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「お祝いしてもいいの?」13年経って気付いた子どもの本音

2011年3月11日。
東北の被災地で、多くの子どもたちが生まれていた。

震災の3年後、私は当時3歳になろうとする子どもたちとその家族を取材し、「あの日 生まれた命」という番組を制作した。

それから10年。再び子どもたちを訪ねると、中学1年生になっていた。

「私が生まれた日は、たくさんの人が亡くなった日だから、悲しい日なんでしょう。お祝いしてもいいの?」

成長した子どもたちの問いに、取材を始めたときに感じた葛藤がよみがえった。

記者/藤田 日向子

“新たな命”のニュースに涙が…

東日本大震災が起きたのは、記者になって1年がたとうとするころ。当時は秋田県警を担当していた。

記者クラブで窓の外を見ていると突然、目の前の景色が崩れるような感覚になり、激しい揺れが。停電で信号機が消える中、車を降り、走って、秋田放送局に駆けつけた。すぐに地震の被害の取材にあたった。

被災地でヘルメットをかぶりレポートする藤田さん写真
仙台市の被災地からリポート

テレビでは津波や地震による深刻な被害が連日、伝えられていた。
今、この瞬間も命が失われているかもしれない。
ただ正直に言うと、当時の私は取材をすることが怖かった。
あまりに甚大な被害に無力さを感じていた。

「新たに生まれた命がある」というニュースを見たのはそんなときだった。

体重をはかっている赤ちゃんの写真
2011年3月11日に生まれた赤ちゃん

こんなときでも命が生まれているという事実に驚くとともに、震災後、初めて希望というものを感じた。
気が付くと、涙が流れていた。

「取材チームに入らせてください」

震災から2年。私が仙台に異動してしばらくたったころ、上司に声をかけられた。

「震災の日に生まれた子どもたちとその家族を取材するチームに入らないか」

たくさんの命が奪われた被災地だが、あの日生まれた子どもたちとその家族を通して、改めて命と向き合うことができないか。そう考えて始まった取材だという。

それまで、私は震災で大切な人を失った人の取材を続けてきた。

臨月の妻を亡くした男性は、残された長男と2人、日々懸命に生きていた。妻が使っていた部屋には、まだ入ることさえできずにいた。

父親を失った高校生は、写真を大切に持ち運んでいた。
朝起きることがつらい日、学校に足が向かない日、生きていることが苦しい日には、その写真を周りの人に気づかれないよう、そっと触っていた。

震災は、誰の心にも深く傷を残している。
そこに触れ、さらに報道をすることは、取材する側にも覚悟が必要だ。

震災の記憶が生々しい被災地で、「あの日生まれた子どもたち」を取材するということが、どう映るだろうという不安もあった。どういう気持ちで向き合えばよいのか。正直、迷いはあった。

ただ、震災直後、子ども誕生のニュースを見たときに感じた希望が忘れられなかった。

「取材チームに入らせてください」

私は参加を申し出ることにした。

「特別な重荷を背負わせたくない」

取材は、想像以上に難しかった。

3月11日に生まれた子どもはどこにいるのか。
個人情報であり、どの自治体も病院も本人の許可なく連絡先を教えてくれるはずもない。

私たちの代わりに、出産したお母さんやその家族に手紙を送付してもらえないか依頼するなど、さまざまなアプローチを重ねた。

ただ、やっとお会いできても、取材を断られることも多かった。

「新たな命が生まれ育っていることに、失った我が子を重ねて、傷を深くする人がいるかもしれない」

「東北は今、それどころではない」

「あの日生まれたことをテレビで放送することには抵抗がある」

「子どもたちに『あの日に生まれた』という特別な重荷を背負わせたくない」

そう答える母親もいた。

なぜ、亡くなった命に寄り添うだけでなく、新たに生まれた命を取材し、今放送しなくてはいけないのか。そこに何の意味があるのか。

私自身も迷いながらの取材は、一向に進まなかった。

「喜びも悲しみも一気に押し寄せた」

そんなときに出会った、ある母親の言葉が私をあと押ししてくれた。
最初は、取材はお断りしたいということだった。

「出産のときは病院にいて、沿岸部の方々のように津波で命の危機にさらされることもなかった。むしろ、守ってもらっていた立場だったのに、何を話せるのか…」

それでも、家に招き入れてくれて、話をする機会をもらえた。
戦隊ものが大好きな2歳の息子さんと一緒に遊んでいると、母親は、あの日のことについて言葉を選びながら、教えてくれた。

2011年3月11日、息子を出産したあと、家族が真っ先に電話したのは、夫の祖母だったそうだ。

「よかったよかった。このあと神社にお礼のお参りに行くからね!」

それが直接聞くことができた最後のことばになったという。

喜びに包まれ、大切な一日だったはずの3月11日。
私は母親にとって、3月11日がどんな日と受け止めているか尋ねた。

「喜びも悲しみも一気に押し寄せた日だった。それでも、元気すぎるくらい元気な息子の世話を毎日することで、その悲しみが少し和らぐことを感じた。言葉にすることは難しいけれど、生きることに一生懸命な日々だった」

生きることに一生懸命になる。その言葉には重みがあった。

無邪気に、ただ一生懸命に、その命を生きようとする子どもたち。そして、混乱する被災地でその小さな命を守ってきた母親や家族、そして地域の人々。

被災地の悲しみだけではない、ここから立ち上がる力強さを感じた。

これは今、伝えなければ。
ディレクター2人、記者3人で半年かけて東北各地をまわった。

あの日、少なくとも100人を超える子どもが被災地で誕生していたことが分かり、半数以上の家族から直接、話を伺ったり、手紙をやりとりしたりさせていただいた。

2014年3月11日。
子どもたちの3歳の誕生日に合わせて、番組「あの日 生まれた命」を放送した。

3歳の子がニコッと笑っている番組のひとこま
2014年放送「あの日 生まれた命」より

「生まれてきてくれてありがとう」という子どもたちへのメッセージを込めて。

私も母になった

それから10年。
私は仙台から東京に異動し、母になった。

出産を経験し、命が生まれてくることは奇跡の連続だと感じた。

あの日、揺れる分べん台の上で、出産した母親。
停電が続く中、懐中電灯の明かりに照らされて生まれた命。
そして出産直後に始まった避難…。
夜になると雪が降った被災地では、母親が我が子を人肌で温めた。

みんなどれだけ心細かっただろう。
そしてどれだけ新たな命に救われたのだろう。

あの日生まれた子どもたちは奇跡だけではない。多くの人が願った「生きてほしい」という思いや、周囲の助けに支えられ、誕生し育ってきたのだ。

出産の数日後、私は番組で取材した母親の一人に電話をしていた。
「喜びも悲しみも一緒に押し寄せた日」と話してくれた方だ。

「あの日、本当によく頑張りましたね…」

心から寄り添いたい気持ちと、取材者として改めて聞きたいことがあふれ出た。

目の前に守らなくてはならない小さな命があることで、人は強くなれたのかもしれない。そしてその強さが、周囲の希望になったのかもしれない。

その思いは子どもたちにどう届いているのだろう。
もう一度取材をしたいと強く思った。
そして去年、育児休職から復職した私は提案を書いた。

今だから言えること ~あの日生まれた命~

取材から10年たった今だからこそ、話せることがあるかもしれない。
子どもたちも中学1年生になり、自らのことばで本音が聞けるかもしれないという期待もあった。

当たり前じゃなくて、特別で大事で

この10年、何度も手紙や電話のやりとりを続けてきた人もいれば、10年ぶりに連絡する方もいる。

岩手県二戸市に住む、小林ひなのさんとその家族もそうだった。

勉強をするひなのさん
小林ひなのさん

当時の取材メモには、両親の気持ちがこう書かれていた。

「3月11日が来るたびに、生きているということを再確認する。ひなのには、たくさんの人が命を失った分だけ一生懸命生きてほしい。大きくなるにしたがって、どういう日に生まれたのか分かるだろうから、あの日の話をちゃんとしたい」

成長したひなのさんは、あの日に生まれたことをどう感じているのだろう。

当時教えてもらった電話番号はつながらなかったが、家族が営んでいた定食屋の名前を思い出し検索すると、新たな場所で店を再出発させていた。

小林さん家族は、毎年3月11日に続けてきたことがあるという。

それは、必ず家族で誕生日のお祝いをし、その様子をカメラで撮影して記録に残しておくこと。

1歳から12歳までの、バースデーケーキを前にしている11枚の写真。
ひなのさんの毎年の誕生日

カメラを向けてきた父親の温さんは、「多くの命が失われた日だからこそ、誕生日を迎えられることがかけがえのないものだということを伝え続けたい」という。

こたつを囲み、何かを見てニコニコしている4人
小林さん家族

(父・温さん)
「震災の日に生まれたからこそ、当たり前がいかに当たり前じゃなくて、特別で、大事でということを痛感した。当たり前が簡単に手に入るものだと思うと、きっとそれは違う。日々を大事にというか、生きていくことの大切さみたいなことを紡いでいければ良いなと思っている」

東日本大震災発生時刻の午後2時46分には黙祷もくとうささげる。
そして、誕生日会のときにはテレビの電源を切り、悲しいニュースが耳に入らないようにして「おめでとう」と伝え続けてきたそうだ。

ひなのさんも、毎年の誕生日を楽しみにしてきたという。

キッチンの前でエプロンをする母子
ひなのさんと母・洋子さん

「お祝いしてもいいの?」

ところがある年の誕生日が近づく中、ひなのさんが突然、こう聞いてきた。

「私が生まれた日は、たくさんの人が亡くなった日だから、悲しい日なんでしょう。お祝いをしてもいいの?」

両親にとって、いつか聞かれるかもしれないと、覚悟していた質問だった。

(母親・洋子さん)
「そういう風に感じさせないように接しては来たが、その言葉を言われたときには悲しかった。それと同時にそういうことがちゃんと分かる年齢、そして分かる子になったんだな。成長したんだなということを感じた」


「確かにすごくたくさんの人が亡くなったし、今でも悲しんでいる人がたくさんいるのは本当のことだけど、悲しむだけじゃなくて、亡くなった人の分も、ちゃんと生きよう。幸せになろうって思って、これから生きていけばいいんだよ」

母親の洋子さんがそう答えると、ひなのさんはうなずくだけで、特に何も話さなかったという。

なぜ、そんなことを突然聞いたのか。ひなのさんに直接尋ねた。

インタビューを受けるひなのさん
小林ひなのさん

(小林ひなのさん)
「自分が生まれた日だから、おめでたい日でもあるんだけど、同じ日に多くの人が亡くなったと考えると、複雑な気持ちになる。自分がああいう日に生まれて、お母さんとお父さんはどういう気持ちで守ってくれたのかなということがすごく知りたかった」

「お母さんの話を聞いて
自分がこの日に生まれたのも、きっと理由があるから、今こうやって普通に生きていられるのを大事にしようと思ったし、命って尊いものなんだなって。この命をくれたからこそ、頑張って生きていこうと思います」

10年前はまだ幼かった子どもが成長し、取材を始めた当時の私と同じ葛藤を抱えていた。そして、答えをみずから導きだしていた。

想像する以上に、誕生日が来るたびに震災と向き合ってきたのだと感じた。

「自分が生まれたから、地震や津波が来たのかな」

震災の日に無事に生まれたあとも、さまざまな困難と向き合ってきた家族もいた。

宮城県名取市で暮らす、佐藤雛咲さんとその家族だ。
母親の寛美さんは取材中、カメラが回り始めるまでは笑顔で当時のことを話していたが、インタビューが始まると泣き出し、涙が止まらなくなった。

タオルにくるまった雛咲さんとお母さん
母・寛美さんと雛咲さん

結婚して6年目、待望の子どもだった。
しかし、仙台での出産から12時間後、激しい揺れが襲った。

出産の2日後に退院したが、オムツもミルクも手に入らず、もらった試供品のミルクを薄めてあげることしかできなかったという。

インタビューを受ける寛美さん
母・寛美さん

(寛美さん)
「子どものものだけでもちゃんとしたものをあげられたらよかったんですが、量が限られているから無くなってしまうかなって。あぁ情けないなって思いました。当時のことを思い出すと泣いてしまう。言葉にうまくできないんですが、月日がたっても、うれしさも思い出すし、情けなさも思い出すし…。だからこそ、ちゃんと雛咲の支えになれるお母さんにならなきゃなって思います」

その後も試練が続いた。

雛咲さんが2歳のとき、父親の文彦さんが、くも膜下出血で倒れ意識不明の状態のまま救急搬送された。今も身体にはまひが残っていて、家族で支え合って生活をしている。

雛咲さんが幼稚園を卒業する前には、母親の寛美さんががんと診断され、長期間、家族は離ればなれになった。
毎日、互いの動画を送り合い、励まし合ったという。

3月11日に生まれたことについて、家族と話すことはほとんど無いという雛咲さんだが、2人きりで取材をすると、少しずつ話してくれた。

インタビューを受ける雛咲さん
佐藤雛咲さん

(雛咲さん)
「震災で多くの人が死んじゃったなら、自分も一緒に死んでしまいそうなのに、なんで生きていたんだろうなって。良いことがあれば、悪いこともあるから、私が生かされたから、悪いことも起きるのかなとか。自分が生まれたから、津波とか地震が来たと思っていた」

震災後も何度も「生きること」について向き合ってきた中で、雛咲さんは私が思っていたよりもずっと、命について深く考えてきたことを知り、胸が痛くなった。

「生きているからこそ」

2024年2月下旬、雛咲さんたち家族は、母親の寛美さんのふるさと宮城県気仙沼市にいた。

市を見渡せる「復興祈念公園」から見えたのは、津波で大きな被害を受けた町が復興していく様子だった。両親は雛咲さんに語りかけた。

温かい恰好をし、愛犬とともに高台にいる4人

(母・寛美さん)
「すごいね。大きな橋ができて。どんどん新しくなっていってる」

(父・文彦さん)
「震災でさ、いろいろなくなっても13年か。13年たつと、ここまで戻るんだよ」

(母・寛美さん)
「人間ってすごいね。みんなで頑張う、頑張ろうって町を作っていくんだね」

両親の話を聞いた雛咲さんは、少し柔らかな表情でこう心境を話した。

(雛咲さん)
「知らないことを、話だけではなくて見ながら教えてもらえて良かった」

傷ついても復興していく町の力強さを一緒に見ながら、両親は、雛咲さんに前を向いて生きていってほしいという思いを伝えたかったという。

港にいるお母さんと雛咲さんと弟

(母・寛美さん)
「生きていることが一番大切。生きていないと何もできないじゃない。みんなでどこかへ行ったり、一緒にご飯を食べたり、何もできないよねって。結局、年を重ねられるのも生きているからこそ」

「みんなが亡くなった日だからひっそりとしているのではなくて、あなたはあなたの居場所があって、あなたのやりたいことをしてよくて。大きくなってほしい」

あの日に生まれた皆さんへ

今回、成長した子どもたちへの取材を通して、「あの日に生まれたことを、重荷に思わなくて良いんだよ」と、どんなに伝えても、子どもたちは、毎年、誕生日が近づくたびに、複雑な気持ちになると感じた。

それでも、子どもたちはその思いをことばにして伝え、家族と話すことで、震災と向き合い、命について深く考えていた。

取材する側の私も、命の大切さに改めて気付かされた。

職場にいる著者の写真

今回のニュースを見た方々から、こんな反響があった。

「あなたの産声が、その存在が、どれだけの人々の希望となり、力になったことでしょう。皆、誰かの宝物。強く優しく笑って生きてください」

「生まれてきた命には、いつだって最大級の喜びを示すべき。そして同じ悲劇を繰り返さぬよう常に学び、語り継ぎつづける。それしか無いんだよ」

いまのひなのさんと雛咲さん写真

3月11日は、確かに悲しい日だ。
あの日のことを思い出すと、やっぱり泣けてしまう日がある。
でも、今ある命を一生懸命生きることが何よりも大切なことだ。

だから、私は伝えたい。

「お誕生日おめでとう そして生まれてきてくれてありがとう」

カメラ目線の筆者写真

藤田日向子
2010年入局 秋田局・仙台局・社会部を経て現在、映像センター所属。去年2人目の育休から復帰。母としての視点も忘れず、これからも震災の取材を続けていく。

「執筆者へのメッセージはこちら」の文字

==藤田記者のこれまでの取材==


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