愛は、かたちを持たなくても届く―― 藤井風《Love Like This》の構造と思索(前編)
本稿は、藤井風《Love Like This》を聴いた私自身の心の動きと、過去作《grace》との共鳴をもとに綴った、個人的な記録です。
🎧「Feeling」── 感じることからすべては始まる
More than perfect, amazing
More than words can explain
It's purest form of reality
Divinity
この冒頭は、「言葉を超えた感覚」への信頼を強く湛えている。
完璧以上、言葉以上──そこには、比喩も不要な、ただ「感じる」ことでしか届かない領域がある。
《grace》にも登場した「Divinity(神性)」という言葉がここでも使われるが、明確に違うのはその位置づけだ。
《grace》における神性が“上から降りてくる恵み”であったのに対し、
《Love Like This》では、“すでに感じられている現実”として歌われている。
つまりこれは、「降ってくる愛」ではなく、「今ここにある、触れるような愛」だ。
💧「I've been suffering」── 痛みがまだ過去になりきらないうちに
I've been suffering
In this tiring crazy world like I'm drowning
There's no way to escape I thought
But finally here I am
ここには、「過去の苦しみ」ではなく、「現在進行形の痛み」が語られている。
溺れるような現実、逃げ道のない疲弊──
それでも、たどり着いた。そう歌う声には、どこか涙ぐむような安堵がある。
これは心理学でいう「癒しの未完了性」に近い状態だ。
完全に癒えたわけではない。けれど、癒しの光の中にすでに足を踏み入れてしまったとき、人はこのように語るのかもしれない。
「I'll never find another love like this」── 名前のない“唯一性”の告白
I'll never find another love like this, it's true
...Baby, can you feel it too just like I do?
この繰り返される言葉には、確信と不安が同居している。
「こんな愛にはもう出会えない」──そう思えば思うほど、それが消えてしまうことへの怖れも滲む。
愛着スタイルで言えば、安定と不安の狭間にある、繊細な心の動きとも言える。
だがそれは「不安」ではない。
むしろ、「この愛は、もう言葉にはできないからこそ、本物だ」という深い了解に近い。
「Can I give it to you?」── 与える愛への変化
Baby, can I give it to you? Just like you do
Then we share it too
ここで初めて、「与える主体としての私」が登場する。
それまで受け取るばかりだった語り手が、「あなたがくれたように、私も与えたい」と願うようになる。
そしてそれは「あなた」か「私」かではなく、**共有(share)**という言葉に収束していく。
《grace》が「赦しとしての愛」だったとするなら、
《Love Like This》は「響き合う愛」「ともに生きる愛」への進化だ。
「Thank you / Wherever I go I feel you」── すでに“ともに在る”という感覚
Thank you
Wherever I go I feel you
この感謝は、語られない何かへの深い頷きのようだ。
「どこにいても感じる」存在──それは、もはや物理的な距離や関係を超えて、
**“内在化された愛”**として共にある何か。
続く愛のリフレインへ──(後編に続く)
Now I am
Falling softly colliding
Into your sweet silver lining
There's no way to escape from heaven...
ここから曲は、さらに深い融合と再生へと進んでいく。
次回、後編ではこの“愛の定着”と《grace》との本質的な違いについて、
構造と心理の視点から深掘りしてみたい。



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