第三幕 悲劇というには、醜悪な
火の暦八五九年──いまから十九年前。
「──
吉田
──幕府はもうその役目を終えました。
およそ二六〇年の泰平を築いた幕府に対し、吉田松蔭はそう言い放ったという。
彼は反妖怪、妖怪の放逐を行う「反妖の大獄」にて、妖怪派であるとして捕えられ、即日斬首を言い渡された。
これが、のちの討幕戦争の大きな狼煙となることを、幕府はまだ知らなかったのである。
その年の夏。やかましいほどの蝉が、社領を埋め尽くす中。
もうもうと熱気が篭る道場で、尾張光希は木薙刀を振るって、同じ釜の飯を食う門弟と打ち合っていた。
宵闇無明流薙刀術は、突き、払い、柄での打撃、さらには上下殴打による気絶を奪う技、脛を狙う下段払いなど剣士が苦手とする技も当然の如く取り入れ、加えて徒手での格闘も叩き込む。
光希の筋はすこぶるよい。ここへきて五年で、彼に勝てる門弟はいないほど。唯一、一度総本社からやってきた稲尾竜胆という若い妖狐が木剣で光希の意識を刈り取ったが、あの狐はまさに神童である。
光希も噂に聞こえし稲尾と手合わせできて嬉しかったが。──当の竜胆は、ここに逗留している間、一切口を聞かず、浮かない顔で、飯もあまり食わなかった。
さて、なぜ僧兵の家の子が常闇之神社にいるのかといえば、端的にいえば彼は家出しているからだった。
彼の父、尾張
親子は嫌なところばかり似るというが、まさにそれ。重右衛門も光希も見ているこちらが呆れるほどの頑固者であり、両者は一歩も引かない。
両者はとにかく、顔を合わせれば口論、下手したら取っ組み合いという有様だった。
母の
──いずれ殺し合いにすらなる。
と危惧。一計を案じ、光希を尾張があるここ──参河郷から離し、天海郷へ送ったわけである。
とはいえまさか放逐するわけにもいかないだろう。そのようなことをすれば、家名を重んじる重右衛門は光希を捕らえ、首を落とすことさえ躊躇わない。そして、詠理を、あるいは側室を作って強引にでも子を作ろうとし始める。
詠理は己の旦那に対し思うことではないとわかっている。けれど、それくらいしてでも家格を守ろうとしていることも、知っている。
故に詠理は「他流派を学び、武の楽しみを知れば、自ずと家を継ぐでしょう」と重右衛門を説き伏せたのだ。
これには重右衛門も得心がいったのか、「一理ある」とし、光希を送り出した次第であった。
光希自身、武術は好きだ。一心に体を、技を振るっている間、心から一切の無駄が切り落とされていくのがわかる。
汗を流せば、無駄な穢れが流れ、井戸水で頭から清めれば、それらが祓われる気さえした。
書院では読み書き計算を学び、写本を作り、絵を描いた。
神主から「お主、薙刀なんぞより筆のほうが似合うな。書士……絵師の方が様になるわ」と言われた時は、本当に嬉しかった。
時に、吉田松蔭の死から、時代の流れは激流であったと思う。
横濱、恵戸、そして京洛。目まぐるしく舞台は移れども、常にあるのは幕府と討幕の勢力図。
「あほくせえ」
時が経ち、世は戦の時を迎えていた。討幕軍は雲雀・伏辺で幕府を破り、東へ進軍。各所で細かな戦いはあるが、いずれも討幕が勝る。
幕府は軍備徴収の名目で民草を踏みつけ、討幕軍は賊軍に与した土地を浄化すると称し、盗み、横奪、強姦など好き放題と聞く。
そしてここへきて、寺社組織を中心とした討幕部隊が発足されていた。
ここでも宵闇報国隊なる組織を作り、討幕派につくべしとする考えが神官らの間で広がっていた。妖怪が多いゆえ当然といえば当然である。
それはこの常闇之神社でも同様である。
しかし光希は、その誘いをにべもなく跳ね除けた。
──俺は、そんなくだらねえことのために武術を修めたわけじゃねえ。
薄暗い殿内。蝋燭の燃える匂いがする。大した光も出ない。薄暗い中で、集まった男がひねもす話し合っている。
「俺のお釜でも掘る気かよ」
「黙れ、こちらは、真剣に話している!」
「俺だって本気だぜ。お前の方が遥かに女みてえな顔だけど、気をつけろ? 結構多いぜ、そういうやつら」
そういうと、兄弟子は恥辱に顔を赤くし、今にも殴りかかりそうなほどに拳を振るわせた。
「だいたい喧嘩なんかして、何になるよ。やりたい奴らにやらしとけって」
「なぜだ! お前、妖怪じゃあないのか!? 神仏妖異、我らが一丸と──」
「ひと殺しに興味ねえよ。殺されるのなんかもっと嫌だね。つか、腕落とされたら絵描けねえじゃん」
「きっ……さま……それでも皆伝の実力者か!」
「──それまでにせい!!」
兄弟子が拳を振いかけた時、神主が雷の如き大喝を放った。
「もうよい、光希、お前を破門とする」
「……そうかい。お世話になりました」
兄弟子が、舌を打った。
「なぜ、俺と戦わない!?」
「お前といたら、俺は、自分の身を捨て去ってでもお前を守ろうとするだろう。……お前の矜持を傷つけ、俺は死ぬ。お互いに最悪じゃないか」
「光希……お前がいれば、俺の槍は完璧だ!」
「じゃあな、澪桜。達者で」
そうして、悲劇が起きたのは上野戦争でのこと。
澪桜は敵に囚われた。いわゆる傭兵のような連中であるらしく、澪桜は「戦利品」として強姦の末、腕を落とされ、放置された。
その知らせは、光希の耳に、神主を通して届けられた──。
〓
──現在。
光希は矢張り、診療所に来ていた。
澪桜の顔は、その半分が焼かれて歪に肉が癒着し、右目は喪失。形の良かった鼻は削がれ、口は耳まで裂かれている。
両腕を無くし、脊髄の損傷からおそらく半身不随だろうと言われていた。
──俺がついていれば。
悔しさで、頭が変になりそうだった。
──逃げたせいだ。俺は、いつもいつも。
澪桜は発見された際、ハエが集り、ウジが湧き、もう死んでいると思われたようだ。
右の眼窩には精液と思しき体液がこびりついていたが、タバコが詰め込まれ、──酷い有様だったという。とても、……ひとに行う所業ではない。
澪桜は人間だった。妖怪じゃない。……ならばこそ、連中は妖怪に与した彼を許せないとでも思ったのか。
いや、そんな理性的なものではない。
けだもの。そうとしか思えない、糞の山のようなモノに過ぎないだろう。
「仇を討つ。お前も助ける。……カラクリの体になるかもしれんが、絶対に、……ぜったいに」
声が震える。
──ちくしょう。
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