瓢塚古墳の話
車谷長吉の「忌中」という短編集の中に「古墳の話」という小説がある。長吉が高校生だった時分に強姦され殺された女友達を弔うために、瓢塚古墳の頂上に立ち祝詞をあげるという話だ。
私はいまから二十年前の三十九歳の九月の終わりに、三度目の離婚をして職も失い、ついには浮浪者にまで身を落とし、薄汚れた大きなバックパックを背負い、毎日のように通っていた東京のある図書館でこの作品を読んだ。
それまで長吉の作品には一度も触れたことがなかった。
同郷であり、高校の先輩でもあり、終戦直前の昭和二十年七月が誕生月の母と同い年であること以外にも、瓢塚古墳が登場したことで、私はさらに長吉に対し、いまここで出会うべき作家だったのだと宿命を感じ、目に涙まで浮かべ、甚く感動したことを覚えている。
作中で瓢塚古墳の場所は、「姫路市勝原区丁字家久田」という地名で紹介されているが、さらに詳細に書くと、この場所は、兵庫県道四二一号大江島太子線沿いにあり、姫路市勝原区内、県道西側の「丁」という古くから在る農村集落と、東側新興住宅地の「勝山町」との堺にある。
***
私は、長吉の短編小説「古墳の話」のなかに登場するこの地(勝山町)で、戸籍名ではない「隆雄」という名で、小学五年の夏休み明けの二学期から、高校卒業するまでの人生で一番多感で青臭い時期を過ごした。
「隆雄」は、小学二年生から高校を卒業するまで使った名前である。
高校卒業してからは、過干渉の母から逃れるために「隆雄」という名前を捨て、生まれた時に名付けられた戸籍名の「隆一」に自らの意思で戻し、現在に至っている。
それぞれの名前で私の人格はまるで違う。陰と陽、正反対である。「隆雄」は、常に母の期待に応えたいと心に思って居て、心優しく、真面目で、中学の折りは生徒会長まで務めた。人前に出ることが好きで、愛想が良く、フレンドリーな男である。
対して「隆一」は、母を裏切ることでカルタシスを得るような、腹黒く、吝嗇で、陰気な男である。三十二歳の時に一度目の離婚をしてからは、人付き合いが億劫になり、三度目の離婚をして東京で浮浪者をして以降、物を書くようになってからは、長吉の影響もあって、世捨て人に憧れるようになった。
併し性格は真反対であるが共通点が一つある。「隆雄」も、「隆一」も、親しくなった人間から必ず下の名前で呼ばれるのだ。
このことは、付き合った女性たちにも同じ事が言えて、高校までの彼女は、同い年か、年上だった事もあり「タカオ」と呼び捨てだった。社会人になってから現在に至るまでは、年上、年下に関わらず「リュウちゃん」である。そこには離婚したかつての三人の妻たちと、三回の姦通事件を起こした相手女性たちが含まれており、現在内縁関係に在る三歳下の緑子さんもまた私を呼ぶ時は、「リュウちゃん」である。
緑子さんとは、四十二歳本厄の晩夏に、私のブログを通じてインターネット上で知り合った。その頃私は、知人の紹介で再び東京から三度目の妻と暮らしていた静岡県富士宮市に戻り、住む場所と職を得て生活を立て直していた。
ブログには、当時住んで居た富士山本宮浅間大社のすぐ近くにあった芸者置屋での生活模様や、三度の離婚と、過去に犯した三度の姦通事件の顛末を赤裸々に書いて居た。いまから思えば、これらの登録者数が百人にも満たないブログ記事は、私小説にもなっていないし、エセーや随筆でもない。
そんな誰一人として見向きもしないような記事に「面白く拝読させていただきました」と、コメントをつけてきたのが緑子さんだった。しかも、五十本以上あげていた記事のすべてにである。緑子さんは、私が二度目の姦通事件を起こしたY子と、姫路魚町の歓楽街で呑んだ後、ラブホテルまで我慢できず、ビルとビルのわずかな隙間に入って媾合した際の一部始終を書いた記事にまで、「悋気。Y子さんのような愛され方を私はされたことがありません。メラメラとY子さんに悋気」とコメントをつけた。
最初は、頭のおかしい女に目をつけられてしまったと思った。併しこうした頭のおかしい女のコメントを削除すると逆上し、記事にはその当時住んで居た家が特定できる写真もたくさん掲載していたので、怒鳴り込んで来られても不味いと思い、しばらくほったらかしにして居た。
その後も緑子さんはなんの返事もしないのにもかかわらず、私が新しい記事をあげる度にコメントをつけて来た。それらのなかで、私が小学一年生の時に患った自律神経失調症のせいで、開業時の借金を残したまま両親が散髪屋を閉め、生活費と病院代を捻出するために姫路魚町のピンサロで働いて居た母について書いた記事に、彼女がつけたコメントには驚愕した。その記事の一部を抜粋すると以下のような内容である。
(前略)母は、酔ってタクシーで帰って来、寿司折の土産があるからと私と弟を叩き起こした。私たち兄弟は、眠い目を擦りながら食べたくもない寿司を無理矢理食わされるのである。母は、その横でシミーズ姿になって、レースのフリルがついた赫いブラジャーと、お揃いの赫いパンティーのなかにわさわさと手を突っ込んで、「ここにチップを入れてくれたらええよ」と言って、乳や陰《ほと》を触らせて客から貰ったクシャクシャに丸まった札を何枚も取り出し、ささくれ立った畳のうえに広げて並べるのである。並べた札を数え終わると、こんどはそのなかから聖徳太子の一万円札一枚を手に取って人差し指と親指でつまみ、私たち兄弟の目の前でひらひらとさせ、「きょうも儲かった」と満足げに言うのである。(後略)
緑子さんのこの記事に対するコメントは、「拝読。自己犠牲。自ら地獄に落ちることを選んだ母上様に感謝。愛憎こもごも。愛別離苦」だった。コメントを読んで、全身の毛が逆立ち、私の魂は震えた。緑子さんに自分の心の内を見透かされているような気がした。「愛別離苦」とは仏陀の教えである。それは私と母の関係を言い表す言葉として的確だった。
私は生まれたときから疳の虫が強い子供だと言われていた。天井に張られた板の木目を見て、「怖い顔の女の人がおる、女の人がおる」と泣き叫ぶような子供だった。やがて天井から女の声まで聞こえるようになり、私は布団から出られなくなり、頻繁に学校を休むようになった。目に強い光の刺激を受けると激しい頭痛に見舞われ、酷いときはてんかんの発作を起こすようになった。検査をしても光りに対して脳が過敏に反応することが判っただけで、原因は不明で、医者が私につけた病名は、自律神経失調症だった。
母は、自律神経失調症の私に対してやたらと干渉してきた。「うちはあんたのためやったら」が口癖だった。私は母からその言葉を聞く度に、自律神経失調症を患った自分自身を責めた。母の私に対する愛情はひたむきすぎた。やがて母の愛情が私の方を向けば向くほど、私は母を疎まし思って遠ざけていったのである。いつしか私は母を困らせるようなことばかりする愚息になって居た。高校を卒業するか、しないかの頃には、顔を合わすと喧嘩になり、酷い言葉で罵り、手を掛けて殺してしまうのではないかと思うほどだった。「深夜の殺戮。自律神経失調症男の母親殺し」そんな新聞の見出しが脳裏をかすめた。播州で生まれ育った私が実家と距離を置いて静岡に長く住んでいるのはそれが理由の一つでもある。
私は緑子さんからのコメントを気にするようになった。心待ちにするようになった。そのうち彼女のコメントに返信するようになり、次第に打ち解けていき、メールアドレスからはじまり、その次はスカイプ、常に連絡が取れ合うように携帯電話番号と徐々に互いの正体を見せ合っていったのである。
併しこの頃の私は緑子さんに、すべてを話しきっていない。
ピンサロで働くほど大金が必要になった理由である、何軒もの拝み屋さんや霊能者の元に出向いてお祓いや霊視をしてもらったり、新興宗教にど嵌まりし、私の病気を理由に金を毟り取られたり、挙げ句の果ては、占い師に息子の名を「隆雄」に改名され、当時としてはかなり高額な三十万円もする印鑑セットを買わされた母のあれやこれやの顛末は書いていない。
母は、ピンサロで稼いだ金を私の病院代や、新興宗教と拝み屋さんと霊能者へのお布施に遣いきり、金が足りないからと、散髪屋を辞めて新日鉄広畑製鐵所の下請け工場に働きに出ていた父が夜勤で居ない日に、ピンサロの客を家に連れて帰って来、春を鬻ぐようになった。併し母のこの行動のすべては、自律神経失調症の私を救いたいが為である。幼くても私はそれを理解していた。神経過敏でもあった私は、怒りのせいで予想もつかない行動を起こす自分を規制するため、血が滲むほど頬の内ら肉を奥歯で強く咬み、母と見知らぬ男が媾う様子を襖の隙間から見ていた。
これは「隆雄」に改名して一年ほど経ってからの出来事である。私は小学三年生だった。幼い年齢にして私は父に決して言えない秘密を持った。すなわちそれは私と母が共犯であることを意味する。
それからも母は私に対し、「うちはあんたのためやったら」と言い続けた。私は、母がピンサロで働きはじめたことだけでなく、客を自宅に連れ込んで春を鬻ぐようになったことまでも、自分のせいのように感じていた。「隆雄」だった頃の私は、自律神経失調症の自分自身を呪いながら生きていた。
高校を卒業し、自ら意思で戸籍名の「隆一」に戻してからは、私は「隆雄」だった頃の過去を消し去った。「隆一」を名乗る私にとって、「隆雄」だった頃の私は、思い出したくもない醜悪で忌まわしい過去だった。
***
母が春を鬻ぐようになって数ヶ月後、何人かの客のうちのひとりが、家に住むことになった。母は、「リュウちゃんが食費と間借り代で月に五万円も払うて呉れるんやて」と父に言った。「ええ話やろ。長距離のトラックの運ちゃんで、ほとんどおらへんのにアパート代を払うのが惜しいんやて」母は付け足した。月十万円の稼ぎしかない父は母の言葉を黙って受け入れた。戦争孤児で叔母夫婦に育てられ、言いたいことも言えず、自分の感情を押し殺して生きて来た父は、母の言葉も呑み込んだのだった。
母が「リュウちゃん」と呼ぶ男は、長谷柳次という名前だった。夏場でも長袖のシャツを着て、第一関節がない左手の小指には蛇のかたちをした金の指輪をしていた。痩せぎすで、神経質で、住み始めて一ト月ほどで性格が豹変し、味噌汁の味が濃いと言って急にヒステリックに怒り出し、母を殴っていた。側に父が居てもお構いなしだった。私と弟と父と母の四人家族だった家に長谷柳次は居座り続けた。
私は、母が長谷柳次のことを「リュウちゃん」と言うたびに、返事をしそうになった。長距離トラックドライバーの長谷柳次が週末に家に帰ってくると、甘えた声で「リュウちゃん」、「リュウちゃん」と何度も言うのだった。つい最近まで呼ばれていた「リュウちゃん」という呼び名が嫌いになった。私は母だけでなく、自分の名前まで奪われたような気分だった。
母は長谷柳次に夢中だった。過干渉で私がやることの一つ一つに口を挟んで来ていたのに、長谷柳次が家に住むようになってからは何も言って来なくなった。嫉妬で、「リュウちゃん」を殺したいとさえ思った。長谷柳次を包丁でめった刺しにする夢を幾度も見た。その度に全身に返り血を浴び、夢から覚めて起きると、寝小便しているのだった。
日曜日は長谷柳次は一日中家に居た。三交代勤務だった父は平日が休みの時がほとんどで、彼と顔を合わすことがなかった。私は長谷柳次からいつしか「タカオちゃん」と名前で呼ばれるようになった。長谷柳次はなぜか私のことを可愛がるのだった。長距離で荷物を運んだ先々で私にお土産を買って来たりした。「タカオちゃん、ええこと教ぇたる」と、ある日は、山梨で買って来た桃を手に持って近づいて来、「割れ目をこないして舐めたら、桃みたいにおめこも、汁がようけ溢れ出すんや」と言って舌を出して子供の私に見せるのだった。虫酸が走った。長谷柳次は三歳だった弟のことは「チビ助」と犬のように呼んでいた。甘えてまとわりついて来ようとすると長谷柳次は「シッ、シッ」と言いながら足で払いのけた。母のことは「スズエ」と呼び捨てだった。私は家の中で長谷柳次と顔を合わせる度に頬の内ら肉を奥歯で強く咬んだ。日曜日は口の中が血まみれだった。彼と同じ部屋に居て笑ったことは一度もない。長谷柳次は、日曜日の真っ昼間に私たち兄弟が居ても構うことなく、母の胸に手を入れて揉み下し、ついには素っ裸になり、「タカオ、チビ助連れて、外で遊んでこい」と言ってその時だけは呼び捨てにし、財布から小銭を取り出して私に投げつけるのだった。私は「隆一」だけでなく、長谷柳次が気安く呼ぶ「隆雄」という名前まで嫌になった。
そんな生活が一年近く続いたある日の朝、母と長谷柳次が廃業した散髪屋の店内で大声をあげて言い合いをはじめた。私はてんかんの発作が出て学校を休んでいた。平日の月曜日だった。父は早番の仕事で三時に起きてすでに家を出た後だった。弟は保育所に預けられて居なかった。私は耳を欹てた。梅雨が明けたばかりで、湿気が強くムシムシとして暑苦しかった。隣の庭木で蝉がうるさく鳴いていた。
「いやや、行かんといて。いやや」母が泣き叫ぶ声が薄い壁越しに聞こえて来た。ふたりの喧嘩はこれまでにもあったが、いつもとは様子が違った。私は布団から起きた。「うちも行く。リュウちゃん、うちも連れて行って」母がまた叫んだ。「別れるなんか、言わんといて。うちリュウちゃんのことが好きや。あの人や、こどもなんかどうでもええ。うちも連れて行って」母が縋るような声で言った。
母の言葉が胸に刺さった。母がこの家から居なくなる。置いて行かれると思った。全部自分のせいだ。こんな病気になった自分のせいだ。耐えられないほどの哀しい気持ちになり胸が詰まった。目から涙が溢れた。洟水が出た。嗚咽した。声を上げてしゃくり泣いた。母を長谷柳次から取り戻したい。行かせたくない。頬の内ら肉を奥歯で強く咬んだ。血の味がした。もうそれは私の癖になっていた。痛みで哀しみがほんの少し止み、心に出来た隙間から怒りの感情が顔を覗かせた。怒りはすべて長谷柳次に向けられた。すると一気に怒りが哀しみの感情を呑み込んでいった。心の中が怒りでいっぱいになった。拳を握った。躯が震えた。立ち上がると、台所から果物ナイフを取り出して両手で持って、部屋と店を仕切るドアに体当たりし、店の中に駆け込んだ。
目の前に後ろ姿の長谷柳次が居た。母は彼の着ていた絹の長袖シャツ掴んでいた。そのせいでシャツの襟元が肩口まではだけ、背中に彫られた龍の躯の一部が覗いていた。私は勢いをとめることなく果物ナイフを両手にしたまま長谷柳次に向かって行った。母が私に気づいた。目を見開いた。「あかんッ」と甲高い声で叫んだ。その時には果物ナイフの刃先が長谷柳次の太腿に届いていた。母の叫び声で長谷柳次が勢いよく躯を捻って振り向いた。太腿の真ん中に刺さった刃が、その拍子でさらに肉を切った。手から果物ナイフが滑り落ちた。「痛ッ」と聞こえた。「チェッ」と舌打ちが聞こえた。「リュウちゃん!」母が叫んだ。長谷柳次が傷口を手で押さえながら蛇のような目で私を睨んだ。履いていた白いスラックスがみるみるうちに血まみれになり、廃業した散髪屋の白いリノリウムの床に赫い血だまりが出来た。母親がその床のうえで泣き崩れた。
長谷柳次が私から目を反らした。母を見た。すっと顔あげて店の入り口のドアに躯を向けた。「タカオちゃん・・・・・・」と、長谷柳次は私の名前をかすれ声でつぶやくと、ほかに言いたかったことを呑み込んで、傷口を手で押さえながらガラスのドアを押し開けた。店の中に湿気を多量に含んだムッとした空気が流れ込んで来た。蝉の声が直に耳に響いた。ふたたびドアが閉まった。私は長谷柳次が出て行く後ろ姿を黙ってじっと睨み付けていた。赫い血の跡が点々と床についていた。
私はこの直後、激しい頭痛に襲われた。歩くこともままならず、その場に蹲った。気を失い、次に起きたときは布団の中で、翌朝だった。母はいつもと変わらぬ様子で私と弟に朝食を摂らせた。父は前日に引き続き、早番で会社に行っていた。学校に行く前に恐る恐る店を覗くと、白いリノリウムの床にあった赫い血だまりはきれいさっぱり拭き取られていた。
長谷柳次が居なくなると、母は以前にも増して私に干渉するようになった。私はそれを愛情だと受け取って、母の言いなりになり、母から褒められることだけを考えて毎日を過ごした。「タカオちゃん、お薬は飲んだ?」、「タカオちゃん、頭は痛くない?」、「タカオちゃん、きょうは学校でなにをしたの?」、「あらっ、国語のテストで百点取ったの。えらいわね、タカオちゃん」と、母は私の名前を一日に百回以上も呼ぶのだった。母から名前を呼ばれる度に、耳の奥で、長谷柳次が最後に私の名前を呼んだ、あのかすれ声が聞こえるのだった。この頃の母は何かに怯えているようで話し方が変だった。私はもう二度と母を長谷柳次のような男に奪われたくなかった。
***
一年半後、両親はこの家を売り払い、それで得た金を頭金にして、姫路市勝原区勝山町の建売住宅を買い求めた。
引っ越しの日、私は清々とした気分になった。長谷柳次が転がり込んで来た家に良い思い出など一つもなかった。
あの日以来、母親の口から「リュウちゃん」という名を聞かなくなった。勝山町の新しい家に引っ越し、長谷柳次が足で蹴って壁に開いた穴や、灰皿を投げて破れた襖の穴を目にすることがなくなると、私も思い出す回数が減っていった。あの出来事は私と母との間で決して口にしてはいけない秘密だった。部屋は新しい家具と、カーテンと、布団も買い替えられた。母は勝山町に引っ越して二ヶ月後にピンサロの仕事を辞め、最寄り駅のJR網干駅近くにある、「おごじょ」という九州生まれの女性がママを勤めるスナックで働くようになった。三十を過ぎてもう若くなかった。併し常に何かに怯えているようなことはなくなって正気に戻り、話し方も元に戻った。父はチェーン店の散髪屋に再就職し、店長を任されるようになり、家族は平穏な日々を送っていた。
私はというと、自分が過去に「隆一」であったことを完全に捨て去り、母思いの「隆雄」に成りきっていた。転校前の小学校では同級生から病弱で口数が少なくおとなしい性格に見られていた私は、転校を切っ掛けにイメージチェンジを図ろうとして、特に楽器に興味があるわけでもないのに華やかさだけに憧れてトランペット鼓隊などに入ったりして、努めて快活で何事にも果敢に挑戦するようになった。同時期に、医者から処方されていた薬の量が劇的に減った。自律神経失調症と診断された直後は、十種類近く服用していたが、思春期がはじまった小学六年になる頃には三種類になり、中学生になると朝夕の粉薬だけになった。薬自体の進化もあったのだろうが、薬を飲み始めた小学生低学年の時分は脳みそが痺れたようになり、授業もままならぬほどの眠気に襲われていたが、中学生になるとそれもなくなった。担当医から激しい運動の禁も解かれ、私は陸上部に入部した。
無論、私にも世間一般に謂われる思春期特有の反抗期が訪れて、母に口答えをして喧嘩になることもあったが、長谷柳次のことだけは、口が裂けても言わなかった。思春期の私は異常に世間体を気にするようになり、母に「タカオちゃん」という呼び方を改め、「タカオ」と呼び捨てにして呉れと頼んだ。すると「タカオちゃん」と呼ばれる度に、耳の奥で聞こえていた、長谷柳次のかすれ声が消えた。もっと早くに母に言うべきだった。
中学生になって一ト月以上過ぎた五月のある日、陸上部の練習で疲れて、学校帰りに家の近くの丁池の縁をとぼとぼ歩いていると、すでに帰宅し私服に着替え、自転車に乗った同級生の内山健太が向こうからやって来た。私はこの男が嫌いだった。小学六年の運動会の折に、私は紅組の応援団長で、内山健太は白組の応援団長だった。その年、紅組は負けた。最後に私たち紅組は、白組の勝利を称えた。戦いを終え、応援団長同士が運動場中央に歩み寄り握手をする場面で、内山健太は白い歯を見せてさわやかな笑みを浮かべながら私の耳元に口を近づけ、「お前みたいな病気持ちが応援したらそら紅組は負けるやろ」と言った。みるみる私の顔は赤くなった。内山健太をその場に張り倒したくなった。けれども運動会の大勢の人間から見られている前では、そんなことは出来なかった。
転校してから私が自律神経失調症であることは担任の教師にも伝えていなかった。私が母に頼んだのだ。クラスメートの誰にも話していないので、クラスが違う内山健太が知ってるわけがなかった。
併し心当たりはあった。引っ越しをして網干駅前のスナック「おごじょ」で働き出して間もない頃に、母が「タカオちゃん、三組の内山健太くんって知ってる?」と聞いて来たことがあったのだ。私が知らないと答えると、母は「このうえの古墳公園の裏に家があるんやて。店に遊びに来た銀行員のお父さんがそない言うてた」とニヤニヤしながら言い、「内山君のお父さんといっしょに来てはった支店長さんのふたりに、うちがピンサロで働いていた頃の客の話を谷崎潤一郎風に脚色して聞かせたら涙流して笑うて呉れはったわ。あの人らええ大学出てるくせに、変態に目がない」と自慢げに話した。その時、私は「なり悪いから、そんな話するのやめて呉れや」とだけ言った。けれどもその後にも、「今日も内山君のお父さんが来て呉れはった」と何度か母は言っていたので、いずれかの来店時に、私の病気で苦労した話を涙ながらに話したのだろう。そして話し終えると、目に浮かんだ涙を指でそっと拭い、十八番の「花街の母」をカラオケで歌ってその場に居る客から拍手喝采を浴びるのだ。これも母がスナック「おごじょ」でやりはじめた一連の芸である。父親は私の母から聞かされた苦労話を息子に話したのだろう。内山健太とはそういう因縁があった。
自転車に乗った内山健太は私の目を見てニヤニヤしながらその場に止まり、「よう、タカオちゃん」と言った。私が嫌がる「ちゃん」付けで、親友でもない奴から名前で呼ばれ虫酸が走った。「なんや、なんか用か?」私は足を止め不機嫌に言った。「なんや、そのムスッとした愛想ない言い方。言うとくけど俺はまだまだお前の秘密知ってるんやぞ」内山健太が目を三日月みたいなかたちにして嫌らしい笑みを浮かべた。「女の腐ったような言い方しくさって。どんな秘密や、はっきり言わんかえ」私は声を荒げた。すると内山健太が、「おまえのオカン、魚町のピンサロで客のチンポしゃぶってたらしいな」とこんどは嫌らしい笑みを口元に浮かべて言った。
一瞬で頭に血が上った。「タカオちゃん・・・・・・」とかすれ声で私の名前を呼ぶ長谷柳次の声が耳の奥で聞こえた。手に、果物ナイフで長谷柳次の太腿を刺した感触が蘇った。長谷柳次の顔など忘れかけていたのに、左目の下にあった小さなほくろまで蘇った。私は頬の内ら肉を奥歯で強く咬んだ。併し怒りは収まりそうになかった。内山健太を殺したいと思った。長谷柳次に対して持った怒りと同等か、それ以上の激しい怒りだった。長谷柳次のかすれ声が耳の奥で響き、こんどは、「やれッ、やれッ」と私に言って来た。
咄嗟に内山健太に飛びついた。内山健太が長谷柳次に見えた。自転車ごと丁池に突き飛ばした。ドボンと大きな音がして、泥で濁った水しぶきが上がった。ツンとした刺激のあるどぶの臭いが鼻腔をついた。まさかそんなことをされるとも思っていなかった内山健太が、泥水にまみれポカンとした顔で池の中に突っ立っていた。スカッとした。併し耳の奥では長谷柳次の「タカオちゃん、もっとや、もっとやれッ」と言う声が聞こえていた。私はその声をかき消すように口笛を吹きながら家に向かって歩き始めた。うしろから、「おまえ、覚えとけよ、絶対、復讐したるッ」と正気に戻った内山健太が怒りをあらわにし、池の水をバシャバシャと手で叩きながら喚き叫んだ。私はその音と声でふたたび呼び戻され、元に戻ると、「楽しみやのう。おまえの復讐。楽しみや」と半笑いで言いながら、学生ズボンのチャックをおろし、まだ池の中に居る内山健太めがけて小便をした。自分の仕業とは思えなかった。頭の中には蛇のような目をした長谷柳次の顔が鮮明に浮かんでいた。大胆な行動に反して、躯は小刻みに震え、心臓はバクバクと早鐘のように脈打つのだった。内山健太は私に小便を掛けられて、「うわッ、臭ッ、最悪や。血ィ出てるし、手ェ切れてるし。指も切れてるし、おまえのせいで怪我してるッ。これからピアノの稽古やったんやぞ。行かれへんやないか」と大声で騒ぎ立てた。その声は私が踵を返し、丁池を過ぎて自宅のある筋を右に曲がるまで続いていた。
***
家に着いて玄関の戸を開けるとカレーの良い匂いがした。躯はまだ小刻みに震えていた。喉が渇いていたので水を飲もうと台所に向かうと、母が居間の机に鏡を置いて化粧をしていた。その後ろ姿を目にした途端、躯の震えは止まり、長谷柳次の声が聞こえなくなった。鮮明に頭に浮かび上がっていた奴の顔も消え失せた。もう二度と長谷柳次のことなど思い出したくなかった。「きょうからママが別の場所にお店を出したから、うちが、おごじょのチーママやねん。前に言うたやろ?」母が私に振り向いて言った。私が小さく頷くと、「カレー作ってあるから、お父ちゃんが仕事から帰って来たらいっしょに食べて」母は言いながら、机のうえに散らばった化粧水や口紅やファンデーションをガチャガチャを音を立て、化粧箱に入れ、片付け終わると、その場に立って私に背中を見せ、「タカオ、うしろのチャック閉めて呉れる」と頼んで来た。
光沢のあるサテン地で白い膝丈のワンピースは細い肩紐だけで吊られていて、母の背中と、胸元が丸見えだった。冬に悩んでいた顔や躯にあった皮疹がきれいになくなり、肌つやが良かった。ここ最近は急に機嫌が悪くなってヒステリーを起こしたりすることもない。私への干渉も控え目だ。仕事にやりがいを見つけた母は溌剌として調子が良さそうだった。背中のチャックを閉めてやると、母はその上から、薔薇の花の模様で編まれた赫いレースのカーディガンを羽織った。「さぁ、戦闘準備完了や。きょうはPTAの会合のあとで内山さんの奥さんらがカラオケしに中学校の先生らと来て呉れるんや。うち、話が合うんよ。内山さんの奥さんと。夫婦で来てお金をぎょうさん遣うて呉れる太客や。ほな行ってくるわ。タカオ、あとは頼んだで」そう言いながら居間から出て行った。
私はぎょっとした。内山健太の父親だけでなく、母親とも繋がりがあるとは知らなかった。内山健太の母親は音大卒で、自宅を開放してバイオリンの先生をしている。中学しか出ておらず、音楽といえば演歌しか知らないような母と話が合うとは思えなかった。息子の内山健太が私に対してあの調子だ。陰では母のことを馬鹿にして、余暇はあっても遊ぶところなどない田舎町で、まるでお笑いタレントを観るような感覚で店に来て、夫婦で金を遣っているのだろう。糞ッと思った。父が仕事から帰って来、弟と三人で晩飯のカレーライスを食べ、小一時間ほど経ってから、私は「腹ごなしに、ちょっとランニングしてくる」と言って家を出た。
夜空に上弦の月が浮かんでいた。その周りのちりぢりの雲が月明かりに照らされていた。私は家のまえの道に出てその場にしゃがみランニングシューズの靴紐を締め直した。立ち上がるとゆっくりとしたスピードで走り始めた。すぐに県道につながる通りに出て、目線を少しうえにあげると暗闇のなかに京見山が浮かんで見えた。緩い坂道を登り、やがて左手に公園が見え、通り過ぎて角を左に曲がった。「丁古墳群勝山支群」と名付けられた古墳五基が保存されているこの公園の裏に内山健太の家があるのだった。道に面した掃き出し窓に掛けられた白いレースのカーテン越しに内山健太の父親の姿が見えた。父親はひとりでソファに座りテレビを観ていた。
私は公園へ裏口から入り、五基ある内の一基のこんもりした古墳のうえに上った。そこからは二階の内山健太の部屋がよく見えるのだった。部屋の明かりが点いていた。「内山ッ、おい、内山ッ」と私は口に手を添えてメガホンのようにし呼びかけた。窓硝子の向こうに居る内山健太はピクリとも動かない。私の声は届いていないようだった。足下の小石を拾った。なんとしてでも、内山健太と話をつけたかった。二階の窓硝子に向かって小石を投げた。運良く、一発で当たった。併し反応はなかった。足下の小石をまた拾おうと前屈みになった時に、窓の開く音が聞こえ、慌てて躯を起こし、「内山ッ」と私は咄嗟に大きな声で彼を呼んだ。気づいた内山健太が公園の街頭に照らされた私の姿を見つけるなり、「なんや、おまえ、まだ文句あるんか」と喧嘩腰に言って来た。彼は右手に包帯を巻いていた。私は「違う、違う」とかぶり振って答えた。「謝ろうと思って来たんや、ちょっとここに下りて来て呉れ」私は続けた。このやりとりを気づかれてはいないかと、一階に居る父親をチラと見て様子を伺うと、ソファで横になって寝てしまっていた。
しばらくすると玄関のドアが開く音がした。靴音が聞こえ、さらにアルミサッシの門扉が開き、向こうからジャージ姿の内山健太がやってくる姿が見えた。私は古墳から下りて、公園入り口に向かった。
「謝ったぐらいでは俺は許さへんからな」内山健太は両手を組み合わせ手首の運動をしながら私に言った。右手に巻いていたはずの包帯が解かれていた。彼の目をじっと見た。私は殴られる覚悟をした。公園の外灯に照らされた内山健太は、長谷柳次と似た蛇のような目をしていた。ゾッとした。「大事な指を怪我させてしもうて、ほんま、すまんかった」私は頭を下げて謝った。「土下座せぇや」内山健太が強い口調で言った。言い終わるとニヤッと嫌らしい笑みを口元に浮かべ、舌を出して上唇を舐めた。私は言われるままだった。地面に手をついて頭を下げた。内山健太の為でないし、自分のためでもない。スナック「おごじょ」のチーママになったと喜んでいる母のためだった。
私は土下座して頭を下げ続けた。「そのままや。そのまましとけよ」内山健太が言った。がさごそと布が擦れる音がした。出し抜けにジャーッと放尿の音が聞こえ、生ぬるい液体が私の坊主頭に降り注いだ。臭かった。声を上げそうになった。が、堪えた。私も内山健太におなじことをしたのだ。その報いだった。「はぁー、ええ気持ちや」小便が止まり、内山健太が言った。怒りは沸き上がらなかった。というか、堪えた。怒りとともに現れる長谷柳次が恐ろしかったのだ。生ぬるい小便を頭から掛けられている最中は、心の中で「出てくるな、出てくるな」と祈っていた。怒りよりも長谷柳次に対する恐怖が勝った。あの男が現れると、母が狂うのだ。家族が滅茶苦茶にされるのだ。家族で逃げるように引っ越しをして来たこの地で、もう二度と長谷柳次に現れて欲しくなかった。私はまんじりともせず小便が吸い込まれていく古墳公園の土を凝視しながら屈辱に耐えた。
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私は戸籍名の「隆一」に戻してから付き合っ女たちや、離婚した三人の前妻たち、彼女らとの結婚中に姦通事件を起こした三人の女たちに、この醜悪な話を聞かせたことは一度たりともない。
出会って三年後の四十五歳の時から一緒に住み始めた緑子さんにも長谷柳次のことは黙っていた。けれども、つきあい始めて間もない頃に、つい口が滑り子供の時分に「隆雄」と呼ばれていた時期があったと漏らしたことがあった。すると緑子さんは私がそれを言い終わった後の顔色を見て察知し、改名した理由を聞くことなく、「あら、幼名があるなんて、大河ドラマに登場するお公家さんや武家みたいで、なんだかカッコいいじゃない」と言った。私は鼻からゆっくりと息を胸いっぱいに吸い込んだ。この女は私の言うことを否定せず、なんでも呑み込んで呉れるかもしれないと思った。
緑子さんとそんなやりとりがあって以来、このことはいつか話そうと思っていた。これまでの女たちとは違って、緑子さんには、良いところだけでなく、私が「隆雄」だった頃の醜悪な姿を知って貰いたかったのだ。とことん醜悪な部分も見せて、死ぬまで一緒に居たい。緑子さんは、これまでの人生で一番長くいっしょに暮らしている女性だった。
で、二ヶ月前の六月半ば過ぎに、緑子さんといっしょに三年前に熱中症で深夜に倒れて以降、首から下が動かず寝たきりになってしまっている母を見舞うために、静岡から兵庫の実家に帰省するときの車中で、私は「隆雄」だった時分の醜悪な話をした
四十六歳の時に、緑子さんを両親と弟に紹介する時に帰省してから、私はああだこうだと理由をつけて、それから母親が熱中症で倒れるまで十年間実家に戻らなかった。
倒れてからは、入院中の母よりも、現在は勝山町から一キロメートル程離れた場所に引っ越し、散髪屋の跡を継いだ弟と八十歳を過ぎて躯のあちこちにガタが来た父は一緒に暮らして居るものの、包丁も握ったことがない男の二人暮らしが心配で、年に二回は帰省するようにしている。緑子さんとは、今回で五回目の帰省だった。
緑子さんは助手席でうんうんと頷きながら私の話を聞いて呉れた。富士インターから東名高速道路に乗り、一時間半ほど経って浜名湖を過ぎたあたりからはじめた話は、途中、多賀サービスエリアでトイレ休憩をはさんで、名神高速道路の京都東インターチェンジを過ぎたあたりでやっと終わった。三時間ほど喋りっぱなしだった。
話を聞き終わると緑子さんは、しばらく腕を組んで宙を見た後、一言、「リュウちゃんは、マザコンね」と言った。そのあと、「あなたといっしょに暮らして、あたしのなかで引っかかってた色んな謎が解けたわ。話を聞くまでは過干渉で子離れ出来ていないお母さんに問題があると思っていたけど、そうさせてしまったリュウちゃんに問題があるんじゃない?」と言い足した。
緑子さんの言っている意味が分からなかった。子離れさせるために私は大学進学を諦めて十八歳で家を出て働きはじめた。それからは実家に戻ることなく、母と離れて暮らして来た。二十歳になった年には、頭を丸めて京都の臨済宗妙心寺派大本山妙心寺に出向き、母が子離れ出来ない「隆雄」を断ち切り、「隆一」として生きていくために、宿坊に滞在し、坐禅と写経をして仏道修行を積んだのだ。マザコンなんぞでは断じてない。私はそう言ってから、「名前を隆雄から戸籍名の隆一に戻すと母に宣言したことで、僕自身は、母の過干渉から決別したと思っているんだが」と、ムッとした口調で言い返した。
すると緑子さんは運転席の私に目を向けて口元をニヤリとさせ、「また、あたしに妙心寺の話をするのね。毎回、自分の意思でお寺に行ったように話すけど、お母さんに聞いたわよ。それって一泊二日のサラリーマンだった時の社員研修だったんでしょ。丸坊主にしたのも、二十歳になっていないのにトイレでこそこそ隠れて煙草を吸って寮長に見つかったからだって。お母さん、あたしに言ってたわよ、そういう小賢しい話の膨らませ方するところが、子供の時分に学校の勉強をほっぽり出して小説ばかり読んでいた自分にそっくりだって」と、ここぞとばかり言って来た。スナック「おごじょ」のカウンターの内側で、目元の涙を指でそっと拭い、カラオケで花街の母を歌う母の姿が目に浮かんだ。
母はシーズー種の老犬花子に血尿の症状が現れた五年ほど前から、動物病院で働いている緑子さんと頻繁に連絡を取り合うようになった。離婚した三人の女性たちは悉く敵視していたのに、なぜか緑子さんとは相性が良いのだ。三年前の深夜、母が熱中症で倒れる直前に、花子が老衰で死んだと報告を受けた折は、緑子さんは電話口で涙ぐみ、母と哀しみを分かち合っていた。
嘘をついたつもりはないが、車のシートに座っている尻に心地悪さを感じた。私は苦し紛れに、「妙心寺に行った切っ掛けなどどうだっていいじゃないか。揚げ足を取るようなことを言わないで呉れよ。僕は、二十歳の頃に、己の内面に目を向けた話をしているんだ。実際、この翌年以降は、決意を忘れないために、毎年年始に写経をしてそれを財布に入れて持ち歩くことをいまの年齢まで続けているわけだし。君も知っているだろ。僕がそうしてることを」と鼻の穴を膨らませて言った。
すると緑子さんは、「ふんッ。私が言いたいのはこの期に及んでカッコつけんなってことよ。あなたが勝手にリュウイチを名乗ってるだけで、お母さんは、いまだにタカオって呼んでるじゃない。そりゃそうよ、お母さんは、口にしたくないのよ、リュウって名前を。本当にあなたって性格が悪い。リュウイチに戻したのはお母さんへの嫌がらせだったんでしょ。ようやく合点がいったわ。やってることはまるで子供じゃないの。かまってちゃんよ。あなたは、なにも解決させていないマザコン野郎よ」と反論し、「あなたは、長谷柳次の亡霊に振り回されて生きているのよ」とまで言った。
マザコン野郎よりも、緑子さんが最後に付け足したその言葉で頭に血が上った。自分よりも母の肩を持つ態度が業腹だった。私は頬の内ら肉を咬みながら、バンッとハンドルを強く叩き、彼女を睨み付けた。「ちょっと、危ないじゃない。ちゃんと前を見て運転してよ」緑子さんが大きな声を出した。私は負けじと「なにが長谷柳次の亡霊に振り回されているだよ。酷い言い草じゃないか。言って良いことと悪いことがあるだろ」と怒鳴った。緑子さんは私の言葉に被せるように、「長谷柳次の亡霊に取り憑かれているから、三回も離婚して、泥沼の不倫騒動を懲りずに三度もやらかしているんじゃない。人の心の襞を書くのが小説家だって、偉そうにあたしに講釈を垂れてた癖に、本当に分かってないの? あなたに関わった女性たちは、長谷柳次の生け贄よ」と怒鳴り返す。腹黒く、吝嗇で、無駄にプライドの高い「隆一」の私は、緑子さんに核心を突かれ、併し己自身で気づいたことならばいざ知らず、自身の存亡に関わるような大事なことを他人から言われて気づきなど得たくないので、「もういいよ。こんな話を君に聞かせるんじゃなかった。変わんないよ、女はみんな同じだ。君も僕がこれまで付き合った女たちと結局は一緒だったんだ。哀しいよ。僕は。君は特別だと思っていたから」と、緑子さんの人格まで否定して吐き捨てるように言い、それ以降は頬の内ら肉を咬んで、一言も喋らずに運転した。半時間ほどしてから「トイレに行きたいから。次のサービスエリアで止まって呉れない」と緑子さんが言った。私はその言葉も無視し、それから一時間半も経ってから、新名神高速道路の宝塚北サービスエリアに車を入れたのだった。
車が停まると緑子さんは、「ほんと、あなたって嫌な人。屑よ、屑ッ」と吐き捨てるように言い、車のドアを叩きつけるようにバタンッと大きな音を立てて閉め、股間を手で押さえながらトイレに駆け込んで行った。
私はむしゃくしゃしていた。長時間の運転で目と神経も疲れ、甘い物を躯が欲していた。車から降りて、緑子さんが駆け込んで行った方とは別の建物の中に入り、さてなにを食うかと物色していると、人だかりが出来ているソフトクリーム屋が目に飛び込んで来、普段並ぶことなど絶対しない癖に、列に加わり二十分近くも待って、限定メニューである「宝塚ハチミツヨリーノ」をコーンのラージサイズで注文したのだった。
建物の外に出て木陰のベンチに座って、黄金色の蜂蜜がかかったソフトクリームを食べていると、緑子さんが肩を怒らせて近づいて来た。「財布を取りに車に戻ったらあなたは居ないし、どこに居るのかと、随分、探したわよ。良いわね。ひとりだけおいしそうなもの食べて」緑子さんが私を睨み付けながら言った。甘い物を口にして、幾分か気分が落ち着いて心に余裕が出来た私は、「さっきは、ゴメン。言い過ぎた。いっしょに食べようと思って、ラージサイズを注文したんだ。おいしいよ。これ」と言って、半分以上食べて溶けかかっているソフトクリームを緑子さんに差し出して機嫌を伺った。自分が悪いという自覚はあった。過去に女たちと離婚に至った原因は、私の女癖の悪さも去る事ながら、それよりも例え自分に非があっても素直に謝らず、大声を出して相手が戦意を喪失し黙り込むまで罵声を浴び続けてしまう私の癇癪持ちの性格に大きな問題があったからだ。六十歳を手前にして同じ過ちを犯すようなことはしたくなかった。それこそ、学習能力のない愚か者で、屑だ。
緑子さんは、「こんな食べ残しであたしの機嫌を取ろうとしても、駄目だからね」と言いながらも、私よりも甘い物に目がない彼女は、ソフトクリームを奪い取るようにして手にすると、旨そうに食べ始めた。表情が緩んだところで、「車のなかでも話したと思うけど、僕が高校卒業するまで住んでいた勝山町の入り口に、瓢塚古墳っていうのがあってさぁ、きょうは、はやく姫路に到着しそうだから、行ってみない? 国指定史跡にもなっている揖保川下流の平地では最大の規模の古墳なんだよ。しかもそこは、長吉の古墳の話っていう短編小説にも登場してるんだ」と誘ってみた。三島由紀夫と澁澤龍彦が好きで、併し映画や音楽は、メジャーよりもマイナー好む傾向が強い彼女はこの話にすぐに飛びついて来、「話のなかに古墳公園っていうのも出て来たでしょ。リュウちゃんが住んでいた勝山町のなかにあるっていう。あたし、そこに行ってみたいな。すると、あなたがどんな場所で思春期を過ごしたのかも分かるし」と、私に寄り添っても来て呉れた。気分が良くなった私は、「うん、そうしよう。ほんと小さな町だけれど、車でぐるっと町内を一周して案内するよ。まだ僕が住んでいた家も残ってるだろうし、それこそ内山健太を突き落とした丁池の側も通るしね。そうだ、近所に、はぎわらって言う僕が子供の頃によく行っていたおいしいお好み焼き屋もあるんだ。お昼はそこにしようよ」と、口数多くツアーコンダクター気取りで言った。
緑子さんはソフトクリームを食べながら、うんうんと頷き、あと二口、三口で食べ終わる直前で、「さっきは、ゴメンね。あたしの方こそ。言葉が足りていなかったわ。あたしが言いたかったのは、リュウちゃんは、二つの名前に囚われ過ぎちゃって、問題の本質が見えていないってことなのよ。どっちの名前でも、あなたは、あなたよ。名前なんてただの記号なんだから」と私を見据えて言い、「リュウちゃんにとってきついこと言うけど、あなたが離婚を繰り返したのは、長谷柳次と関係を持ったお母さんへの復讐じゃないの? お母さんと腹を割って話してないから、結婚した相手の女性ともちゃんと向き合うことができないんじゃないかって、ずっとリュウちゃんの話を車の中で聞きながら思っていたの。だからと言って、いまさら寝たきりのお母さんに向かって、長谷柳次の話をしろって言っているわけじゃないわよ。そんなことしたら、お母さん、こんどこそ本当に死んじゃう。結局は、リュウちゃんのなかで決着をつけるしかないのよ」言い終わると緑子さんは、手にしていたコーンだけになっていたソフトクームの残りを頬張った。
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新名神高速道路から山陽自動車に乗り継ぎ、さらに姫路西バイパスを使って、目的地の勝山町入り口にある瓢塚古墳に到着したのは、お昼前の午前十一時三十分頃だった。自宅を午前四時に出発して、途中、休憩を挟みながら、六時間半のロングドライブである。
国指定史跡とは言うものの道路端にある瓢塚古墳は、ガソリンスタンドと建売住宅に囲まれた場所にあり、ここが古墳だと言われなければ、長年放置された残土置き場に雑草が生えたような様子にしか見えない。
舗装もされていない田んぼの畦道のような場所に車を止めて外に出た。まだ六月だというのに、真夏の暑さだった。「史跡瓢塚」と書かれた石碑のまえに立つと、「ここってカインズホームに行くときに何度か通った道筋だよね」と緑子さんが言った。車を降りて五分も経っていないのに、額や首筋に汗をかいている。
私が、そうだと答えると、「なんだか拍子抜けしちゃう古墳ね」と、あまり興味をそそられていない様子である。長吉が古墳の話のなかで書いていたことを思い出しながら、「併しこれでも僕が子供の頃なんかより随分ましさ。鬱蒼と竹が生い茂って、そこに自転車やテレビなんかの粗大ゴミや、エロ本なんかも捨てられて酷い有様だったからね。こんなどうでもいいような管理のされ方だけど、竹管文を押捺する壺形の古式土器がここから発掘されたことから、最古式の古墳と考えられ、前方後円墳の成立を考える上で重要な位置づけにあるみたいだよ」と説明しても、相づちを打つでもなく、「ほんと、まだ梅雨時期なのに真夏みたいな暑さね」と言って、ハンドタオルで顔の汗を拭いエアコンの効いた車に戻りたそうな素振りを見せる。
内心ムッとしながらも、先ほどのこともあったので、「ちょっと古墳に登ってみない。僕が子供の頃は、冒険気分で竹藪をかき分けて頂上で遊んでいたんだ。いまは、やっちゃ駄目だと思うけど、ちょっと土を掘るだけで土器の欠片も出て来たんだよ」と誘った。私は、一ト月程前に長吉の古墳の話を再読し、自分も長吉とおなじように瓢塚古墳の頂上に立てば、さらに小説世界に近づけ、これまでとは違った読み方が出来るのではないかと今回の帰省を楽しみにしていた。
併しそれにも緑子さんはまったく興味を示さず、「今日は暑いから登るのは、次に帰省する秋にしようよ。それよりソフトクリームのせいかな。お腹が痛いの。コンビニか、どこかに行って呉れない。大至急」と言って石碑の前から離れ、踵を返してしまった。
眉間に皺が寄った。頂上に立ってちょっとした儀式もやろうと考えていた私は出鼻を挫かれたかたちになってしまった。それは緑子さんから先ほど、「結局は、リュウちゃんのなかで決着をつけるしかないのよ」と言われ思いついた事だった。緑子さんには側に居て貰い見届け人になって欲しかったのだ。自己中心主義の塊のような私は、緑子さんから裏切られたような気分になった。
便所に行きたがっている緑子さんの言葉を無視し、これはまた彼女の機嫌を損ねてしまうに違いないと心に思いながらも、すたすたと古墳頂上へと登って行った。案の定、私の背中に向かって罵声が飛んで来た。「人でなし」だの、「屑」だの言われ、「じゃかましいわッ、この糞ダボがッ」と思わず振り向きざまに生まれたこの地の播州弁が口から出てしまい、「そないに登るのが嫌やったら、車の陰で野糞でもしとけッ、あほんだらがッ」と暴言が止められなくなった。これは不味いと思ったが、最早あとの祭りで、口から出た言葉をいまさら取り消すわけにも行かず、緑子さんに向けた目を前に戻して、再び、古墳頂上に向かって歩き出したのだった。
古墳頂上に立つと、子供の頃は確かあったはずの竪穴式の石室が消えていた。先の発掘調査で埋められてしまったのだろう。私は、ただ、土が盛られて草が生えた場所に立って居るだけだった。
ジーパンの尻のポケットから財布を取り出し、そこから年始に般若心経を書き写し、折り畳んで仕舞っておいた紙を取り出した。財布を尻のポケットに戻し、般若心経を書き写した紙を手にしたまま、時計回りをして景色を眺めた。どの方角にも家が隙間なく建ち並び、子供の頃見た美しい田園風景は消えてしまっていた。
元の位置に戻ると、静止してゆっくりと深呼吸をした。躯は北の方角を向いていた。こんどは反時計回りに向きを変え、建売住宅の屋根のうえに京見山の頂上が見えたあたりで動きを止めた。その方角にかつて住んでいた勝山町があるのだった。
小さく折り畳んである紙を広げ、ゴホンッと咳払いをした。
祝詞ではないが、古墳の話の長吉に倣い、「摩訶般若波羅蜜多心経」と大声を張り上げたのち、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄・・・・・・」と紙に書かれた般若心経をむしゃくしゃした気分のまま唱え始めた。
併し経を最後まで唱え終えても、心は医やされることはなく、緑子さんへの謝罪の言葉に思い悩むばかりで、母に対する赦しはおろか、これまで私と付き合い生け贄にされた女たちへの懺悔すらも出来なかった。
古墳から下りようとすると、梅雨の晴れ間の空に、一羽の白鷺が羽を広げて飛んでいた。
目で追うと道路向こうの大津茂川の土手に白鷺は降り立った。
その目の端には、ガソリンスタンドでトイレを借りて出て来た緑子さんが、こちらを睨み付けながら歩く様子が写っていた。(了)
【後記】
八月中に完成していましたが、この程度の作文では、箸にも棒にも掛かりません。毒にも薬にもなりません。書かないほうがマシでした。併し、恥を晒すつもりで公開しました。
現在は、「富士権現東芸者置屋跡(仮)」という作品に取りかかっています。二十年近く、我が身の中で温めて来た作品です。今度こそはという思いで、一文字、一文字に己が魂を込めて書いています。(壱)
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金もいらん。名もいらん。地位も名誉もいらない。本屋に呼ばれて、平積みされた本の横でブクブクに太った身体でピースサインなどして写真を撮られる。そんな物書きだけにはなりたくない。私は懐に匕首を携えるこの世で一番厄介な文士でありたい。

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