👁️ どこでもドアと“私”の意識──流れと物語としての私
どこでもドアから始まった問いは、やがて宇宙の構造にまで広がりました。
過去も未来もすでに存在しているブロック宇宙。
すべての情報が境界に刻まれているというホログラフィック原理。
けれど最後に残るのは、もっと身近なところにある問いです。
──「その宇宙を体験している“私”とは、一体何なのか?」
🌊 意識の流れ
心理学者ウィリアム・ジェームズは、意識を「川の流れ」にたとえました。
私たちが「自分は続いている」と感じられるのは、
記憶や身体の同一性だけでなく、
この途切れない流れを体験しているからかもしれません。
どこでもドアを通ったときに不安になるのは、
この流れがプツンと断ち切られてしまうかもしれない、
と想像してしまうからでしょう。
👁 気づきとしての観測者
「私」とは、単なる記憶や性格の集合でしょうか。
それとも「気づいている」という観測そのものなのでしょうか。
仏教は「固定した自我はない」と説きました。
哲学者パーフィットも「自己とは束である」と語っています。
だとすれば、「私が私である」という感覚は物語に近いのかもしれません。
けれど、その物語を読む「気づき」があるからこそ、
私たちは「生きている」と感じるのです。
📖 物語としての自己
考えてみれば、私たちは毎日少しずつ変わっています。
昨日の私はもういない。
今日の私は新しい。
それでも「私は私」と思えるのは、
日々の断片を一つの物語として編み上げているからです。
どこでもドアが揺さぶるのは、
その物語の連続性そのものなのです。
🌱 死と意識のゆくえ
死とは、この物語が閉じることなのかもしれません。
でも、物語が閉じても「気づき」という現象は、
もっと大きな流れの中で続いているのではないか──。
私が「私」と呼んできた存在は、
流れの中の一冊の物語にすぎないのかもしれません。
そしてその背後には、
まだ見ぬ次の物語を生み出す源泉が潜んでいるのかもしれません。
まとめ
どこでもドアから始まった問いは、
最終的に「意識」という内側の扉へとたどり着きました。
「私とは誰か」
「意識はどこから来て、どこへ行くのか」
答えはまだ分からない。
けれど問いを抱き続けることこそが、人間の豊かさの証。
そしてその問いの奥にも、やはり小さな希望が潜んでいるのだと思います。
──あなたにとっての“私”という物語は、
いまどんな流れの中にあるでしょうか?



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