🌌 どこでもドアと“私”の連続性──問いの中に見える、小さな希望
あるとき耳にした話が、ずっと心に残っています。
──「どこでもドアを通ると、いまの自分はいったん分解され、移動先で“自分のような存在”が再構築されているのではないか」。
子ども向けの夢の道具のはずなのに、ふとそんなことを考えると、不思議な感覚になります。
もしそうなら、ドアをくぐった“私”は、同じようでいて少し違う存在なのかもしれません。
連続性という安心感
私たちはふだん、「昨日の自分と今日の自分は同じ」だと疑いません。
朝目覚めても、昨日の記憶があり、同じ名前で呼ばれ、同じ手足を動かせるからです。
けれど実際には、細胞も記憶も少しずつ変わり、完全に同一ではありません。
「私がずっと続いている」という感覚は、事実というより“物語”に近いのかもしれません。
その物語を信じることで、私たちは安心して暮らしているのです。
不安の正体
だからこそ、どこでもドアの思考実験は考えさせられます。
「その物語の糸がもし途中で切れてしまうとしたら?」と。
意識が入れ替わっても、体験の連続性が保たれるのか──。
怖さというより、不思議な問いを突きつけられる感じに近いのかもしれません。
それでも
一方で、そこには希望も見えます。
もし「私」が少しずつ更新されながら新しく生きているのだとしたら、
それは「どんな瞬間からでもやり直せる」ということだからです。
どこでもドアは、「今ここからまた始められる」という可能性のメタファーでもあるのかもしれません。
まとめ
どこでもドアは便利な道具であると同時に、
「私とは誰か」「意識の連続とは何か」をそっと問いかける哲学装置のようにも見えます。
その問いを抱くこと自体が、人間らしさの証。
そしてその奥には、ひそやかな自由と温かさが潜んでいるのかもしれません。
──もし本当に目の前に「どこでもドア」が現れたら、
あなたは安心して、その扉を開けられるでしょうか?
さらなる扉へ



コメント