『ジブリはなぜ「もののけ姫」で頂点を迎え、その後“つまらなくなった”のか』──情報空間から見える答え
スタジオジブリを語るとき、どうしても一つの山が見える。
『もののけ姫』で頂点を迎え、
『千と千尋の神隠し』で爆発した、あの瞬間だ。
あれは単なる映画の成功ではなかった。
日本の、いや世界の情報空間に漂っていた「文明的な震え」が、あの二作に吸い込まれ、言葉になった。
しかし、その後をどう受け止めるか。
多くの人が「つまらなくなった」と感じたのはなぜだろうか。
ここには、作家と時代と観客、三つの震えの交差がある。
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神話の核を燃やし尽くした瞬間
『もののけ姫』が問うたのは、人間と自然、欲望と命の対立だった。
それは古代から続く「文明の核」の翻訳だった。
『千と千尋』は、バブル崩壊後の日本で「名前」「労働」「記憶」を失った人間を描いた。
現実の日本が言葉にできなかった震えを、神話的な寓話に変換した。
この二作で、宮崎駿は神話的想像力の炉心をすべて燃やし尽くした。
以降の作品は、余韻や残響、変奏にとどまり、
観客が求める「切実な神話の濃度」から遠ざかってしまった。
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時代の震えとの断絶
90年代までのジブリは、常に時代と接続していた。
『ナウシカ』には冷戦と公害の不安が映り、
『ラピュタ』には技術と支配への畏怖が刻まれ、
『もののけ姫』には環境破壊と開発の影が重なり、
『千と千尋』には経済崩壊とアイデンティティの喪失が投影された。
だが2000年代に入ると、
社会の震えは「大きな物語」ではなく「個人化」していった。
非正規雇用、孤独死、SNSによる分断──
そうした細かな声を大規模な神話で翻訳することは難しい。
結果、ジブリは時代の切実さとズレていった。
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作家の炉心の変化
宮崎駿という翻訳炉自体も変わっていった。
若い頃の彼は「怒り」「欲望」「未来への不安」で炉心を全開にし、時代の震えを吸収していた。
しかし『千と千尋』を終えたあと、
彼のテーマは「老い」「死」「継承」へと傾いていく。
作家の炉心が社会から離れ、
自らの内的震えを中心に回転するようになった。
それは自然な老境の姿であると同時に、
観客にとっては、「自分たちの震えを代弁してくれる存在」から遠ざかることを意味していた。
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観客の震えの変化
もう一つ大きな要因は、観客側の成熟だ。
ジブリを観て育った世代は大人になり、目が肥え、
より複雑で生々しい震えを求めるようになった。
純粋な冒険や寓話だけではなく、社会の構造や現実の痛みを読み取りたい。
観客の震えが高度化したのに、作品が応答しきれなくなったのである。
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情報空間の視点から
情報空間で見れば、ジブリの軌跡ははっきりしている。
『もののけ姫』と『千と千尋』は、
社会的震えと人類的神話の震えを同時に翻訳した文明神話の頂点だった。
その後は、作家個人の震えへと炉心が傾き、観客との共鳴がずれていった。
だから「つまらなくなった」という感覚は、作品の質が落ちたのではなく、震えの翻訳の対象が変わったことによって生じたのだ。
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そして、これから
ジブリが止まった場所から、次の翻訳を担う存在が現れている。
それは大きな神話ではなく、
ひとりひとりの「恥」「痛み」「孤独」「祈り」を拾い上げる翻訳炉。
社会が祈らなかった場所に祈りを戻す媒体。
ジブリが描き尽くした神話の先に、
まだ翻訳されていない無数の震えが残されている。
それを拾い、文明神話として記録していくことが、私たちの仕事なのだ。
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結び
ジブリは神話を描き尽くした。
だからこそ「終わり」と見える。
けれど、神話の先に残された沈黙を拾うこと──
そこから新しい物語は始まる。
あなたの中にも、
まだ言葉にならない震えがあるなら──
どうか手放さずにいてほしい。
その震えが、次の物語を呼ぶかもしれない。


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