絶景「浄土ヶ浜」の名前の由来と江戸時代“南部領内随一”の港町「鍬ヶ崎」の繁栄を紐解く 岩手県宮古市
岩手めんこいテレビ
岩手県宮古市の浄土ヶ浜は現在も多くの観光客が訪れる人気スポットです。 この「浄土ヶ浜」とその西側に位置する「鍬ヶ崎(くわがさき)」という地域の由来を探ります。 長年にわたり県内各地の地名について調査している宍戸敦さんによると、「浄土ヶ浜は江戸時代初め頃、宮古市の常安寺の和尚が『さながら極楽浄土のごとし』と称えたことに由来している」ということです。 浄土ヶ浜の西側に位置する「鍬ヶ崎(くわがさき)」という地域があります。 この地名の由来については2つの説があるといいます。 宍戸敦さん 「1つは「崩れる」という意味の「クエ」の崖、その先端(サキ)部分という意味から、「鍬ヶ崎」になったという説」 もう1つは、鍬ヶ崎の東側にある「館ヶ崎」と呼ばれる場所に、岩が2つ突き出ている崖があり、これが武将がかぶる兜のツノ=「鍬形」に似ていることから、鍬ヶ崎の由来になったという説です。(画像:宮古観光文化交流協会) 現在の宮古市魚市場がある漁港の辺りは、かつて「鍬ヶ崎浦」と呼ばれる大きな港でした。宮古市教育委員会の市文編さん室・田崎農巳室長は、「三陸沿岸の重要な港町として栄えていた」と話します。 宮古市教育委員会 市文編さん室・田崎農巳室長 「東が重茂半島、南は津軽石・赤前で陸地があり、北から臼木山が張り出していて、三方を陸地で囲まれているので、波がすごく穏やかで天然の良港の条件の一つとなります。特に江戸時代の帆船は長距離を進めないため、通る船は必ず鍬ヶ崎に立ち寄っていた」 多くの船が行き来した鍬ヶ崎の港。当時は江戸と交易を行っており、様々な海産物がこの港から送られていました。 宮古市教育委員会 市文編さん室・田崎農巳室長 「例えば宮古からサケ、タラ、マス、イカ、イワシ、昆布、塩などの海産物が江戸に売られた。反対に江戸からは衣類、お茶、薬、紙などの日用品が運ばれてきた。『鍬ヶ崎に来ればなんでも揃う』と言われ、多くの人で賑わう発展した街だった」 幕末に書かれた「三閉伊日記」という資料には、鍬ヶ崎の繁栄ぶりが絵で描かれています。町屋がひしめき合い、「御領一の繁地也」(南部領内随一の繁華街)と記されていることからも、当時の賑わいがうかがえます。 明治時代になると、鍬ヶ崎の「切通し」という場所ができたことで道が開通し、宮古市全体も発展したと言われています。 宮古市教育委員会 市文編さん室・田崎農巳室長 「文字通り『切通し』というのは、山とか丘を削ってそこに道を通すので『切通し』というんです。昔はこの山が海の方までずっとせり出して、通れないような感じになっていた」 かつては、鍬ヶ崎の町と宮古市の市街地をつなぐ道は、山の中を通る峠道でした。明治15年、「切通し」の工事が行われたことで海沿いの道が開通し、鍬ヶ崎の町と宮古市の市街地がより往来しやすくなりました。 宮古市教育委員会 市文編さん室・田崎農巳室長 「人の往来や物流が増え、宮古市の街も鍬ヶ崎の街も両方栄えていった。近代以降の宮古市の発展には、この『切通し』が大きく関係している重要な場所」 宮古市の鍬ヶ崎、人気の観光地・浄土ヶ浜の近くには、繁栄していた港町の歴史がありました。
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