「5000万円で譲ってくれないか」
確かに、歌謡曲や演歌の印象が強いバーニングプロダクションは原田に似つかわしくない。ここで問題となったのは、新会社で原田を担当するマネージャーだった。周防は、いいマネージャーを育てるのは、タレント育成と同じほど難しいと評する。
「3~4ヵ月、マネージャーを探したのですが、見つからなかった。そのとき、渡辺プロダクションの社員が一人、アメリカへ勉強に行くという話を聞いたのです。その社員は、渡邊晋さんとのメッセンジャーボーイみたいな存在だったので面識があった。彼と話し合って、50対50の出資で会社を作ることになった」
その社員の名前を大里洋吉という。
大里は1946年に青森県青森市で生まれた。立教大学を卒業後、渡辺プロダクションに入社、ザ・ピーナッツ、キャンディーズ、沢田研二などのマネージャーを務めた。
「アミューズという名前は大里が考えた。ぼくは出資金は出すけれど、2人連名だとこちらにも欲が出るだろうし、お前がやりにくいだろう、ぼくの分も(権利を)持っていてくれという約束をしたんです。文書はありません。口約束です」
77年10月、原田は「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。ヒット曲となる「キャンディ」が入ったファーストアルバムはオリコン史上初の初登場1位を獲得した。作詞作曲を手がけ、ピアノを弾きながら歌う若き天才ミュージシャンとして人気となった。
周防がサザンオールスターズを知ったのはその翌年のことだ。
「うちの歌手である石野真子の打ち合わせをビクターでやるというのでぼくが付いていったんです。そうするとディレクターの東元晃さんが“おお、ちょっとお前、いいグループの曲が出来たから聴いてくれ”と言ってきた。東元さんは日本コロムビアでちあきなおみの『喝采』などを担当した人です。5曲聴いたのかな? 全部良かった。中でも気に入ったのが『勝手にシンドバッド』だった。それで東元さんに、この曲で行きましょうと言った。すると彼は“お前にあげるとは言っていないぞ”と。こんないい曲聴いたら、そりゃないでしょという感じです。1時間ほど粘って、誰に預けるのか聞き出したんです」
サザンオールスターズは、りぼん・なかよしグループというプロダクションに所属するという。ホリプロにいた奥田義行が井上陽水と立ち上げたプロダクションである。周防と奥田はホリプロ在籍時代は重なっていないが、面識はあった。
「奥田はぼくより一つ年下なんです。それで“おい、奥田、東元さんからグループ預かっただろう”って連絡をとったんです。5000万円で譲ってくれないかと持ちかけると、“周防さんがそういうならば分かりました”ということになった。それでぼくは大里に電話を入れて“おい、いいグループ見つけたぞ”と。それでサザンはアミューズ所属になったんです」
マネージメントはアミューズが担当、音楽出版権をバーニングプロダクションの子会社、バーニングパブリッシャーズが持つことになった。
バーニングパブリッシャーズはサザンオールスターズの音楽出版権を有しているが、実はデビュー曲から『いとしのエリー』までだという。なぜこのような複雑な関係になったのか、周防自身が明かした経緯は『ザ・芸能界 首領たちの告白』にてご覧いただきたい。
本書に登場する首領たち(登場順)
周防郁雄(バーニングプロダクション創業者)
本間憲(レプロエンタテインメント創業者)
堀威夫(ホリプロ創業者)
田邊昭知(田辺エージェンシー創業者)
平哲夫(ライジングプロダクション創業者)
マキノ正幸(沖縄アクターズスクール創業者)
長戸大幸(ビーイング創業者)
大﨑洋(吉本興業元会長)