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石破少年の心も揺さぶったGHQ時代の記録映画。「『オッペンハイマー』へのアンサー映画」、広島で上映

宮崎園子フリーランス記者
『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)

 「そのときのことは一生忘れることは決してありません」ーー。今年の広島原爆の日の8月6日、被爆者との懇談の際、石破茂首相はある記録映画を観た小6のころの思い出を語った。1968年に全国放送された『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』(原題:Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki)がそれだ。

 原爆投下直後の広島・長崎の街や被爆者の惨状を収めた貴重な映像映画だが、GHQ(連合国軍総司令部)による占領下、プレスコードで自由な取材・報道ができない中で撮影された後、米国によるフィルムの接収や、米国側から日本政府へのフィルム返還、カット版の公開、被爆者団体の要望を受けた市民運動によるノーカット版の制作…と特異な経緯をたどった。1946年のオリジナル英語ナレーションによるノーカット版を2009年に作成した広島市映像文化ライブラリーが20、21日、そのオリジナル版(164分)を上映する。映像文化専門官の森宗厚子さんに意義を語ってもらった。

森宗厚子さん もりむね・あつこ 広島市映像文化ライブラリー映像文化専門官。大学卒業後に映画関連職を経てフィルム・アーキビストに。国立映画アーカイブ特定研究員や川崎市市民ミュージアム映画担当学芸員を経て、2024年4月から現職。京都市出身。

広島市映像文化ライブラリー映像文化専門官の森宗厚子さん=2025年9月10日、広島市中区、宮崎園子撮影
広島市映像文化ライブラリー映像文化専門官の森宗厚子さん=2025年9月10日、広島市中区、宮崎園子撮影

さまざまなバージョンがあるという、独特のコンテクスト

ーー以前から『広島・長崎における原子爆弾の影響』をご存じだったのですか

 映画史的に記念碑的な作品だという意識はあり、いずかのバージョンを観た気はしていたのですが、きちんと観たのは、当館に入って自分で上映することにしてからです。それが去年の8月ですが前説原稿を書くためにいろいろ調べました。「貴重な記録」ぐらいにしか思っていませんでしたが、特殊な歴史があったということを知りました。

 この映画は1945年9月に社団法人日本映画社が自主企画として製作を始め、文部省(当時)「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の調査団に伴い、被災状況の学術調査を記録する科学映画として撮影されました。しかし、翌月にGHQから撮影中止を命令され、12月に米国戦略爆撃調査団の「委嘱」として撮影を再開。完成作品は46年5月、米国側関係者向けの試写会がありました。その後完成作品やネガポジは米国へ移送、67年、学術調査団・製作関係者から文部省へ返還の要望書が出され、翌68年に米国から文部省へ16ミリ版で「返還(贈与)」されたという経緯をたどっています。

 これを受けて、石破首相が見たように、全国テレビ放送で文部省による日本語吹替・カット版(152分)が上映され、その後、市民団体による上映会などが行われるとともに、フィルムが複製されさまざまなバージョンが生まれました。

被爆者代表から要望を聞く会での石破首相の発言概要 「私は昭和32年生まれであり、戦争が終わり原爆投下から12年経って生まれた戦後派でございます。ただ、昭和43年に小学校6年生で、鳥取の小学校でNHKからそのとき初めて、アメリカから公開された原爆の記録映画というものが放送されて、全校生徒それぞれの教室で見ました。そのときのことは一生忘れることは決してありません。このようなことは二度とあってはならないと、そのとき11歳の私は強く思いました。今もその思いは変わりません」

広島原爆の日、広島市主催の平和記念式典に参列した石破茂首相(右端)
広島原爆の日、広島市主催の平和記念式典に参列した石破茂首相(右端)写真:松尾/アフロスポーツ

ーー製作状況のみならず、完成後の足取りも特異ですね

 映画保存の業界の鉄則に「3C原則」というのがあります。キャリア(Carrier)、コンテンツ(Contents)、コンテクスト(Context)、その三つを保存してこそ映画保存だというものです。キャリアは情報を収める物理媒体つまりフィルムそのもので、コンテンツは中に入っている視聴覚情報つまり映画の内容。そして、コンテクストは、コンテンツを伝えるための文脈・環境です。マスメディアの報道では、とかくコンテンツ重視。だからこそ当館は、コンテンツの独り歩きはしない。

 世の中往々にして人々の関心はコンテンツそのものになってしまい、例えば、映画の倍速視聴もある。起承転結のストーリーさえわかればいい、となると、この作品でいうところの記録映画としてのナラティブではなく、全体像や画面に映されているビジュアルを読み取るみたいなことになる。この作品は、コンテクストこそが興味深いのです。

 1967年からフィルムを戻してもらう返還運動が起き、フィルムが戻ってくる場面や、受け取った文部省が試写会をして審議委員を立てたりと逐一報道されてメディアイベントのようになった一方で、蓋を開けたら13分カット版となってしまって非難轟々となった。もちろん石破首相のようにテレビで見たりして感銘を受けた人もいたわけですが、返還運動をしていた関係者や映画評論家、映画撮影に加わってた人たちもメディア人なので、人体影響のところで、人物の顔がプライバシーへの配慮でカットすることになった点について「肝心なところがカットされてて意味がない」と受け止められた。被爆者団体の反応としても、一番自分たちが苦しんだ核心が隠されたという意味で、「こんなものは私たちの求めていた作品ではない」という反発もあった。

 その結果、派生作品がいっぱい生まれた。ラッシュ・プリントだったり、その後の10フィート運動でも、いわゆるテレビと映画は反面教師みたいな感じでメッセージを込めたものが作られた。

10フィート運動 1980年代前半に起きた草の根の市民運動。被爆後の広島と長崎で米戦略爆撃調査団が撮影し、米国国立公文書館に眠っていた記録映像を、10フィート(約3メートル)あたり3千円を1単位に市民からのカンパにより日本に戻そうとした。取り戻した映像を使って、反戦・反核を訴える映画が製作された。

 原題の「Effect」は直訳すれば「効果」ですが、1968年に文部省がカット版を公開したとき、被爆者感情に忖度をして「影響」という訳語つけています。実際タイトル表記の揺れも調べてみてわかったんですが、最も初期の頃は、実際に「効果」と直訳したタイトルもありました。フィルムの返還運動を本格的にやっていく過程ではこういうふうに直訳タイトルを言ってたりするんです。

 しかし、こうした過程で、この作品が科学映画で、一番初期の被災状況の調査報告だというところが逆に抜け落ちてしまい、忘れられてしまったように感じるのです。

『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)
『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)

経緯がどうであれ、貴重な初期の映像記録であるということ

ーー米国のナラティブで撮られたものだとしても、それはそれで記録だと

 明確な撮影の意図としては、原爆をとにかく記録・報道して、人道的にも訴えるという思いだった。敗戦後は、米国占領下で作品として完成させなければいけない。そう考えると、撮影中止とならない工夫が必要。そこはロジックとして実際の記録をするんだと。あくまでも冷徹な客観的な記録を撮り切る。そこは確信犯的に彼らはやってるんです。

 実際に日映のスタッフは、戦時下の元々いわゆるニュース映画、報道映画のプロで、国策映画を戦時中撮っていた人たちです。例えば陸軍に言われてプロパガンダ映画、国策ニュース映画を撮るけど、場合によっては都合が悪いところに関しては撮ったものを没収されたり、焼かれるみたいな経験をしてきた人なので、撮る側の軍として都合悪いこと記録として残したくないものは撮っても消される。そういうことがないように配慮した。だからこそ途中でラッシュ・プリント(未編集映像)を自分たちで残せるようにもした。

 いろいろ調べると、撮影関係者の手記とかで、撮った後に、かすみとられるように没収された、持っていかれたという意味合いで伝えられてる部分もあるけれども、実は没収というのは正しくなくて、納品に近かったと私は思う。

ーーそれはどういう意味ですか

 元々日映側は自発的に企画を自主企画として始めて文部省の方に相談しに行ったら学術調査団が組織されて彼らの随行という形で撮りなさいと話がまとまり、製作費は文部省が出すことになった。会社としても、今まで国策映画とか軍の依頼で撮っていたわけだから、文部省が出すということがどういうことかわかって撮っている。

 それがGHQの支配下に置かれたとき、作品を完成させないと意味がないなどと交渉した結果、米国側の戦略爆撃調査団による撮影はまだ進んでいなかったため、一本化することになった。逆に言うと、GHQ側がクライアントみたいな形になって、それ以降の製作費はGHQは米国が持つ契約になった。製作費を持つということは、出来上がった作品は納品するということ。だから、その段階で、彼らは出来上がったものが日本に残らないとわかっていたからこそ、途中でラッシュ・プリントを作って隠したんですね。
ーーそういうナラティブも全部踏まえた上で、一番印象に残る部分は

 「影」というパートです。広島市内の建物などに残っている影を調査し、原子爆弾が何メートルで爆発したかを計算している。科学者たちが寄ってたかって自分たちの人智を結集させ、起こったことを科学的に解明しようとしている努力が見える。

 全体に編集が考え込まれていると感じます。遠いところから映し始めるんですね。いきなり宮島での被害状況から見せているのですが、爆心地中心主義って今もあるじゃないですか。それとは全然違うところからのアプローチも印象的です。爆心地から遠く離れた場所で黒い雨が降ったことなどもきちんと押さえている。放射線障害の人体影響までは言及していなくても、離れた場所での被害状況も記録している。そういう捉え方も興味深い。

『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)
『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)

祖父が見た広島がそこにある

ーー去年の夏に上映しようと思ったきっかけは

 明確な理由があるんです。毎年夏には被爆がテーマの所蔵作品約60本の中から上映していますが、昨年映画『オッペンハイマー』が日本で公開されたということもあったんです。2023年の映画ですが日本公開が遅れ、たまたまですが2024年3月末に広島に引っ越すことになったので、せっかくだからと、広島に来てから観ました。 『オッペンハイマー』は原爆を作った科学者の映画ではあるが、原爆に関する科学映画なら当館にこれがあるじゃないか、と思い出したんです。だから『オッペンハイマー』公開の年にこそ、これをそれへの「アンサ」ーとして上映しなければ、と。

ーー『オッペンハイマー』は人物に迫っているが、彼が生み出したものによって広島・長崎がどうなったかという描写はなかった

 それもあるし、アプローチの仕方としてあれは劇映画で、原爆を開発した科学者の内面、個やエゴがメインテーマでした。この作品がアンサーになりうると思ったのは、科学者の個ではなく、集団としての科学調査だから。しかも集団で起こされた顛末を科学の手で解明していこうとしている。それこそが対抗というかアンサーじゃないか、と。

 それと、実は私と広島のつながりが意外にありまして。私の祖父は1945年9月に広島にいたんです。実は後から気がついたんですが、祖父は、陸軍の要請を受けていち早く広島入りし、枕崎台風で大きな被害を受けた京都大学原爆災害総合研究調査班(京大調査班)にいた、脇坂行一(1914ー2007、滋賀医科大学初代学長)なんです。

 本人から直接聞いたことはないのですが、インターネット情報で祖父がメンバーだったことは以前から知っていました。広島に移ってきて古書店でたまたま手にした本に、祖父が載っていたんです。京大調査班で亡くなった一人は祖父の学部生時代からの親友で、調査班の中心人物。その人が夜勤シフトに入っていたために流されてしまったのですが、本来私の祖父がその日の当直だったんです。移転のための先発隊調査に出ることになり、その人に代わってもらった。そんな祖父が見た広島が、この映画の中にあるんですね。

枕崎台風と京都大学原爆災害総合研究調査班(京大調査班)終戦直後の1945年9月17日に上陸した枕崎台風は、死者2473人、行方不明者1283人、負傷者2452人(気象庁ホームページより)という甚大な被害をもたらした。犠牲者の大半は、原爆投下直後の広島県で死者数は2012人に上った(土砂災害ポータルヒロシマより)。大野町(現・廿日市市)では、大規模な土石流が発生し、下流にあった大野陸軍病院を直撃。180人近くの人が亡くなった。この中に、原爆被害の調査のため広島を訪れ、同病院を拠点としていた京都大学の原爆災害総合研究調査班の11人が含まれていた。

 

祖父・脇坂行一氏の手記を収録した「医師たちのヒロシマ」(核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会」編)を手にする森宗厚子さん=2025年9月10日、広島市中区、宮崎園子撮影
祖父・脇坂行一氏の手記を収録した「医師たちのヒロシマ」(核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会」編)を手にする森宗厚子さん=2025年9月10日、広島市中区、宮崎園子撮影

記憶と記録は両輪でなければ

ーー被爆80年の今、この映画を観ることの意義とは

 「被爆の実相」という言葉が独り歩きしていると思うんです。私が去年外からやってきて、今までは周りで「被爆の実相」というタームが周りで使われていなかったから、広島に来てあちこちでこの言葉が使われてることに新鮮な驚きを持ちました。

 この作品の歴史的な経過がなぜか棚上げ出されている感じもあるので、今改めて戦後80年、あるいは被爆者の証言者が少なくなる中で、被爆の実相をどう伝えていくかを考える上でも、この作品も再評価していくべきではないかと思います。

 「先の戦争」として第二次世界大戦のことを言うけれども、実際に日清・日露のことはどうなんだ、と。日清・日露の体験者や証言者がもういないからといって、反省してないみたいになってることが問題ではないか。マスコミ報道の中で「先の戦争」といったときに、それは真珠湾攻撃からという発想になっている。「15年戦争」という考え方もあれば、広島にとっては日清・日露戦争で広島自体が軍都になったという点が重要ではないでしょうか。

 夏に記録映画「平和記念都市ひろしま」(1950年、30分)を上映しました。広島からハワイへの移住者など海外同胞に都市復興の資金援助を求めたPR作品でもあったんですが、広島平和記念都市建設法の衆議院通過(1949年5月)も収めている。国会答弁や演説の中で、ある代議士が、広島は日清・日露のときの侵略戦争の拠点だったと発言している。GHQによる占領下だったからかわからないんですが、今だと侵略戦争なんて言ったら「けしからん」となるけど、むしろそういう認識だったんだなと。

 被害者が証言で伝えようとしても、加害の証言とか、加害性の表現、加害性の記憶の継承ってあんまりされていない。そこを考える上でも記録は重要だと思います。

ーー貴重な記録映画があることが、広島で正当に評価されていると思いますか

 まだまだ知られていない。あるいは、逆にありきたりなものになっている。正当に評価しようとする人は少ないのではないでしょうか。10フィート運動の流れから、米国から返還されたものや没収されたものを色眼鏡で見て「あんなものは駄目だ、自分たちこそ被爆映画を作るんだ」という。今こそアーカイブや記録映画の重みが増してるわけだから、改めて冷静にこの作品をちゃんと見て評価する流れができたらと願います。

 ある種の大本営という公式的科学調査であるけど、それを照らし合わせて逆に今こそそこの二重性を冷静に確認していく意識が必要ではないでしょうか。良い悪いの問題ではなく、歴史的事実としてこういう調査報告が成立している。まずはそこを読み解いていく。

 歴史や被爆の実相の継承というとき、どうしても記憶がクローズアップされがちですが、それだけでいいのだろうかと。記憶は記録があってこそではないかと。記憶ってどうしても主観的で部分的。裏付けやベースとして記録がないことは不十分です。例えば、加害の証言では、記録がない、という批判がくる。被爆証言にも記録の裏付けが必要です。今後、時代も受け取り手も変わり、外国人にわかってもらおうとしたとき、記憶だけに頼るのではなく、ベースになる記録もある方がより説得力を増す。コミュニケーションとして伝わりやすくなったり、それが印象づけられたりもする。だからその両輪という意味でも、記録は重要だと思うのです。

 記憶が寄って立つ記録の意味を考えて、過去の記録を紐解くところから始めませんかと言いたい。まずは足元を照らすというか、足場を確認するというか。実際この作品の中でも地図が出てきたり、いろんなことを図解で紹介して解説しようとしている。新型爆弾を客観的な目線で位置づけ解明しようとしているアプローチをわかってほしい。

『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)
『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)

「9月21日」にこだわりたかった理由

ーー逆に何が映されなかったか、矮小化されたかを考えるベースにもなりますね

 視線の向け方、根っこの姿勢や視点があってこそ、その後のいろんな被爆者補償の空白がいろいろ見えてくる。その出発点が良い意味でも悪い意味でもここにある。プレスコードもある中、映像作品として一つにまとまってるものはこれがほぼ唯一。日本側で作ったニュース映画の短いものはあったけど、その希少性はやっぱりあります。

 日清・日露からの軍都廣島というところと、軍需産業も含めて産業経済の中心になっていった、広島の歴史の一番分厚い部分を補完する意味でも映像は大事です。「原爆ドーム中心主義」的な視点ではなく、視点を多面多角的・立体的にするためにも映像は重要です。原爆ドームがありさえすればいいのか。そうではなく、原爆ドームだけは何とか保存されたが、周りはどうだったのか、復興過程で何がなくなったかが、この映像の中にこそ収めれられており、周囲がむしろ見えてくるのではないでしょうか。

ーー8月を過ぎたこの時期に上映することの意味は

 9月21日という日付が重要で、それは80年前のこの日がプレスコード発布日だからです。作品の中でも「9月21日から撮影開始」と文字で出てくるんですが、その日でもある。そこには裏があり、実際の手記などを見ると10何日という説もあれば、前日の9月20日と日記に書いてる人もいるんです。あえてフィルム上に9月21日と刻んだのは、プレスコードの発布日だから。この作品はプレスコードの範囲内でGHQの管轄下で作られてる作品ですと言わないと、前乗りして撮影したことについて怒られるからなんだと思います。

 映像って、見ること自体が一つの体験で、しかもそれは共有体験でもある。集合の場所で見たり、あるいは時系列でいえば過去の人と縦軸で繋がる。今の私たちが映像にアクセスして映像を分かち合うことが、自分の中の五感を刺激する共有体験になるからこそ、ある種の疑似記憶として自分の中に飲み込まれていくと思うのです。 

『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)
『広島・長崎における原子爆弾の影響ー日本語版』の一場面(写真提供/日映映像)

 

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ありがとうございます。
フリーランス記者

銀行員2年、全国紙記者19年を経て、2021年からフリーランスの取材者・執筆者。広島在住。生まれは広島。育ちは香港、アメリカ、東京など。地方都市での子育てを楽しみながら日々暮らしています。「人生再設計第一世代」。

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