牟田都子 Satoko Muta

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牟田都子 Satoko Muta
@s_mogura
1977年、東京都生まれ。本の校正をしています。著書に『文にあたる』(亜紀書房)、『校正・校閲11の現場』(アノニマ・スタジオ)ほか。アイコンの花入は竹工芸家・初田徹作。 ※勝手ながら校正の新規ご依頼は辞退申し上げております。 instagram.com/satokomogura
東京, 吉祥寺shiorisha.blogspot.comBorn 1977Joined October 2009

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写真家植本一子さんの自主制作エッセイ『ここは安心安全な場所』の刊行記念イベントにおじゃまします。渋谷SPBS本店にて、9月25日(木)19:00から。 植本一子×牟田都子「自分でつくる、小さな避難所」 『ここは安心安全な場所』刊行記念(会場参加/オンライン)
書店で『ネットはなぜいつも揉めているのか』を見かけるたび『ネコはなぜいつも揉めているのか』と読んでしまって、「なぜなのか、私も知りたい……」と思う。
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本を読むっていうのは結局、ちょっとでもましになりたい、ちょっとでもよく生きたい、という祈りみたいなものなのだと思う。私にとっては。
以前Twitterで見かけた、「すべての単語を辞書で引いてレポートを書いてごらん」と先生に勧められた学生さんが、文章が激変したという話、この場所で得た数多の智慧の中でも一、二を争う。 (どなたがおっしゃっていたのか記憶になく、遡ることもできなくなってしまっていてごめんなさい)
キリンジみの高さというコメントが多数よせられています
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牟田都子 Satoko Muta
@s_mogura
1stアルバム発売中 みたいなの撮れた
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言葉にするっていうのは、豊かな語彙を持っているとか、テクニックに優れているとか、そういうことだけじゃなくて、どれだけ自分を手放さずにいられるか、自分の中で形にならずうごめいているものに形を与えようとして、苦しくてもあきらめずに踏みとどまれるか、という面もあると、私は思う。
「本はゆっくり読むほうが早く読める」と書いていた人がいて、半信半疑で試してみたところ本当だった。何もかも忘れてしまうこの頃、どこで読んだ誰の言葉だったのかもはや思い出せず申し訳ないことだ。
「見たほうがいいよ」と友人が教えてくれた「NHKアカデミア」の吉本ばななさんの回。頭にしみこませたくてくり返し再生している。「10年続けたらかならず何かにはなりますから」ってお父さん(吉本隆明)と同じこと(笑)言いながら、「10年続ける」ための秘訣を説かれてた。
娘「桃太郎読んで」 母「昔々…」 娘「もっと校正・校閲っぽく」 母「『昔々あるところに』とありますが時代設定と場所明確にはしない? 道中携帯する食料についてきび団子しか記述がありませんが栄養偏りませんか? 犬、猿、キジはそれぞれ生息地域も活動時間帯も異なりますがママOK?」
言葉にならないものをどうにかして言葉にしようとして格闘する過程や負荷こそが人を鍛えるのではないかと思う。「言語化」がもてはやされることに対する自分の違和感は、その過程を通り過ぎて結果だけに着目しているように思えるからかもしれない。
「小説家になろう」みたいな投稿サイトで書いている人、カルチャースクールに通っている人、文学賞に応募している人、デビューしたばかりの新人作家……が「書く」ために知っておきたい「校正」と「調べ方」の基本が一冊にまとまっている本が、ないんですよね。需要はあると思うんだけど。
生き延びた人だけが「私は生き延びた」と口にできる。そこに至りつくことのかなわなかった人の言葉を私は聞くことができない。そのことをずっと考えている。
私は長いこと本を「買わない」のじゃなくて「買えない」人だった(主に金銭的な理由から)。 だから「本が売れない」というときの「売れない」に、「買えない人」はどれくらいの割合なのだろうと考えてしまう。
いわゆる就職氷河期世代として、正規雇用を望みながら今に至るまで一度も叶わなかった苦しさとは別に、学校を卒業して社会に出たとき、職を得られないことで自分は誰からも必要とされていない人間なのだと言い渡されたように感じた、その傷みたいなものはいまだに消えることなく残っている気がする。
強すぎる言葉を無防備に使い続けるうち、言葉にむしばまれ、やがて言葉に乗っ取られたかのようにふるまう人たちを見ていると、これこそが「言葉には力がある」ということの証左ではないかと思えてくる。
正社員になりたかったのになれなかったという思いを、もう少し倍率の高いレンズで見てみると、「社員と同じ仕事をしているのにお給料は何分の一」とか、「社員は冷蔵庫を使えるけど非正規は使っちゃだめ」とか、そういう(一見些細なことも含む)いろいろで傷ついて、その傷が癒えていないのかも。
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牟田都子 Satoko Muta
@s_mogura
「フリーランス」になろうとしてなったわけじゃなくて、正社員として働ける場所がなかったからいまの働き方をせざるを得なかっただけ、という人だっているよね。
『家がぐちゃぐちゃでいつも余裕がないあなたでも片づく方法』は、「ていねいに生きる必要なんてない、でもあなたは自分を誰よりもていねいに扱うべきだし、あなたはていねいに扱われる価値のある人間だ」ということをくり返しくり返し言い続けてくれる本で出だし数十ページですでに涙ぐんでいる。
図書館に勤めていたとき、30万冊の本を毎日、何年間も見続けて、どんな本がどこにあるかを覚えていた。このときの「覚える」は書名や著者名にとどまらず、書体や色、大きさ、厚さ、紙の質感、経年による変化、すべてが複合して一冊一冊の「姿」を構成する記憶だったと思う。
きのう編集者の人としゃべっていて、「読者は本に書いてあることだけを読むとは限らない。著者が書かなかったことを読むこともある。それが本のおもしろいところである」という話になったの、忘れないようにここに書いておきます。
パスポートのデザイン云々より身分証明として使用できなくなったことに言及している人をあまり見ない。こうしてじわじわ外堀を埋められマイナンバーカードを作らざるを得ない状況に追い込まれていると感じているのは私だけなんだろうか。そして銀行口座を紐付けされるとか、怪談よりこわい。
応援したい本屋で毎月1500円の単行本一冊と1000円の雑誌一冊を買ったら、一年間で3万円になる。そういう人が10人増えたら30万円、50人になったら150万円、100人になったら300万円だ。クラウドファンディング以外にも本屋を応援する方法はある。私は私のやり方で好きな本屋の応援を続ける。
この何年か、小説を読むことから遠ざかっていたのだけど、今年になって人から勧められて『水車小屋のネネ』を読み、『BUTTER』を読み、『ババヤガの夜』を読み、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』がどれだけ素晴らしかったかを友達と語り合い、「次はなに読もう……」となってます。
むずかしい本に挑戦して全然読めない、読み切らない、というのは、筋トレでダンベル上げようとして上がらなかったみたいなもので、読めなかったから無駄なのではなく読めなかったをくり返すうち読めるようになっていくものだから、むしろ読めなかったをくり返している自分を讃えるべきではないか。
この一年いろいろあってほとほと疲れたよって思っている人は自分で思っている何倍も疲れているし、自分はさほど疲れてないって思ってる人は自覚していないだけで確実に疲れている。そう思ってすべての人が過剰なくらい自分をいたわったりねぎらったりしたほうがいいと思うんです。
いまどきTwitterでおすすめの本とか記事とか展示とか書いても誰の役に立つこともないのかもしれないと思いながら、でも私がTwitterをやっててよかったなありがたいなって思ったことのひとつはそういうお知らせだったから、瓶詰めの手紙を海に流して忘れるみたいにこれからも流していこうと思った次第。
今晩10時から放送のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」は『校正のこころ』(創元社)の大西寿男さんの回ですね。河出書房新社の『文藝』が全面協力ということで、文芸誌の校正の現場(といっても各社各誌違うものだと思います)が見られそうだと楽しみにしています。
体調のよくないときは、初めて読む本をなかなか読み進められない。旅先で知らない街を歩くようにエネルギーを使うから、面白いとわかっていても、身体がついてこないんだと思う。一度読んだ本は、慣れ親しんだ地元の街を歩くみたいに勝手に足が動いて目的地に着くから、弱っているときでも読める。
この受賞で、すぐれた海外文学を日本の読者に届けようと尽力されてきた出版社や翻訳家やエージェントの人たちが、少しでも報われることがあったらいいなあ。
小さいころ、本を読んでいるのを大人の都合で中断(食事とか入浴とか就寝とか)させられるのがほんとうにつらくて、大人になったら好きなときに好きなだけ本を読んでやると思っていた。いまそれを実現できているだけで生きていてよかったと思う。
なぜSNSで自分の職業(本の校正)について発信を続けているかというと、校正は「黙っているとなくなってしまう仕事」ではないかという危惧があるからかもしれない。
「言語化」できることがもてはやされるのは、情動に訴えかける(いわゆる「エモ」を揺さぶろうとしてくる)ものが世の中にあふれていることの裏返しなのじゃないかと思ったり。「エモさ」は「言語化」しにくい。だから「言語化」できているように見えると賞賛が集まる。