水谷神社
三重県松阪市飯高町赤桶2507
そのまえに・・・
いかにして この神社に辿りついたのか
わらしべ長者並の
行き当たりばっちりぶりも書いておきたい。
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新米を玄米でゲットすべく
道の駅美杉(三重県津市美杉町上多気)まで。
御杖をすぎて美杉までくると「奥伊勢」という表示がでてくる。地図をよくみると、通ってきた道は「伊勢本街道」となってる。
あと少しがんばったら伊勢湾、伊勢神宮にとどきそうだというところ。
でもきょうはね、
ガソリン残量が微妙で、あまり自由きままに走れない。残念。
せめて周りを偵察して帰ろうと、
道の駅づたいに、美杉~茶倉~飯高まで回ってみた。
伊勢奥津
美杉町上多気・下多気
粥見
粥見井尻遺跡
飯南
飯高
有間野
んんん!
茶倉で気づいたんだけど、
「櫛田川」がそばを流れてるじゃんよ
おお~これがあの櫛田川か~~~
神崎・櫛田宮(櫛田三神=須佐之男・櫛稲田姫・日本武命)
博多・櫛田神社(大幡主(櫛田大神)・天照皇大神・素盞嗚(祇園大神))
松阪・櫛田神社(大若子命・櫛玉姫命・須佐之男・天忍穂耳・市杵島姫)
櫛田、の地名
飯高に行こう!と思ったのは、櫛田川を遡上する道沿いだから。
櫛田川ってどんな感じだろう
櫛田川に沿ってのぼってみよう!
そのまま宇陀・室生→都祁・針・水間ルートで帰宅ぞな。
で、ついたぞよ 道の駅 飯高(いいたか)
この辺ってなんか、、、信州、みたいな感じがする
空気感が。
建物の感じもなんとなくだし
飯高で飯縄を連想するというのもあるかも
でも理屈じゃなくて空気が「あれ?これ知ってる」どこだろう、と思ったら諏訪周辺の感じ
自分でも意外だったんだけど。
長野 戸隠のとなり飯縄山の飯縄権現
東大寺二月堂の鎮守のひとつ、飯道神社の飯道権現、こちらは甲賀の飯道山
いずれも山岳信仰で、飯縄権現がダキニとも烏天狗ともいわれ(本地は地蔵菩薩)、飯道権現は飯道神や宇迦御魂、のち熊野本宮から分霊して伊弉冊尊・速玉男・事解男。
なーんか 関係あったりしないかな
周辺地名に、飯南、飯高、粥見
ん?何て読むの?
ちんぷ?
いや、「めずらしとうげ」って
珍布 めずらし
珍しっていえば、
浮羽の珍敷塚(めずらしづか)古墳しか知らん。
地図ありますやん
道の駅なら必ず?ある、近隣の観光案内、大判のやつ。
その一点に眼が引き寄せられ…
飯高をさらに西に、櫛田川を遡上すると
川が蛇行して きゅ、と曲がったとこに
水谷神社。
(川系の神社、きゅ、と曲がったとこによくある)
説明のあたまに「春日大社」ってある。
あ~春日大社にあるわな、水谷神社。あの水谷神社?
春日さまの原点ともいえる重要なお社。
若草山の山焼きを観にいって、水谷さんの前を通る際にごあいさつしたら。参拝が終わった次の瞬間、ドーン!と雷が落ちたような音が響き、水谷さんの社殿越しに大輪の花火がみえた。一発口火を切ると、次々と打ち上がる花火。水谷さんがみせてくれた。驚きと感動で身動きできなかった・・・という、あの水谷さんね。
※春日大社摂社は「水谷」、こちらは「水屋」
おっちょこちょいのわたしはこの時点で気づいてない
それが櫛田川沿いにあんの?
こら行っとかないかんやろ。
・・・片側一車線の道路をすすむと
うおっ!鳥居じゃ~
鳥居の前は空いてるけど
車を止めちゃだめって看板が。
車を停めれる場所を探して
駐車して戻ってきて
冷静に神社前をみると・・・
車道をはさんだ反対側に
これドラム缶4~5本の大きさなんだよ
これは?赤桶
あかおけ、じゃないんだよ
これでAko(あこう)と読むんだよ~!
赤穂との関係は?
そんで
水屋の「閼伽桶」は(あかおけ)なんだよ~!
赤と閼伽の相関。
いや雄弁だね
赤=閼伽
赤桶の位置から撮った、水屋神社。
鳥居の向かって右手に並んだ掲示板を
全部掲載しておきますね!!!
お水祭りの水屋神社
閼伽桶の井
赤桶区内北垣戸に鎮座
毎年七月三十一日夜、水神輿渡御
水屋神社縁起
創建
千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。
その後大化四年(648)奈良の御笠山から素戔嗚尊、龍神姫尊及び櫛名田姫尊を勧請す。
和銅三年(710)興福寺東門領「閼伽桶の庄」となり慶長五年(1600)関ヶ原合戦以後伊勢領となる。
当社に遺る南北朝時代文中二年(1373)の棟札にも大和州閼伽桶庄宮と記されており三殿並立の朱塗の春日造も明治二十五年現在の神明造に改められた。
閼伽桶の井とお水送り
清和天皇貞観元年(859)十一月九日、春日大社に水送りし正月暦を刷ったと伝う。諸病平癒、諸願成就、水商売繁盛の霊水なり。現在は七月三十一日祇園宵宮に水みこしが本社に渡御する。
水屋の大楠
神木にして天然記念物、樹齢千年以上、根廻り二十九メートル樹高三十五メートル春日さま、お稲荷さまを祀る。
礫石の伝説
当社裏の香肌峡(※かはだ)六百メートル下流に石灰岩の巨石があり礫石と呼ぶ。左岸の上の古道に歌碑あり、弘化四年(1847)大庄屋、滝野知雄が、「流れてはむかしに帰る川俣川礫岩うつ水の白浪」と刻み、往古和歌山街道を往来する旅人はこの石に礫を投げ、一度で当たれば男児出産するとて旅情を慰めた。
伝説は昔お伊勢さまが白馬に乗って珍らし峠にさしかかられ水屋の森の奥から鹿にまたがった春日さまが出迎えた。二神は伊勢と大和の国境を決めるため笹舟を浮かばせ、巨石を投げ笹舟の留まる処を境とした。これ以後高見山が両国の境になったという。
宮家の御信仰
一品京極宮家仁親王の胡佐の宮誕生報恩の令旨が奉納されている。
本居宣長の歌碑
当社の西方二百メートル赤桶橋たもとに建つ
いにしへにたがおこなひしなごりとて名にはおひへん閼伽桶の里
※「千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。その後大化四年(648)奈良の御笠山から素戔嗚尊、龍神姫尊及び櫛名田姫尊を勧請す。」
⇒ この縁起では、春日大社ができる100年以上前に春日大社から勧請したことになっている。
(春日大社公式では創建768年、実際の祭祀は奈良時代初期に遡るとするが、それでも大化4年(648)には及ばない)
水屋神社は春日との結びつきを明確化するために春日大社、天児屋根命の名を出しているが、
春日大社って本来は素戔嗚、龍神姫・櫛名田姫の社(水谷神社)だった? そして春日大社ご神体山の御笠山(若草山)の神は、武甕槌以前に素戔嗚、龍神姫だったのでは。
※和銅三年(710)興福寺東門領「閼伽桶の庄」→慶長五年(1600)関ヶ原合戦以後伊勢領
710年は平城京遷都の年。このタイミングで興福寺領。その名も「閼伽桶の庄」。
最初から春日大社との関係、この地の役割=閼伽の供給が暗示される。
伊勢と大和の国分伝説と礫石のいわれ
むかしむかし、白馬に乗ったお伊勢さまが赤桶の里の峠にお越しになりました。
そして「誰か国ざかいを知る者なきや」とおっしゃいました。
すると水屋の森から鹿に乗った白髪の翁が出迎えました。
お伊勢さまは「あら珍しや 春日の神ではないか」と喜ばれ 伊勢と大和の国境を決めようと笹舟を作り、そばにあった大石を川中に投げ入れ、舟の止まったところを境にしようと約束されました。
大石は礫のように投げられました。波は逆まき笹舟は川上へと押しやられやっと舟戸の里で止まりました。波はさらに高見山を越え杉谷村で消えました。
お伊勢さまは「おっと過ぎたにおっと過ぎたに」と手を打って喜ばれました。両国の境は高見山と決まりました。
今も礫石と呼ばれて巨石が珍らし峠の麓の川中に、でんと据わっています。
往古、和歌山街道を往き来する旅人は、この礫石に小石を投げ当たれば男子が授かるとて旅情を慰めました。
礫石の上の小道にひっそりと歌碑が建っています。
ながれては
むかしに帰る 川俣川
礫いはうつ水のしら浪
弘化四年春 滝野知雄(ともかつ)
と刻まれております。