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もうみんな“平凡な日常”なんて投稿しない

SNSに生活の何気ない瞬間をアップする──そんなことには意味がないと感じる人が増えている。
もうみんな“平凡な日常”なんて投稿しない
Maskot/GETTY IMAGES

朝食の写真は、ナルシシスティックなインターネット世界の原型のようなものだ。他人は必ずしもそんなものに関心を抱いているわけではない。だが投稿者としては、ウェブ上で広く公開しなければならないという必要性を、あるいは責任すら感じている。そういうコンテンツだ。

ある朝食べたものを投稿するというのは、TwitterやInstagramの初期にわたしたちがしていたことで、当時はそれが斬新に感じられた。突如として、自分の生活の最もありふれた瞬間を、見知らぬ人々が待ち受けているところに向けて公開し、喜んでもらえる可能性を知ったのだ。

ある意味で、朝食写真はユートピア的なソーシャルメディア世界の夢を体現していた。何十億もの庶民が自分たちの生活の断片──食事、ペット、シャワーを浴びながら思いついたこと──を、ほとんどそのままのかたちでインターネット上に投げ出して見せることができて、しかもそれが魅力的なばかりでなく、地に足の着いた現実に関するとても重要でいきいきとした記録になるかもしれなかったのだから。

自分で投稿したり、ほかの人の投稿に反応したりするという行為は、アマチュアリズムやありふれた日常、さらにはコンテンツベースの実力主義の価値を決めようとする壮大なプロジェクトに参加することを意味していた。投稿の仕方さえ正しければ、誰でもどんな内容でも魅力的に見せることができ、バズる可能性すらある。

平凡な風景がウェブ上から消えている

だがわたしは最近になって、自分がいつの間にかウェブ上の朝食写真や、それに似た投稿を懐かしく思っていることに気づいた。自分の生活の無作為の断片を気軽に公開している人は、以前ほど多くはないようだ。実際、そんなことをしてももはや何の意味もないし、かつては意味があったということがいささか信じ難くもある。

ソーシャルメディアの誕生から15年以上経ったいま、わたしたちはそこで何を目にしているのだろう? 予算が潤沢で洗練された作品づくりをそれぞれのレベルにおいて目指している無数のインフルエンサーやクリエイターたち、国際戦争における最新の恐怖を伝えるニュース、人工知能(AI)が生成した画像と動画と文章、ユーザーたちの心の奥底にある恐怖を刺激し、しかもプラットフォーム側が事実上黙認している純然たる“荒し”と“釣り”。そうしたものが溢れている風景のなかでは、日常生活の断片が収まる場所はほとんどない。そういうわけで大勢の人たちが、かつてのような頻度では投稿しなくなった。

先日、わたしの住むワシントンDCでバーテンダーとして働いている友人が、楽しげなセルフィーを何枚かInstagramのストーリーズに投稿していた。ある平日の朝のことだ。その後、その写真が消えていることにわたしは気づいた──彼女自身が削除したのだ。「世界中で起きてることを考えると、ああいうのを投稿したら無神経だと思われるんじゃないかって、不安になる」と友人はのちに説明した。「人目が気になるんだよね」と。

こうした様変わりには、世代的な要因もある。ソーシャルメディアと共に成長してきたミレニアル世代(80年代から90年代に生まれたY世代) が中年期に差しかかり、おそらくは暮らしのなかでよりプライバシーを求めるようになったのだろう。パートナーや子どもとの落ち着いた生活を始めると、自分のパーソナリティをインターネット上に映し出して見せることの明確な動機が弱まるのかもしれない。「みんなが、個人情報を公開することに慎重になっていると思う。10年前にわたしたち全員がどれだけのものをさらけ出していたかを考えると、そういう軌道修正には有益で健全な側面もあるんでしょうね」。そう話すエマ・ハルスはわたしの知人で、30代の弁護士だ。

Z世代の嫌悪

だが(90年代終わりから2010年代初めに生まれた) Z世代の多くやそれよりもさらに若いユーザーたちは、ソーシャルメディアに自分たちの生活を投稿することへの嫌悪を語っている。若者たちもまた、投稿疲れに悩まされているのだ。

24歳のカニカ・メーラはこう話す。「わたしたちの世代はみんな、覗き見趣味の人みたいになってます」。他人の投稿を見ようと いまだにスクロールし続けてはいるが、自分では投稿していないということだ。メーラはこう続けた。「みんな、自分の存在を他人に気づかれたくないんです」。だから自分で投稿したときには、「弱い部分をさらけ出してしまったような気分になって少し落ち込む」のだと。

17歳のタリク・ベチャーレヴィチは、彼自身も友人たちも、ソーシャルメディアに気軽に投稿していた時代なんか経験したことはないと話す。いまや若い世代たちは、複数の画像をまとめてアップできるInstagramのカルーセル投稿機能を使って動画や写真をどういう順序で投稿するかについて、お互いの意見を比較して頭を悩ませている。

「正直に言って、自分の朝食の写真を撮ってそれを投稿するなんて、想像もできません。大量の写真をまとめて投稿(フォトダンプ)するときの6枚目とかにならもしかしたら入れられるかもしれないけど」とベチャーレヴィチは言う(彼の理想的なフォトダンプの組み方は「ひとりで写っているのを1枚、孤独な生活をしているわけじゃないことを見せるために友だちとの集合写真を1枚、それからきれいな自然か食事か、もっといいのはユニークな趣味の写真を1枚」だ)。彼の友人たちの個人アカウントですら、「本当の意味で自由になるより、自由に見えることに細心の注意を払っています」と彼は続けた。

ソーシャルメディアの発達と共に、投稿に向けられる期待の基準値は上昇し続けてきた。殴り書きツイートはInstagramでの注意深く構成された写真に取って代わられ、それが今度はTikTok動画に取って代わられ、そうした動画はますますテレビ番組並みのクオリティを追求するようになっている。インフルエンサーとブランドアカウントにはそうした高い基準を満たせるだけの予算があり、リングライトやスマートフォン用の固定器具を購入している一方、わたしたち一般庶民はiPhoneのカメラアプリで四苦八苦している。

ミュージシャンでオンラインアーティストでもあるマン・バートレットは10年代初頭、“ライフキャスティング”と自ら名づけたストリーミング放送の先駆者だった。11年のパフォーマンスアート作品では、マンハッタンのポート・オーソリティ・バスターミナルで24時間を過ごした。そのあいだに出会った人たちについてリアルタイムでツイートしながら、ウェブ上で見守っている観衆には旅の思い出話を求めた。だが洗練されたコンテンツをつくり出し、一方通行の人間関係を築かなければならないというプレッシャーは「有害で病的」なものと化していった、と彼は話す。

また、「時が経つにつれてますますビデオ・コンテンツが増えてきて、自分の時間とエネルギーを注ぎ込みたいと思うようなメディアではなくなってしまった」のだという。近ごろでは、バートレットの発信は主として、新興のプラットフォームであるBlueskyへの、自分が進めている音楽の企画に関する簡潔な投稿に限られている。

虚無の淵へと消える投稿

ここ数年のあいだに、ソーシャルメディアのエコシステムはますます断片化し複雑化してきた。新しいプラットフォームがひっきりなしに登場しては滅び、ユーザー数もいくらか減少している。ある人が言うように、「DiscordとかBlueskyとかなんとかの使い方を身につけていくような忍耐力はない」ということだ。

常にテクノロジーに抗っているような感覚がある、と訴える人も多い。ソーシャルメディアのデザインは、自分は十分な注目を浴びていないという気持ちをユーザーのなかにかきたてる指標(メトリクス)や、日常の平凡な瞬間ではなく、専門的な意見や挑発そして自己宣伝のための投稿を欠かさず続けている人気アカウントを優先的に表示するアルゴリズムのフィードによって、気軽な投稿を妨げてきた。

「友だちの投稿をフィードで見ている人なんてひとりもいません。つまりソーシャルメディアというのは、生活の近況を伝えるものですらなくなっているんです」。ジョージア州立大学の学生、ベントン・ウィリアムズはそう話す。

インディペンデントミュージシャンのケーレ・フレミングは、自分が感じている不満をこうまとめる。「アルゴリズムは、決してわたしたちに得になるようにはできてはいないんです」。かつてわたしたちのフィード上には、珠玉のような未知のコンテンツが出現することもあった。それがいまでは、有名アカウントでなければ見返りを与えられない。友だちが見てくれるという保証がないのだとしたら、こんなことを続けても何の意味があるのだろう? しかも投稿するとなったら、アルゴリズムに気に入られなければということを常に意識することになる。さもなければ、自分の投稿は虚無の淵に消えてしまうのだから。

投稿することには、媚びを売っているように思われるというリスクが常につきまとっている。また、埋もれてしまうリスクがますます高まってもいる──あるいはもっと悪いことに、不適切な発言をした人間として注目を浴びてしまうというリスクも。

20年のブラック・ライヴス・マター運動の時期、抗議活動とは関係のないコンテンツを投稿することに怖じ気づいた個人ユーザーや企業アカウントは多かった。そのときの感覚は今日、イスラエルによるガザでの戦争や、トランプ大統領が移住者たちに対してICE(アメリカ合衆国移民・関税執行局)を動員したと言ったときに蘇っている。

「世界的な危機と個人の最新情報とのあいだのコントラストにはすさまじいものがあり、そのせいで感情を傷つけられることになるのです」。あるコンサルティング会社を経営するアリ・モランは、そう語る。「沈黙はそれ自体が発言のかたちとなったのです。ただし、無関係な投稿もまた意味をもつようになりました。正しい対処法など存在しないような感覚があります」

完全に身を退いて、個人的な考えや写真は、プライベートなグループチャットやメッセージをとおしてやりとりする方が安全だと感じられることもあるだろう。かくしてインターネットからは、その大切な構成要素であるありふれた日常の風景が、さらにいくらか失われていくこととなった。

わたしたちが投稿をやめる日

「Googleゼロ」とは、未来のインターネットのありかたを予想した言葉だ。そこでは、検索エンジンが外部のウェブサイトへのトラフィック提供を行なわなくなる。なぜなら、検索エンジン自体がAIを活用して、クエリーへの回答を生成できるようになるからだ。われわれはもしかすると、「投稿ゼロ」と呼べるような時代に向かってもいるのかもしれない。一般の人々──専門化も商品化もしていない、洗練されていない大衆──が、雑音や摩擦、そして人目に晒されることにうんざりして、ソーシャルメディアへの投稿をやめる日だ。

投稿ゼロは、かつてイメージされていたような、人々が経験している世界のすべてをリアルタイムで記録するものとしてのソーシャルメディアの終焉を意味する。だがそういう一般の人たちがいてくれたおかげで、ソーシャルメディアは注意を振り向ける価値のあるものになっていたのだ。そういった人々がいなくなった後には、賑わいの去ったビーチに散乱するゴミ屑のように、乾いた企業マーケティング、AIが生成したクズコンテンツ、そして、減少する一方の覗き見趣味の観衆をマネタイズしようと試みるぎらついた詐欺師たちによるいんちきコンテンツばかりが残されることになるだろう。

だがそれまでは、ただ好きだからという理由で投稿を続ける人たちがいる。(わたしの近著の版元の)Doubledayで広報責任者を務めているマイケル・ゴールドスミスは、そうした人間のひとりだ。ゴールドスミスが、2,000人に満たないフォロワーに向けて、Twitter(現X)で気軽な投稿を定期的に続けていることに、わたしは長いこと敬服してきた。

最近のわかりやすい実例を挙げると、ゴールドスミスはこんなことに思いをめぐらせている。「イヌがタバコを吸えるとしたら、両足でつかむのか片足の爪のあいだでつまむのか」。この投稿には、いいねがひとつも付かなかった。粘り強く続けている理由を本人に尋ねてみた。「脳の中にあるものを外に出して別の容器に入れる。そういうカタルシスを得ることだけが目的です」と彼は答えた。そして、「30回投稿して、いいねが2個付いてもまったく付かなくても気にならないんです──だって次の投稿をすればいいだけですから」と付け加えたのだった。

(Originally published on The New Yorker, translated by Ryo Shinagawa/LIBER, edited by Nobuko Igari)

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