第二幕 最悪の再会
春には芽吹く花を、夏には山と潮の風を、秋には高い夜空の月を、冬には積もる白銀の雪を。
それらを眺めて酒を呑んだ時、美味と感じるならば佳し。何も感じぬなら、心を病んでいると思え。
妖狐・
時に今は火の暦八七八年、四月三日。灌漑工事でひかれた坂東の小川を、一艘の小舟が進む。船頭が櫂を操っている。時刻は辰の下刻(午前九時ごろ)と言ったところか。
両脇の石垣と道には、人も妖も行き交う。
西洋建築が増えたとはいえ、ここいらはまだまだ古き良き恵戸の街並みが多い。坂東府十一大区は中心部──御神域中心に急速に近代化が進んでいるが、そのはずれなぞはまだまだ田舎のそれ。
剣術道場が多いのは、武芸がこの土地では人の営みに紐づくから。鉄砲、妖術などなど様々な「異能」が多いが、最終的にものを言うのは基礎的な肉体と、それを律する心。
故に、多くの者は武芸を学ぶ。武芸を学んでおけば寺社に入る際に有利な素質になるし、
それに、剣撃大会で優秀な成績を出せば、賞金もでる。
金目当てとは不純だが──とはいえ、先立つものがなければ生きていけぬのが新時代である。なんせ、あの世に渡るにも六文の銭がいる。世知辛い。
されど、狐春は春の陽気を浴びるように小舟に乗り、あくびをしていた。
すっかり牙を抜かれた狐。そのように思える。美しいアゲハ蝶が狐春の狐耳に留まり、彼は気にするでもなくぼうっとし、水面を眺める。
狐春は実に穏やかな顔で、瓢箪のタモ材の木栓を咥え抜き、富士見酒を一口呷る。美味い。辛味を木樽の香りがまろやかに包み、澄んだ味わいが、鼻からするりと抜けていく。
船頭が歌を歌いながら船を漕ぐ。
斜め前に座る、話好きそうな豊島の女が振り返り、手を招くようにした。話を聞いてほしいのだろうと思い、狐春は眉を開いて「どうぞ」という表情仕草をした。
「お兄さんがくるちょっと前にね、芝の方で騒ぎがあったんだよ」芝とは、地域の名である。沿岸の方だ。
「どんな?」
「なんでも妖怪複数が大暴れしたって。雷が落ちたって聞くし……」
「怖いなあ……戦は終わっただろう?」
「どうだかねえ……」
「まあ、戸締りはしっかりしといたほうがいいかもしれませんねえ」
狐春はそのように言い、ふと、立ち上がった。
「こら、接岸するまで立っちゃいかん!」
「いや、懐かしい匂いが……船頭さん、代金はそこのお姉さまに握らしておくからさ」
「やだ、お姉さまなんて」
狐春は話しかけてきた女に小銭を握らせて、ひょいと舟を飛んだ。洗濯板で衣を擦っている少女が「ハッソウとびだ」とか言うので、「こんなもんじゃないぞ」と笑いながら歩く。
その足取りは、だいぶ千鳥足である。やや、酒の匂いも混じっていた。
狐春の尾の数は六本。四百余りという歳にしては、やや多い。普通、平時であれば妖怪は平均百年で一本、尾が増えるのが普通である。
しかし昨今はとかく激動の時代だった。故に若い世代の力量も並々ならぬものが多く、若くして己と同じ水準に達するものが多いが、しかし精神までこの酒の境地に達するわけではない。
狐春が腰に差す得物からも、それは伺えた。
「ねこじゃらしだ」子供がそう言って、己の腰に差している大小を指差す。母親が、「こら、ひとさまを指差すんじゃない」と叱っている。
指をさすのも無理からぬことだ。
彼の得物は木剣を軸に己の抜けた体毛で編んだ毛布で包んだような代物であり、金色の、ふわふわした棒切れであった。通称「もふもふ丸」。ふざけてなどいない、真剣に名付けた。
こんなもの、子供が言う通り猫じゃらしと変わらぬ。強かに打てばどうにか意識は奪えるかもしれないが、とても──命は奪えまい。
だが、良かった。
人を殺める剣など、もう捨てた。これで良い。
「うっぷ……酔いが回ったかも」
鉄道で飲酒、舟で飲酒、そしてその酔いに酔った体で跳躍。
顔は、真っ青である。
そのとき、懐かしい匂いが接近してきた。思ったより早い。
一歩、二歩、上。
もふもふ丸を抜き放ち、狐春は頭上から迫る警棒を防いでいた。
「本庁のおまわりは無辜の民を不意打ちする趣味でもあるのかな」
「ぬけぬけと、何を抜かすか!」
ぱぁん、と警棒とは思えぬ音を立てて、薙ぎ払った。もふもふ丸の毛がちぎれて数本舞い散る。
打ち掛かったのは、六尾の女雷獣。ハクビシン系の女で、この上ない絶世の美女である。
スラリとした体躯に、引き締まった筋肉。顔つきはハクビシンのような可愛らしいものではなく、どちらかといえば、獰猛な肉食獣や猛禽類を思わせた。
「ああ、俺のモフみが散っていく」
「貴様……なんだそのふざけた剣は」
「秋ちゃん、怒るな怒るな、シワが増えるぞ」
「黙れ……斬り伏せてくれる!」
とうとう、秋ちゃんと呼ばれた女警官は腰の刀を抜刀。この女は、抜刀警官だったのだ。
振るわれた唐竹を狐春はふらりと踏み込みつつ躱し、相手の手首を掴んで外側に回す。
「く──」
気づくべきだった、その段階ですでに、狐春は太刀取りをなしていることに。
「おまわりさんが易く刀を取らせるんじゃありません」狐春は刀を捨て、笑う。
「貴様!」
「うっぷ……うぶっ」
「おいどうした、まさか懐妊でもしているのか?」
女警官は冗談めかして笑った。
その時である。
狐春は、思い切り嘔吐した。何か受け皿はないか、そう思ったのだろう。
彼は咄嗟に、手袋に包まれている秋某なる女雷獣の手を取り、それを器の代わりにしていた。
これは──ひどい。
「こっ、──この痴れ者が!!」
女雷獣は雷速の如く拳を繰り出し、狐春の意識を刈り取っていた。
くるくる宙を舞った狐春は、顔面から地面に倒れ込んで──そのまま眠りにつくという肚の坐り様。
一体、なんの騒ぎか。
周囲の者は、皆目見当がつかず困惑した。
〓
討幕軍に十二支の隊あり。
武芸に優れたる精鋭豪傑を集い、結成せし千二百の戦士術師たちである。百人ずつ十二の隊に割り振られた彼らは、十二支を冠した隊名を拝し、美濃狐春はその「戌」にいた。
同じ隊に、月白の髪をしている、女と見紛う妖狐がいたことを覚えている。
常に一人で、粗食、無口、それでいて一度刀を抜かせればゾッとするほどの剣気を発する少年だ──。
とにかく。
それについて狐春を襲った警官──六尾の女雷獣・
十二支隊は御一新ののち解散。狐春はそれ以前に、討幕戦争の初戦で離脱しているから、完全に平民である。
秋唯は「申し訳ございません」と謝るが、ゆったりと茶と砂糖菓子を食べる狐春を尻目に、聞こえるか聞こえないかのような声で「この野郎」と吐き捨てている。
昨日、狐春は彼女の両の手に吐瀉物をぶちまけている。
──嘘のようで、本当の、十一年ぶりの再会劇があれなのだ。
美濃狐春は十一年前、御一新を迎えるきっかけとなった討幕戦争に参加していた。それを最後に、完全に剣を捨てた。正確には、雲雀・伏辺の戦いで討幕軍を離脱していたのだ。
以来狐春はあちこちを流浪し、雪月花風を感じながら酒を飲み、湯に浸かり、風光明媚な土地を見、奇岩やら不思議な木を見て面白がる日々を送っていた。
「いやはや。なんとお詫びすれば良いか……しかし、十二支隊の狐春殿が、かような理由でこちらに?」
「ライスカレーとやらを食べたくて。それから、ライスオムレツとか。いやあこの歳で食べ物目当てっていうのも恥ずかしいんですけど……それから、もう一つ」
狐春は、素早く立ち上がり秋唯の手を取った。
「うわっ、やめろまた吐く気か貴様──」
「嫁を探しにきたのです」
「へ?」署長、驚くほど間抜けに声を漏らし、
「はっ──」秋唯、凍りつく。
「秋ちゃん、結婚しよう。大きな屋敷を建てよう。庭に大きな犬と、家に可愛い猫を飼おう。池には鯉を泳がして、手伝いも雇って、子供は最低十人は欲しい、頑張って」
「何をいうか貴様! 誰が貴様なんぞと!」
「俺の子供を産んでくれ、たくさん」
「黙れ! 叩き斬ってやる!」
署長はぽかん──としたまま動かない。
この状況を飲み込めていない。──無理もない。
秋唯と言えば、口を開けば鍛錬、悪党退治、斬るのいずれか。親しい者には稀に「季節の果物を買ってこい」、これだけだ。
それが、まさか泥酔状態ですら秋唯を無力化する男からの求婚である。
──この土地では、男女の別なく「強い者と子を成したい」と思うのが常であった。
その強さとは腕力に限ったことではないが、このような武人たちにとってのわかりやすい強さとは、どう考えたって腕力、武力である。
故に、強い男から──しかも直に己を負かしている──の求婚は、大半の女にとっては憎からず思うことであった。
胤栄神槍流を修めた秋唯以上に腕の立つものは、滅多にいない。そして、それに泥酔したまま勝つ者は、まずいない。
署長としても、長年のじゃじゃ馬が祝言をあげるというのはこの上ない喜びであった。四年前に警察庁ができ、度重なる討幕時代の残党の内乱等の不安から内務省の管轄となった去年を経て──秋唯は不平一つ言わず、業務にあたってきた。
その生真面目すぎる女が、とうとう結婚である。
「良かったな秋唯! よしよし、祝い金は個人的にしっかり弾んでやる、子によく使うんだぞ!」
「ま──待ってください! こんな酔いどれの話なぞきかんでください!」
「一日寝れば抜けるさ。俺は正体を取り戻してその上で言ってるんだぜ」
「貴様は黙っていろ! ──署長、例の、例の道場破りは!? 私が当たるのでは、」
「お前ではやり過ぎる。適当なものを出すから、警察なんて物騒な仕事はやめて田舎にでも──」
この状況で、狐春はゆったりと座り直して残りの菓子を口に放り、茶を啜り直す始末。
秋唯は訳がわからないまま、なんと、警察を寿退職する運びとなってしまうのだった──。
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