「傍系の宮家皇族」の前例にならった

悠仁殿下の成年式にともなう祝宴は、先に述べたように宮殿を使うことは控えて、民間の施設を利用された。

その前例は、昭和天皇の末弟でいらっしゃった三笠宮がお立てになった傍系の宮家(三笠宮家)の3人の親王方の成年式の場合だ。

ご長男の寛仁ともひと親王の時は昭和41年(1966年)1月5日に成年式、同6日に祝宴が行われた。ご次男の桂宮の時は先述の通り、昭和43年(1968年)2月27日に成年式があり、祝宴は同28日だった。ご三男の高円宮は昭和49年(1974年)12月29日に成年式、祝宴は翌50年(1975年)1月12日だった。

会場はどなたも都内の民間施設、綱町三井倶楽部だった。

悠仁殿下の場合は、明らかに天皇陛下など“直系”の前例ではなく、これら三笠宮家の“傍系”の前例にならわれたものだった。

この事実を念頭に置くと、成年式の日取りがことさら19歳になられるまで延期された理由も、ほのかに見えてくるのではないだろうか。

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9月10日午後に「午餐」が行われた明治記念館(写真=江戸村のとくぞう/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

秋篠宮さまの厳格な自覚

秋篠宮殿下のこれまでのなさりようを拝見すると、直系と傍系の区別について厳格な自覚を持っておられると拝察できる。

まず、直系の皇嗣である「皇太子」と類似の称号(皇太弟など)を辞退されたこと。これについては、上皇陛下のご譲位を可能にした皇室典範特例法の制定の際、内閣に設置された有識者会議の座長代理を務めた御厨貴氏の証言がある(「朝日新聞 デジタル版」令和2年[2020年]11月8日配信)。

なお「皇嗣」とは、皇位継承順位が“第1位”の皇族を指す。同じ皇嗣でも、“直系”の皇嗣なら次代の天皇になられることが確定的なのに対し、“傍系”の皇嗣はその時点での第1位にとどまる、という違いがある。

そもそも「秋篠宮」という宮号自体が傍系の“証し”だ。なので、令和になっても内廷に入られず、この宮号にこだわって秋篠宮家を維持された事実そのものが、直系とは区別される傍系の位置に、自覚的にとどまられたことを示す。

そう考えると、直系の皇嗣である皇太子と紛らわしい印象を与えかねない「立皇嗣の礼」という前代未聞の儀式を政府が企てたことにも、おそらく内心では違和感を覚えておられたはずだ。そのことは、この儀式での秋篠宮殿下の「おことば」が、天皇陛下の立太子の礼での「おことば」と比べて、明らかに控えめな調子になっていた事実からも、察せられる。