。
無我夢中で防空壕(ごう)へと走った。途中、1人の同級生が吹き飛ばされた。今思えば、山の合間から爆風が届いたのかもしれない。
少し経ち、恐る恐る高台に上って遠くを見渡した。「空がなんだかおかしい」。長崎市街の方に、黒々とした巨大な棒状の雲が、空までそびえていた。
夕方、水の浦町の自宅へ帰った。道中、頭や体から血を流している人をたくさん見た。「アメリカの新型爆弾が落ちたんだ」。そう叫ぶ人の声が聞こえた。
同じく香焼島に仕事に出ていた父や、自宅付近にいた母と弟、妹は無事だった。だが、爆心地にほど近い市街地の兵器工場で直爆した2歳上の姉だけ行方がわからなかった。
数日後、友人宅で保護されているのが見つかった。再会した姉はショックのためか、一切の表情をなくしていた。外傷はなかったものの、数日経つと、髪の毛がどんどん抜けていった。「軍国少女」と呼ばれた面影は、どこにもなかった。「いつもけんかをする、勝ち気で元気な姉じゃなくなっていた」
原爆を落とされた街は変わり果てた。稲佐山の木々は焼け焦げ、製鋼所は鉄骨がむき出しになっていた。現在の長崎大医学部の煙突は曲がり、山王神社の鳥居は1本足になっていた。
「普段見ていた街が、大きな建物が、こんなにも変わってしまうなんて」。その光景にぼうぜんとした。
終戦後しばらくは、十分な食料は得られなかった。「めまいがするような」空腹を感じる、つらい日々が続いた。
9月下旬、通っていた校舎が、米軍海兵隊の宿舎になった。たむろする海兵とよく話すようになった。
響きが新鮮な「アメリカ語」。皮肉なことに、彼らから英語を教わることが、日々の唯一の楽しみになっていた。「原爆を落とされたけど、敵だ、とかは思わなかったね」
英語の学習に没頭し、高校卒業後は連合国軍総司令部の民間情報教育局(CIE)が設置する長崎CIE図書館で働き始めた。結婚を機に福岡に移り、現在の福岡アメリカン・センターで勤務を続けた。渡米して研修に参加したこともあり、新しい文化に触れ、アートを好きになった。「原爆を落としたアメリカの海兵との出会いが、その後の仕事につながるなんて」
定年後は、福岡市内で画廊を構え、福岡アジア美術館で美術展を開催するなど充実した日々を送ってきた。現在も美術展の企画や作家の支援をしている。
一方で、原爆の記憶はいつまでも脳裏に刻まれている。
60歳の時、久しぶりに長崎を訪れた。グラバー園で中学校時代の旧友と出くわした。
昔話に花が咲く中、同じ造船所で動員されていた同級生が原爆で亡くなっていたと知った。彼は夜勤明けで、浦上の自宅で眠っていたところ、原爆に遭ったのだと聞いた。「優等生で真面目だった彼が……。あまりにも、かわいそうだ」。彼を思い出すと、いまも涙が止まらなくなる。
「世界のどこであっても、二度とこんなことが起きてはいけない」。80年経ったいま、改めて強く思う。
【3社合同企画】つむぐ 被爆者3564人アンケート
原爆投下から80年。朝日新聞、中国新聞、長崎新聞の3社は合同でアンケートを行いました。被爆者たちが私たちへ託した言葉をみる。
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