blueskyで、「愛好家やオタクの人生にとって人嫌い・コミュニケーション嫌いがプラスになるかマイナスになるか」についてしゃべっているのを見かけた。それから色々あってブログにまとめる羽目になったのでまとめます。
はじめに、このお題じたいが愛好家全員に当てはまるわけではないことを断っておきます。オタクや愛好家の全員に当てはまるとし、断定を繰り返したほうがページビューが伸びるのは私も知っています。ある意見に賛同したい人と正反対の人の両方から熱いページビューを稼ぐには、断定が一番ですね!
白か黒か。灰色なんて許さないぜ。そのほうが、みんなうれしいでしょ? 本当は、誰が何を言っているのかなんてどうでも良くて、「お題」が存在することが大切なのです。擦れてしまった人々にとって、SNSなどに存在するあらゆる記事やpostの存在意義とはそういうものではないでしょうか。
こんな前書き要らないか。
でも、エチケット袋みたいに用意しておいたほうがいい気がしたので書いておきました。
趣味愛好家を、コミュニケーション能力の高低と人付き合いの好き嫌いで分類する
では本題に入ります。はじめに、コミュニケーション能力の有無と人付き合いの好き嫌いに基づいて、四つの箱に分類してみました。
| コミュニケーション能力が高い | コミュニケーション能力が乏しい | |
|---|---|---|
| コミュニケーションしたい 人付き合いが好き |
① コミュニケーション能力が高く、人付き合いも豊富。ソーシャルキャピタルにも困らない。趣味を続ける社会性や体力も維持しやすい。ただし、趣味に没頭するには不向きかもしれない。 |
② コミュニケーション能力が乏しくても人付き合いを求めるタイプ。コミュニケーションが成功裏に進めば①へ、失敗を繰り返せば④に移行していくと思われる。 |
| コミュニケーションしたくない 人付き合いが煩わしい |
③ コミュニケーション能力があるが人付き合いは避け、趣味へ没頭。理念型としてはあり得るが、実際には珍そう。長く人付き合いを避けていればソーシャルキャピタルは次第に低下し、主に④に移行していくと思われる。 |
④ コミュニケーション能力が乏しく、人付き合いを避け、趣味に没頭。趣味への没頭が心理的適応を助けている一面もある。ソーシャルキャピタルの不足や、趣味を続ける社会性や体力の維持が課題。 |
世の中の人は、1.コミュニケーション能力が高く、実際にしている人、2.コミュニケーションしたいけど能力は乏しく、できない状態が続いている人、3.コミュニケーションしたくないけどコミュニケーションをこなせる人、4.コミュニケーションしたくないだけでなく、コミュニケーション能力も乏しい人、に分類可能です。オタクや愛好家とて、例外ではないでしょう。
もうこれで書いてしまったようなものですが、もう少し書いてみますね。
1.の、コミュニケーション能力が高く、なおかつコミュニケーションしている人は、人付き合いのメリットとしてソーシャルキャピタル(社会関係資本)を獲得しやすいでしょう。人間は社会関係をとおしてさまざまな便益を受けます。また、他者と繋がりを持っていたほうが社会性や体力も維持しやすいと思われます。
年を取ってきた愛好家の人なら特に同意してくださると思いますが、社会性や体力も、趣味を遂行するにあたって重要な要素のひとつです。それらが乏しい趣味生活は制約の多いものとなるでしょう。ですから、コミュニケーション能力がある程度高く、それで人付き合いも嫌わずに続けていることは長期的にはオタクや愛好家の趣味生活を支えると私は考えます。
しかし、人付き合いが豊かだからこそ、趣味生活が妨げられる一面もないわけではありません。人と会ってばかりいれば、アニメを観る時間もゲームをやりこむ時間が削られてしまいます。趣味を共有していない人との人間関係に時間を割く場合、とりわけそうでしょう。
短期的にみれば、コミュニケーション能力が高く人付き合いが好きであることが愛好家としての趣味生活の足を引っ張る可能性はあります。若くて元気で血気盛んな年頃では、とりわけそう感じられるかもしれません。
その正反対が4.のコミュニケーション能力が乏しくコミュニケーションも嫌いな人です。こちらの場合、趣味生活に一心不乱に突き進めるため、特に若いうちは特濃のオタクや愛好家をやりやすいでしょう。人付き合いになどリソースを回さず、好きなことに埋没していたほうが愛好家としてのクンフーは確実に高くなる。そういう一面は確実にあるかと思います。
けれども、そういう生活を続けていてはソーシャルキャピタルはやせ細っていくばかりです。趣味生活でも、同好の士とさえ付き合えなければそれはそれで不便ですし、それだけで社会性や体力を維持するとなると、かなり厳しいものがあります。社会性や体力が保てなくなれば、社会生活や自分自身の健康状態、ひいては生命まで危うくなるかもしれません。こうしたことは若いうちは気にならないかもしれませんが、年を取るにつれ、愛好家としての生活のボトルネックとして浮かび上がってくるものです。
理念型である1.と4.の間には、2.と3.が存在します。が、これらはたぶん少数派で、遅かれ早かれ1.か4.のいずれかに収斂しがちと思われます。
2.のコミュニケーション能力が乏しくても人付き合いが好きな人は、頑張ってコミュニケーションを繰り返し、次第に上達すれば1.に合流するでしょう。また逆に、うまくいかない体験を繰り返した結果として4.に合流するかもしれません。
3.のコミュニケーション能力があるけれども人付き合いが嫌いな人は、もっとレアで、それそのままで存在している時間も短いよう思われます。web小説などにそういう設定のキャラクターが登場しても違和感はありませんが、現実にそういう人がそういうままでいられる時間は長くありません。強いていえば、外見の良さのおかげでコミュニケーション能力が高いと勘違いしたうえで、そのうえで人付き合いは嫌いだとうそぶいている青少年がこれに近いでしょうか?
持って生まれた外見の良さがコミュニケーション能力にプラスの影響を与える点は否定できません。しかし、外見の良さ、とりわけ解剖学的な見目麗しさは、会って数秒話せばこけおどしと見破られるものでしかなく、外見が良くコミュニケーション能力の乏しい人は、どこまでいっても外見が良いコミュニケーション能力が乏しい人でしかありません。そこが自覚できていない人はだいたい後で苦労するように娑婆世界はできているので、解剖学的な見目麗しさなどたいしてあてなるものではないと心得るべきでしょう。
そうでない人でも、人付き合いを避け続けていれば、ソーシャルキャピタルは次第に低下していくでしょうし、社会性や体力も少しずつ衰えていくものと思われます。コミュニケーション能力は、加齢や立場によって求められる振る舞いが変わり、時代によっても変わっていくので、アップデートを怠っていれば陳腐化します。3.に属する人は、早めに対策を打てば1.に、そうでなければ4.に移行しやすいものと想像します。
若ければなんでもできる、若さは"万病にきくバフ"だから……
ところで、こうして書いてみて改めて思ったのですが、若さって素敵ですね。
ぶっちゃけ、若ければなんとでもなるのです。
好きなように趣味生活が続けられるし、どう暮らしたって愛好家としてそこまで不自由なく暮らせるでしょう。若ければ社会性やソーシャルキャピタルはそこまで甚大な差になっていないし、自分自身の身体をぞんざいに扱ってもすぐには死にません。
けれども若さを失えば失うほど、趣味生活を続けていくための与件は厳しくなります。趣味生活に充てる時間やお金を維持するため、あるいは健康や体力をキープするために努力が必要になってくるのです。そのとき、コミュニケーション能力やソーシャルキャピタルは邪魔になることよりも助けになることのほうが多いでしょう。
ここで断っておきますが、同好の士と情報交換したり楽しさを共有したりするのも立派なソーシャルキャピタルです。そういう活動ができることだってコミュニケーション能力のうちです。それらの活動も心身の健康に資するものだから、繋がりってのはやっぱり大事だと私は思います。
若さはなんでもできる。いうなれば若さは"万病にきくバフ*1のようなもの"なので、若いうちは趣味生活に埋没し、愛好家としてのクンフーを限界まで高めることが最適解と思い込みやすい時期ですが、年を取りながら界隈を眺めていて思うのは、そういう修行僧みたいな趣味生活をやってのけられること自体、若さというバフに支えられたもので、通例、そんなことを中年になってもがむしゃらに続けるのは至極困難、そうそう続けられるもんじゃないですよってことでした。
修行僧みたいな愛好家、かっこいいけど、死なない程度にお願いします。
*1:バフ:ゲーム用語。ゲームにおいてキャラクターの能力をかさ増しさせるボーナスのような効果を指す。ちなみに逆はデバフ。