かつて日本映画の監督には「オリンピック監督」と呼ばれる名匠たちがいた。彼らは4年に一度しか新作映画を発表しなかったからだ。最新作「怒り」が公開された李相日監督もそれに類している。李監督もまた、3年ごとに新作を発表している。
昭和49年、新潟で生まれた李相日は北朝鮮を祖国とする在日朝鮮三世だ。両親は朝鮮学校の教師だった。李相日は北朝鮮の教育を受けて育ったが、両親の離職によって横浜へ移住してから疑問を持った。北朝鮮が一方的に主張する主義に反発を覚えたのだった。もしこのまま進学すれば両親のような人生を送るしかない、と考えた李相日は親を説得して日本の大学に進んだ。神奈川大学に入学してからは海外旅行や遊びに耽っていたが、就職を目前にして焦った。就職先は、朝鮮学校か朝鮮総連のような朝鮮系の職場しかなかったからだ。両親が辿った狭い世界はごめんだった。
現状打破のために李相日が選んだのは映画だった。朝鮮人脈を辿って、面会したのが李鳳宇だった。李鳳宇はシネカノンを設立し、催洋一監督「月はどっちに出ている」を成功させた在日朝鮮のプロデューサーだった。李鳳宇は、映画学校に入ることを奨めた。李相日には映画しかなくなった。膨大なDVDを見て暮らした。北野武監督作品に心酔し、台本を取り寄せてすべてのカット割りを照合させ、覚えこんだ。卒業製作の「青 chong」は、李相日が野球をやっていた時代の思い出を映像化したものだったが、これが“ぴあフィルムフェスティバル”でグランプリを受賞した。
大学で知り合った同級生と結婚して妻の稼ぎで暮らしながら自主映画を撮っていた時、声をかけてきたのがキティフィルムの伊地知啓プロデューサーだった。伊地知は、宮藤官九郎脚本の「69」を抱えていたが、演出家を探していたのだった。DVDを見まくっていた伊地知は、「青 chong」を見た途端、怒鳴った。「こいつを連れて来い!」。予算三億、妻夫木聡、安藤政信主演のメジャー映画をいきなり演出した李相日は、二人と徹夜を繰り返しながら完成させた。李相日の噂を聞いた李鳳宇は、台本で難航していた「フラガール」の監督として呼び寄せ、彼のアイデアを取り込んで成功させた。
そのころ、東宝の川村元気プロデューサーは、数年がかりの企画を抱えていた。25歳で「電車男」をヒットさせてから5年目、川村はダークな世界に挑戦していた。吉田修一原作の「悪人」だった。東宝に入社後、映画館勤務の傍ら映画企画を本社に送り続けていた川村は、2年後に本社「映画調整部」に配属された。それから2年後に初めて手がけた「電車男」が37億円のヒットをもたらし、若い川村の企画力は注目されていた。川村は「フラガール」の李相日に賭けることにしたのだった。その博打は見事に当たった。「悪人」は20億円を稼ぎ出した上にモントリオール映画祭では深津絵里が主演女優賞を取ったのだった。
東日本大震災の後、李相日は「アイヌを撮りたい」と言うようになった。北海道でアイヌの物語を描きたいという。だが、そんな企画が通るわけもなく、莫大な資金が集まるわけもなかった。思案した李相日が提案したのが「許されざる者」のリメイクだった。高名な大監督の名作という安全路線の元で、帝国日本に弾圧されたアイヌの哀しみを描こうとしたのだった。それは、電車に乗れば「ほら、アレが乗って来たぞ」と日本人から指差された少年時代の哀しみと怒りを描くことでもあった。李相日にとって、その悪意に満ちた侮蔑は、「許されざる者」たちから産み出されていた汚物だったのだ。
「怒り」で、李監督が渾身の力をこめて表現しているのは、李監督自らの怒りに違いない。監督は俳優を通じて、監督自身の怒りを叩きつけているのだ。それは、平穏な人々から石を投げられたことのない者にはわからない怒りであろう。
昭和49年、新潟で生まれた李相日は北朝鮮を祖国とする在日朝鮮三世だ。両親は朝鮮学校の教師だった。李相日は北朝鮮の教育を受けて育ったが、両親の離職によって横浜へ移住してから疑問を持った。北朝鮮が一方的に主張する主義に反発を覚えたのだった。もしこのまま進学すれば両親のような人生を送るしかない、と考えた李相日は親を説得して日本の大学に進んだ。神奈川大学に入学してからは海外旅行や遊びに耽っていたが、就職を目前にして焦った。就職先は、朝鮮学校か朝鮮総連のような朝鮮系の職場しかなかったからだ。両親が辿った狭い世界はごめんだった。
現状打破のために李相日が選んだのは映画だった。朝鮮人脈を辿って、面会したのが李鳳宇だった。李鳳宇はシネカノンを設立し、催洋一監督「月はどっちに出ている」を成功させた在日朝鮮のプロデューサーだった。李鳳宇は、映画学校に入ることを奨めた。李相日には映画しかなくなった。膨大なDVDを見て暮らした。北野武監督作品に心酔し、台本を取り寄せてすべてのカット割りを照合させ、覚えこんだ。卒業製作の「青 chong」は、李相日が野球をやっていた時代の思い出を映像化したものだったが、これが“ぴあフィルムフェスティバル”でグランプリを受賞した。
大学で知り合った同級生と結婚して妻の稼ぎで暮らしながら自主映画を撮っていた時、声をかけてきたのがキティフィルムの伊地知啓プロデューサーだった。伊地知は、宮藤官九郎脚本の「69」を抱えていたが、演出家を探していたのだった。DVDを見まくっていた伊地知は、「青 chong」を見た途端、怒鳴った。「こいつを連れて来い!」。予算三億、妻夫木聡、安藤政信主演のメジャー映画をいきなり演出した李相日は、二人と徹夜を繰り返しながら完成させた。李相日の噂を聞いた李鳳宇は、台本で難航していた「フラガール」の監督として呼び寄せ、彼のアイデアを取り込んで成功させた。
そのころ、東宝の川村元気プロデューサーは、数年がかりの企画を抱えていた。25歳で「電車男」をヒットさせてから5年目、川村はダークな世界に挑戦していた。吉田修一原作の「悪人」だった。東宝に入社後、映画館勤務の傍ら映画企画を本社に送り続けていた川村は、2年後に本社「映画調整部」に配属された。それから2年後に初めて手がけた「電車男」が37億円のヒットをもたらし、若い川村の企画力は注目されていた。川村は「フラガール」の李相日に賭けることにしたのだった。その博打は見事に当たった。「悪人」は20億円を稼ぎ出した上にモントリオール映画祭では深津絵里が主演女優賞を取ったのだった。
東日本大震災の後、李相日は「アイヌを撮りたい」と言うようになった。北海道でアイヌの物語を描きたいという。だが、そんな企画が通るわけもなく、莫大な資金が集まるわけもなかった。思案した李相日が提案したのが「許されざる者」のリメイクだった。高名な大監督の名作という安全路線の元で、帝国日本に弾圧されたアイヌの哀しみを描こうとしたのだった。それは、電車に乗れば「ほら、アレが乗って来たぞ」と日本人から指差された少年時代の哀しみと怒りを描くことでもあった。李相日にとって、その悪意に満ちた侮蔑は、「許されざる者」たちから産み出されていた汚物だったのだ。
「怒り」で、李監督が渾身の力をこめて表現しているのは、李監督自らの怒りに違いない。監督は俳優を通じて、監督自身の怒りを叩きつけているのだ。それは、平穏な人々から石を投げられたことのない者にはわからない怒りであろう。
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