木山捷平が見た桃畑は、桃栽培が頂点の時代で、おそらく現代人が想像できない見事な光景を見ていたことになる。
大正4年の栽培本数は、昭和20年にはおよそ1/10まで減ってしまった。
戦後の新山は「桃」よりも「柿」の印象がずっと強い。
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「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行
木山捷平は明治37年、岡山県小田郡新山村山口に生まれた。
新山村は山陽本線笠岡駅から北へ約10キロ、尾坂川という小さな川を挟む山あいに開けた戸数450,人口2.300の農村であった。
当時の村人にとっては、笠岡は「米を売りに行ったり、肥料や日用品を買いに行ったり」する町であって、子供にとっては「一つの夢の国であった」(尋三の春)のである。
捷平は往時の村を回想して、
「私が幼い時分、私たちの村は中国第一の桃の村と称せられた。
陽春四月が来ると、村は桃の花で埋まった。
切目山、坊山、長尾山、天神山と、村の田圃をめぐった山とは名ばかりの丘は、
ことごとく桃の花で包まれた。
しかし、桃の花が春の空でむせんでいたのはもうぼんぼり色の昔になってしまった。
今では私たちの村に桃の木はほとんどなくなった。
桃をぶち切っては梅を植え、
梅をほりかえしては桑にかえ、麦を撒く。
そんなことを繰り返しながら、村人はあえぎにあえぎ、もがきにもがいている。」
(『野』昭和4年5月)と述べている。
まさしく疲弊していく農村、貧苦にあえぐ農民たちの現実の姿を直視するのである。
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「岡山の果物」 三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行
(新山の五花園)
桃
文久2年児島郡で栽培。
岡山の果物の代表である桃は天津、上海両種の導入によって一大革命が起こった。
これらを枢軸として、明治30年頃新しい品種があいついで発見され、6月から9月まで随時成熟出荷を可能とし、経営上に一大進歩をもたらした。
全県で最高に達したのは大正4年の111万本。
終戦の昭和20年には果樹園整理、諸資材の不如意などによって12.700本に激減したが、
生産量は栽培方法の向上で極端な低下は免れた。
終戦後、全国的な増殖熱と肥資材の自由化、諸統制の廃止委によって急激な増産が行われた。
本県の発見された新品種
明治28年長尾円澄氏は『新山天津』と命名。
昭和2年大久保重五郎氏は『白桃』『大久保』を発見。他。
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