『自分という奇蹟』より
東洋における「運命と宿命」の違い
ところで、私は中村さんがお亡くなりになった後、お書きになったものをまた改めて読み返しているうちに、「運命」と「宿命」について書いておられるのが目につきました。
運命と宿命、どちらも同じような感じがしますし、ラテン語にしてもギリシャ語にしてもサンスクリット語や英語にしても大体、運命と宿命というふうに分けて考えない。ところが、東洋には、あるいは中国なんでしょうか、日本もそうですけれども、運命と宿命という二つの表現があります。
宿命というのは人間が背負って生まれてきて、それを一切変えることができないようなものというような解説もあるそうです。運命というものは、これもまた人間をのせて動いていくものでありますけれども、偶然性が左右する部分だけ変わる可能性もあるのだと、こういうことを書いておられて、なるほどと思いました。
「運」と言いますと、なにか運命というものとちょっと違って感じられるところが不思議です。運がいい、運が悪い。それから運がついてきたとも言いますし、開運のおまじないとか、そういう神社仏閣もあります。
運が開ける、というわけですから、運のほうはかなり変わる。何かによって変わる可能性がある。しかし宿命というのはなかなか変わらない。なかなかどころか、決して変わらない”。
たとえば交通事故なんかでも、あと一秒早くその場を抜けるか一秒遅く抜けるかで、衝突せずにすんだはずなのに、ということがあります。たった一秒が命を左右する、まさに運とはそういうものかなと思いますが、中村さんがお書きになっている運命というのは、人間全体が共通して背負っている条件、こういうことを運命という大きなことでおっしゃっているように思えました。
たとえば、私たちが命あるものとして生まれてくる。地上に命あるものはたくさんいるわけです。草にも木にも命がある。そして虫も動物もみんな命あるものです。その命あるものの中でわれわれは人間、人として生まれてきた。このことは私たちの運命である。ということは、共通の運命を私もあなたも背負っていることなんだ、運命を共有しているのだ、運命の共同体という乗物の同じ乗組員なのだと。
この地球という大きな惑星の上に私たちが生まれた。これも大きな運命の一つである。民族とか人種とか、時代を隔てずに私たちは地球という乗物の上に人間として生まれた。もっと狭く言いますと、たとえば日本人としてここに生まれた。あるいは、昭和に生まれて平成に生きているという、こういうこともたくさんの人だちと同じように共通の条件として背負っている。つまり運命の共同、共通の運命を担っている。このことは実は本当に不思議なことなのであって、得難い大変なことなのであると、こういうふうにおっしゃっています。
そして、私たちがそのような大きな運命の手のひらの上にのっている者同士であるということを意識するならば、運命の共同体の中に生きている者同士としての連帯感や、あるいは家族のような感情が生まれてくるのではないかと言うのですが、これは非常に大事なことなんです。
同じ仲間であり、そして家族としての人々、こういうふうに考えますと、その間に確かにある濃密な連帯感というものを感じる、あるいは理解することができます。そのためには私たちは運命というものの一つの手のひらの上にのっている、自分たちはその運命を出ることができない、不自由な存在であるということを深く自覚する。こういうことが必要だということなのです。
いかに生きるかより、まず生きる
というのは、近代の生みの親であるデカルトのそうした発言には先行する言葉があって、それより前の時代、すなわち中世に、もっぱら広く人々の間に広がっていたものの考え方、人間観というものは、神学者でかつ思想家であったトマス・アクィナスが言った、「われあり故にわれ思う」という言葉でした。
デカルトはそれをひっくり返して、そうではないんだ、生きているだけでは意味がないんだ、まず思惟することにおいて人間の価値がある、人間は考える存在なのだと、こういうふうに言ったわけですが、アクィナスの言葉をひっくり返した、その大胆な発言が、最近、私にはなんとなく色あせて見えるようになってきました。
人間は、どのように生きるかを問われません。まず生きる。一日生き、十日生き、一年生き、十年生きるだけでも人間としての大きな価値があるのではなかろうか。その上で、恵まれた野心や体力、才能、そのようなものを与えられて生まれてきた人間は、自分の心の赴くままに、世のため人のため、偉大な業績を成せばよい。財を積み、発明をする、そして人類に貢献すればよい。そのことを、私たちは仰ぎ見て拍手する必要はない。それはその人にとっての喜びである。そのような素質を与えられて生まれてきたことを、英雄偉人は謙虚に感謝すべきなのではないか--。
逆に、何事も成さずに一生を平凡な人間として過ごす人間も、あるいは、犯罪や不幸な事件を重ねて刑務所の塀の中で生涯を終えるような人々も、あるいは植物人間と言われて一生ベッドの上で生きていく人間も、「生きている」ということにおいて、人間としての第一の値打ちというものをきちんとすでに果たしている。生まれてきて、自ら自分の命を捨てたりすることなく、五年生きた、十年生きた、三十年生きた、そのことだけでも、人間としての大きな生きる値打ちは果たしていると、私は思います。
余力があれば、ということなのです。余力があれば努力し、世のため人のために戦えばよい、頑張ればよい。でも、それができなくて、周りの人から、極楽トンボとけなされ、あるいは犯罪者と言われたとしても、生きて生き続けて、今、生きているということに、人間の値打ちはある。
「存在」というものに、まず、人間の価値の第一歩を置く、という考え方をもう一度思い返し、トマス・アクィナスの「われあり故にわれ思う」という言葉の重さをかみしめることこそ、今、私たちには必要なのではなかろうか。どのように生きるかということは、二番目でいいという考え方を私は持っています。
全宇宙でたった一人、自分という宿命
こういう大きな運命というもののほかにもう一つ、人間には宿命というものがあります。
宿命というのも非常に暗いイメージがあって私は好きではないのですけれども、それでもそれを否定できないことがあるのは確かです。それというのも人間というものは一人一人違って生まれてくるということなのです。「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、これは俺ひとりが偉いんだという言葉ではなくて、自分はほかの人と違う。万人いても、万人一人一人がたった一人の自己である。ほかの人たちと違ったものを背負って生まれてくる。それ故にこそ自ずから尊いのだということなのです。
百万人いたら百万通りの人間がいる。遺伝子も違えば性格も違う。顔かたちも違えば心持ちも違う。その差というのは、まさに兄弟であろうと親子であろうと、やっぱり違うのです。たった一人、この大きな地球上に、あるいは全宇宙の中でたった一人しかいない自分、これを宿命というふうに考えざるを得ないような気がするのです。そういうものを背負って私たちは生まれてくるのだ
そう考えますと、宿命とか運命とかいうのは非常に古くさいもののように感じられますけれども、実は運命を意識することで私たちは他人を自分たちの一部のように感じ、宿命を自覚することでその宿命の枠の中で宿命を背負いつつ、それでもその途中でその宿命を放棄することなく営々と歩み続けて、五年生きる、十年生きる、三十年生きる、五十年生きる--。
こういうふうに生きてきた自分というものをいとおしく、なんと健気な存在であろうかと、こんなふうに感嘆せざるを得ないところがあるのです。そういうところからしか自分への肯定、自分への愛、あ’るいは自分の命が大事、命の尊さという実感は生まれてこないと思います。
15/09/28