【月狐ノ章/弐】暁月美妖

第一幕 邂逅

 ──坂東府で一騒動が起き始める少し前。


 京──洛中。その土地で竜胆は用心棒の真似事をしていた。転々と雇い主を変え、昨日の同胞を今日の敵にし、今日の敵を明日の仲間とする日々。信じられるのは己と己の剣だけだった。

 その剣も先日、長年の疲労の末折れた。相手は酒呑流と名乗った。かの酒呑童子が振るった流派だというが、嘘かどうかは定かではないが──確かめる術がないからだ──確かに、豪剣ではあった。

 折られるに相応しい相手である。だが竜胆はその使い手である鬼を斬り伏せ、彼が持っていた仕込み杖を貰い受け己のものとした。


 あるとき竜胆は、馴染みの飯屋でいつも通りのとろろ汁を頼んで食していた。京料理特有というべきか、文化人が好む薄味が嫌で、竜胆は店主に「塩気をたっぷり」と言うのが癖だった。

 店主は笑いながら「裡辺風の味付けね」と答えて奥に下がった。


 灘の清酒を煽っていた。恵戸──いや、坂東に輸送され、そして戻されてきた下り酒である。別名、富士見酒。

 富士山──という、景勝地でもある大山を眺めるように酒が通ることから、このように富士見酒というらしい。

 灘の清酒は摂津藩にてつくられる酒を指す。灘五郷という。現在では「播磨藩」「但馬藩」「丹波藩」「淡路藩」を統合し、「兵豪藩ひょうごはん」と呼ぶ。

 本来灘の酒は辛味が強いのだが、輸送中の振動や木の香りがうつることでまろやかになり、旨みが増すらしい。


 とはいえ竜胆には正直酒の良し悪しなんてわからない。ただ、眠くなれればよかった。

 起きている間は常に気が張り詰めている。熟睡するには、酒を飲まねばならない。

 夢現を曖昧にせねば眠れぬほどに、己は、奇妙な状態にあるらしいとことここに至ってようやく自覚した。いよいよまずいぞ、と。


 しかしここ最近は、もう己に敵う剣客がいない気がする。妖術師にも喧嘩を売り、魔獣という極めて恐ろしい化獣にも挑んだ。


 だがいずれも、

 ──豆腐を切っているようだ。

 としか感じないのだ。


「はい、とろろ汁ね」


 竜胆は漆塗りの箸を掴んで、早速啜った。

 麦飯によくすりおろして溶いた山芋をかけ、出汁醤油で味付けしたもの。

 竜胆をはじめとする武芸者は鍛錬・実戦という点で、発汗量がひとより多い特徴があるため、書物を読み解き、勉学し、学術を学び取るやんごとない方々より味付けの濃いものを好むのだ。

 京の料理がまずいとは言わないが、物足りない。そう感じるのは、単に、己が雪山育ちの田舎剣士にすぎないからなのだ。じっさい、京の料理人の腕はすこぶる良い。味付けを濃くするように、そう頼めば、絶品のとろろ汁が出てくることからもわかる。


 竜胆は常に飢えていた。己の腕があれば、稼いで、腹一杯食えるが、そうしなかった。

 精神的にも肉体的にも、飢えていた方がむしろ力を出せるのだ。


 そのように、顔が隠れるほど椀を傾けて啜っていると、数人の男らが入ってきた。

 いずれも柄が悪い。竜胆は薄く目を細めた。

 腰に大小を差している。それ自体は珍しくない。

 問題は相手の目つき。あれは殺しの経験がある。

 最近、壬生浪を嘯く連中がにわかに現れている。


 竜胆は内心吐き捨てた。壬生浪士組、またの名を深撰組しんせんぐみ。彼らを「身ぼろ」と蔑称する理由は、浪士の集まりであった彼らの中にはまともな装備も用意できない、身なりのボロい連中も多かったことに由来する。

 それが幕府の後ろ盾で成り上がっていくものだから、討幕派は「妖怪殺しの急先鋒」「田舎出の狼藉者集団」と見做していたわけだ。


 ゆえに、「妖怪」が壬生浪を名乗る現状を、竜胆は厚顔無恥だと思っていた。

 思わず立てかけている仕込み杖に手が伸びそうになるのを我慢した。同輩の恥を雪ぐのは──飯の後で良い。


「飯盛女は辞めさせただァ!?」

「はっ、はい……実家が、大変だそうでして、それで」

「なら誰が俺らの相手するってんだ! まさか旦那が掘らせてくれるってんじゃねえだろうなあ!」

「そっ、そんなご無体な……」


 竜胆は椀を置いて、銭を机に並べる。


「りっ、竜胆さん……まずいですよ!」

「おうおう、いるじゃねえか別嬪さんがよ!」


 馴れ馴れしく触れようとした男の右手が、その手首から先が飛んだ。

 いつ抜き、いつ切り、納めたか。すでに仕込み杖をキン、と鳴らして刃を納めている。


「表にでろ」


 残りは三人。この程度、討幕の戦でごろごろいた。あの頃稀に見たビリつくような強者でもないならば、目を閉じていたって首を刎ねられる。


 外は暗い。月も雲に隠れ、闇の中。朧に、月明かりだけが茫と浮かんでいる。

 しかし狐の目は闇を見通す。そして向こうは、犬系の妖怪がその全員。群れている点からして、千疋狼せんびきおおかみだろう。


 竜胆は二、三回その場で跳んだ。

 そして、次の瞬間。


 流水の如く駆け出し、一人めの右腿から下を両断、滝のように噴き出す血を無視して脇を通り過ぎ、もう一人の両腕を刎ね飛ばす。

 そして最後の三人目、刀をへし折り、しかし男は俺た刀で己の左二の腕を浅く斬る。

 すかさず竜胆は相手の背後に周り、三本の尾を──根元からするりと切り落とした。

 凄まじい絶叫が迸る。三人目は痛みに耐えかね、死亡する有様だ。


 そうして竜胆は手足を失った千疋狼に近づくと、全く無感情な顔でその背骨を断ち割る。

 ばしゃあっ、と血飛沫が舞い上がり、竜胆の着物を、刀を、顔を濡らす。


 ──この店も使えなくなった。


 竜胆は仕込み刀を二、三回振って、鞘に収めると、怯える店主を一瞥。

 ──お前が怪獣か。

 以前斬った人斬り──己の大先輩はそう言い、死んだ。

 そして店主も、同じ単語を放っていた。

 ──あんた、怪獣かい……。


 京の風は冷たい。

 それは裡辺の冬の冷たさとは違う。命を抱きしめる寒風ではない。

 人を斬る冷風である。




 路地裏で眠っていると、妙に腕が痺れるのを感じた。左の二の腕の傷が化膿している。

「ち……」


 あの名も知らぬ男の一撃だ。おかしなものが入ったのかもしれない。西洋医学では病の原因は、菌という目には見えない生物のせいだというのが主流らしい。

 衛生環境の悪い場所では病が蔓延する──それは、この土地で疱瘡が猛威を振るった頃から分かっていた。

 だが、だからといって生活の環境を一変できるだけの安定した状態になったのは、最近のことだ。

 そして、都会はさておき田舎ではまだ、衛生観念というものはあまり広く知られていない。他国よりちと綺麗なくらいで、和深の土地は、西洋医学が目指す綺麗さとは程遠い状況にある。


 そして、つまりは不衛生な場所に、ばい菌は湧くということ。


 火の時代以前の大暗黒時代、それ以前の大龍帝時代──その時代にも、菌類であろう記述は見られるという。

 竜胆はくだらないことを考えながら立ちあがろうとし、足腰に力が入らないことに気づいた。

 視界がぐるんと回って、頭から壁に叩きつけられる。


 明らかに病。厄介な状態だ。


 ──ふざけるな。

 ──僕を殺すのは、剣だ。術師だ。獣どもだ。

 ──僕よりもっともっと強いやつでなくちゃならない。

 ──天寿だとか、腐れ病如きで、死んでたまるか。


 視界は真上を向く。東の空は薄くあからんでいる。

 熱い──体が燃えるように熱い。

 その時、涼しい風が吹いた。

 命をすっと抱きしめるような冷気であった。


「迷い狐が一匹」


 青白い肌の髪。青と黒のまだらの髪。氷を模したような、髪飾りがびんに六つ──。


「ゆき、おんな……」

「はい」


 竜胆の意識は、そこで途絶えた。

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