三輪山伝説について その三

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(注2)今日、当たり前に思っている車輪を作り上げるまでには長い道のりがあった。車輪の完成は人類史にとって革命的な出来事だった。軽戦車が開発されれば、外からの攻撃を防ぐことができて都市国家は安定的に繁栄できる。富める者が強い者となったのである。富が築けても掠奪されるリスクが高ければ、退屈で疲れる農耕作業に対して勤勉になることはなかっただろう。それほどに重要な機具を支えるのが車の構造である。まず、コロのようなものをまるい軸を地面にあてがって運搬の助けとした。コロがコロコロと転がるのはまるい輪郭をもつからである。
 荒川1991.は、「人類は前五〇〇〇年ごろまでには橇を手にしていた。丸木舟と並ぶ最古の運搬具である。……純粋の橇から車への移行。その動機としてよくあげられるのはコロ説である。……人間は経験的に、丸い棒を並べその上を走らせるならば容易に動かせることを知った。コロは滑り摩擦係数を減ずるとともに、コロが回転すれば摩擦はさらに小さくなる。ただ、橇が移動すると同時に、コロを車の前部に並べ換えねばならないという面倒がつきまとう。この面倒さを解消するために、コロが車体から離れずに一定位置で回転するよう工夫したのが最初の車であったと考えるのである。それゆえ、この仮説によると、最初の車輪は車軸と一体であったのであり、その後車輪は車軸から分離、車体に固定された車軸のまわりを回転する形式に改良された、と想定される。この改良によって、摩擦が小さくなったのに加えて、両輪が独立に回転可能となり、そのため車の方向の転換が楽になる。とくに機動性が求められる戦車には有効であったにちがいない。コロ説は一つの仮説であって、それを証明する資料を提示することはできない。といって、コロ説以上に説得力のある仮説を捜し当てることはできないので、私も、いまのところはコロ説に従っておきたい。」(16~17頁)とする。そして、車以外の回転系の技術、紡錘車と轆轤についても言及がある。三輪山伝説については、本稿のとおり車輪と紡錘車をモチーフとしていると考えられ、轆轤技術については三輪山祭祀における陶邑の須恵器との関係が指摘されるだろう。言葉と技術とが相即的な関係にあるという、無文字文化では当然のことが、現代の眼からも示されているわけである。
 車の発達史を見れば、次の段階で車軸に円盤状の車輪をつけた車が登場する。当初は一枚の材を削って作ることしか思いつかなかったが、円周を大きくすれば車の性能はあがることから、円盤を二枚組み合わせるように工夫されたのだろう。ウルのスタンダードに見られるタイプである。これら円盤状の車輪は、漢字では「輇」と書かれる。車軸のワと輇のワの二つのワからなる第二の輪である。そして、円周をさらに大きくするために車輪の途中にスポークを入れてタイヤを支えるようにした。その場合、車軸のワ、いちばん外側の地面に接する「輞」と書かれるタイヤ部分のワ、そして、スポークをまとめながら車軸を通すハブ部分の「こしき」と呼ばれるワが拵えられる。都合三つのワによって成り立っているのが、第三の輪である。
 この三つのまるい輪郭でできあがっているものはミワ(三輪)と呼ぶことができる。接頭語ミ(御)+ワ(輪)と捉える意にも値するすばらしいワ(輪)である。そもそも、まるい輪郭を作る目的は、和名抄にもあるとおりコロコロと転がそうとすることである。それが発達して効率よく進む車が開発され、クルクルと軽快に回転して行くようになった。そのからくりは、大陸のカラ(韓・唐)の教えによるものである。本邦では、カラカラと急回転する二輪馬車までは展開しなかったが、クルクル回る車までは到達した。詩経・王風・大車に、「大車は檻檻かんかんたり」とあるのは、車の快調な回転を表わす音と考えられる。
(注3)荒川1993.に、「車の本格的な最初の改良は、シュメールに車が出現してからほぼ一〇〇〇年後、北メソポタミアに勢力を有していたミタンニ人が牛や驢馬よりも強力な馬を繋ぎ、そしてそれまでの円盤の車輪に代えて(スポーク)つきの軽量な車輪を導入したときである。機動性に優れた戦車の追求から生まれたと考えられる。機動性ということでは、四輪車よりも小回りのきく二輪車が有利であるので戦車にはもっぱら二輪の馬車が使われた。軽戦車の出現である。」(15頁)とある。
 本邦には牛車ばかりで、明治維新まで馬車は見られない。乗用には二輪車ではなく飾り立てられた四輪の牛車が偏重されていた。荷車として石山寺縁起に見えるものも牛車である。どうしてそのような状況に置かれていたのか、とても興味深い課題である。本論とは別の事柄であるので深入りはしないものの、荒川1991.に、牛車や駕籠は「見栄をみたすための大道具」(144頁)であったこと、「急ぎの用ということでは騎馬があ」(139頁)ること、「労働事情[として]……過剰人口を抱いた国で……人間という優秀な動力源が容易に供給されたので、飼育や訓練に手間のかかる動物の利用に熱心にならなかった」(140頁)など、示唆に富む指摘が多くなされている。一筋縄では説明できない技術史の不思議さについて解き明かそうと試みられている。
(注4)荒川1991.132頁を踏襲して、櫻井2012.は、「日本へ車の技術を伝えたのは、四~六世紀の高句麗からの渡来人であろうといわれている。大和王権の周辺に移り住んだ高句麗の工人たちが伝えた多くの新技術の一つに車もあったと考えられる。これは高句麗の古墳壁画に残る曲蓋式牛車と平安時代の牛車が外見や車の構造が似ているからである。」(2頁)とする。日本の牛車が高句麗に由来するとの説には疑問が残る。通溝・舞踊塚古墳玄室奥左の図は狩猟図であり、牛車は幌付きの荷車である。そのような車は、牽引は馬であるものの後漢の時代の画像石にも見られる。平安時代の貴族は、大陸に荷車であった幌付き牛車を乗用車にしたということを言っているのか。何が似ていて何が似ていないのか論点がよくわからない。
(注5)老子・無用第十一は、「みそ、一つのこしきともにす。其の無に当りて車の用有り。つちねて以てうつわものつくる。其の無に当りて器の用有り。戸牖をうがちて以て室を為る。其の無に当りて室の用有り。故にの以て利とるは、無の以て用を為せばなり。」としている。阿部・山本・市川・遠藤1966.は、「このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである。」(28頁)と無用の用について訳している。
 老子のあげている例が、轂、土器、住まいであるのと、本稿で望見した轂、甑、橧とがとてもよく対応している。そこには何らかの関係があるのか、祓という実質を伴わない無用の用的儀礼の意義にまで及ぶ事柄なのか、今のところ不明である。
(注6)樋口1987.に次のようにある。今日の考古学上の通説とは異なる点があるかも知れないが、示唆の多い指摘である。

 ……東洋ではイネやオオムギの伝播に伴いで粒食が好まれた。中国新石器時代土器に袋形をなした三脚を有するれきや底部に若干の小孔を穿ったこしき、また鬲と甑を結合させたこしきなどがあり、これは明らかに穀類を粒のまま蒸すのに使用したもので、それらは青銅器時代に入っても同形に鋳造盛用されている。このような穀物を蒸す技術は、米の流入と共に日本に伝わったらしく、弥生式土器の前期のものにすでに甑が存在している。わが国におけるこしきの用法は、この中に布で包んだり、篭・笊に入れた米を入れて固く蓋をし、火にかけて湯の沸き立っている甕や鉢形土器の上に載せ、水蒸気で蒸した。古墳時代には甑、釜、竈(移動性のもの)がセットになった遺物が存在し、蒸す方法が一層発達したことが知られる。甑の底の蒸気孔の上には木の葉(カシワ、シイの潤葉樹やサトイモ、ハスの葉、マコモ、アシなどの葉や竹の編物)を敷いた場合も多く、そのことからカシワは炊事の代名詞となりその専従者をかしわで・・・・(膳部)とよぶようになったとする説もある。蒸す方法は古代の米の調理法の代表とされ蒸した米をいひ・・とよんだ。(70~71頁)

 和名抄にある「いひしたみ」とは、蒸すためのシタミということになる。甑の中にセットされたものを指している可能性も残る。延喜式に「籮」をカタミと訓んでいる。和名抄に、「笭箐 四声字苑に云はく、笭箐〈零青の二音、漢語抄に加太美かたみと云ふ〉は小さき籠なりといふ。」とあるもので、用途の違いではなく大きさの違いのようである。小林1964.に、延喜式にある「煠籠[あふりこ]は「内膳司式」にいう漉籠[したみこ]と同一のものかと推定される。漉籠もまた、ゆで餅をゆでる時に用いたものである。」(160頁)とある。今日、麺類の湯切りをする行為もシタムということのようになっている。ただし、和名抄では、「烝」と「茹」は別項である。「烝」に、「火気上行也」と説明されており、もともとは水分の上下動のための調理用具をシタミと考えたと思うがどうなのであろうか。
 今日、ふかしざるとして、金属製でフレキシブルに大きさを変えることのできる商品が出ている。酒米を蒸すためのサルは、甑の底部に逆さまに伏せて入れて蒸気の通りを良くしながら米粒を落とさない仕掛けであった。蒸気の水分を「下」に通して「火気上行也」といえる。反対に、蒸すための笊としては、甑の大きさに合せた竹籠を編み作ったものと思われる。和名抄の「したみ」の説明に「底方上[圓]」とあった。そういった形に作った竹籠ならば、穴が一つの甑に落とし込んだとき底の穴にすっぽりと納まい、蒸し上がったとき箄ごと取り出せて甑を洗う手間が要らない。竃に嵌め殺しの甕では甕を洗うことができない。あるいは、甑も洗わなかった可能性さえある。廣岡2014.に、「[弥生時代の底部穿孔土器]の蒸し方では、土器内のコメを均一に蒸し上げることは期待できない。それが弥生時代の技術的な限界であったと理解してよいのではなかろうか。」(10頁)とあるものの、山口2002.に、「蒸気エネルギーは穀粒などの隙間をまんべんなく通るので変成を均質にし、エネルギー効率が高い、というメリットがある。」(69頁)とする。何段にも重ねられた蒸籠のどの段でも粽が作られている。特に酒造の場合、蒸すことによってデキストリンとなった米澱粉を糖化してその糖を酵母菌がアルコールに変えるという同時進行の離れ業に有効であるとされる。てきぱきと作業するには箄内蔵方式が良いように思われる。
 竈に嵌め殺しで築かれた甕に常に水が張られて湯が沸いており、そこへ甑を載せるとすると、どちらも土器である甕と甑の間の隙間から湯気が逃げて行きかねない。藁を使って甕と甑との間の隙間を埋めたところ、焦げてコシキワラノハヒ(甑帯灰)といえるものになったのではないかと想像することもできる。いずれ机上の論である。
(注7)日本列島の人々は、容器の歴史が瓢箪を始源としない特異な文化にあるといわれている。土器がきわめて盛んに利用されていた。それがベースにあることを認識したうえで須恵器について述べなければならない。
 佐々木1984.、和田1995.によれば、三輪山から出土した須恵器七十四点の大半は陶邑に由来しており、陶邑で焼成された須恵器を用いての三輪山祭祀は、五世紀後半から始まり、六世紀前半、六世紀後半がピークで、七世紀には急速に衰退したようである。この考古学的事実と、古事記に残る三輪山伝承とを勘案して、歴史的経緯を見出そうとするのは有りがちな議論である。佐々木氏は伝承と史実とが混乱することを恐れ、三輪山神婚譚は神と巫女との関係を神話的に表現したものとして処理している。話(咄・噺・譚)なのだという融通が利かなくなっている。筆者は、記紀万葉に対するに当たり、歴史学的な見方をしても生産的ではないと考える。いったん近代の歴史学や神話学というフィルターがかかったら、物事の捉え方が硬直して、もはや上代の人の心に触れることはできなくなるだろう。当時の言語習慣はおおむね無文字のそれだったから、ありのままに読んで状況をできる限り再現したうえで理解することを試みなければならない。すなわち、上代人と同じものの見方に努めることが第一義なのである。
 和田1995.が佐々木氏に対する疑問としてあげている点を記しておく。「[①]三輪山山麓集団の実態は何か、[②]須恵器が堅牢で祭器として優れていても、そのことが何故陶邑と三輪の集団を結び付ける機縁となりえたのか、[③]渡来系氏族を母体とする三輪君がどうして「君」姓のカバネをもつのか、[④]六世紀以降、三輪山祭祀が国家的祭祀として行なわれたものとすれば、どうして三輪の神が国つ神として位置付けられねばならなかったのか、等の疑問が残る。」(45頁)。いま、筆者にすぐ用意できる回答としては、①については関知しない。②はスヱとミワという言葉が縁語だからである。③は「猿女君」と同等の事柄として研究すべき課題と見る。④は本稿の中心テーマである。ミワとは、半月はにわり、黄門、paṇḍakaと深い結びつきがある言葉で交わることが禁忌とされてしかるべきであって、交わったら祓えの対象、国つ罪に当たり、国つ罪に対するのは国つ神であるといえる。異種交配のタブーがついて回る場所がミワという地だから、誰が祭祀しようが国つ罪であることに変わりはない。罪の種類によって神の種類が変わってくるということである。
(注8)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注9)林1976.299頁参照。
(注10)田中1984.に、「絵巻物のなかに描かれている牛車の輻は,刻明に1本ずつ描かれているものもあるが,他の物のかげになったり,疾走中の様をあらわすため輻が流してあったりして,その本数を数えられないものもある。ここでは数えることのできた8絵巻,28台についての調査結果を述べる。……輻数はすべて3の倍数になっている。……牛車の輪の構造から……部材の1片から3本の輻が出るので,輻数=3✕(部材……の片数)が忠実に描かれているのではないかと考えられる。」(30頁)とあり、実際に絵巻物の絵のなかの車輻の数を調査している。

 伴大納言絵詞21本1台
 吉備大臣入唐絵詞24本1台
 年中行事絵巻(住吉本)21本7台、24本1台
 北野天神縁起(承久本)24本1台、33本2台
 西行物語絵巻21本1台
 駒競行幸絵巻24本1台
 平治物語絵巻18本1台、21本5台、24本5台
 小野雪見御幸絵巻24本1台(別場面で23本に誤る)(31頁)

 3の倍数である点は作り方を知っていればそう描くだろう。そして、いちばん外側の輞の部品、大羽に3本ずつ輻が対応するように装着させるパターンから、やはり輻を伴う車輪が「三輪」なのだと納得がいく。
 しかし、周礼・考工記に忠実な、ちょうど三十本の例が見られないのは不思議ではある。次注に示すとおり、九十は卆で縁起が悪いと言い伝えられて避けられているのであろうか。他の絵巻にも牛車は描かれているからさらに調査する価値はありそうである。なお、井上2004.は数え方が違うようである。
(注11)「卒」の音がシュツ(シュチ)の意は、ヲハル、ツキル、シヌである。爾雅に「卒 尽也、已也、終也、死也、既也」とある。万葉集では、題詞に「石田王卒之時丹生作歌一首」(万420)、「同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」(万423)とある。「みまかりし時に」と訓むのが通例である。ほかに、「坂本財臣卒りぬ」(天武紀元年五月)、「凡そ百官まうしなば、親王及び三位以上はこうと称せよ。五位以上及び皇親はそちと称せよ。六位以下、庶民に達るまでは死と称せよ。」(喪葬令)とある。
 「卆(卒)」字が人生の終わることを表すことは、ヤマトコトバの面からも実は支持されることである。スヱ(末)を意味する。「「すゑ」という音の語には、末と陶と須恵と「う」としかなく、その間に何らかの関係があるかも知れない。」(白川1995.427頁)とあるように限られている。本稿では、須恵器(陶器)、九十日をもってのすゑなどがめぐり登場している。
 扶桑略記第廿九、康平三年(1065)条に、大僧正明尊の九十の賀の記録がある。「十一月廿六日、関白従一位〔経通〕於白河別業大僧正明尊九十之筭。図-絵釈迦如来像一鋪。書-写妙法蓮華経九十部。其詞曰。伏惟大僧正法印大和尚位。戒定瑩器。忍辱裁衣。一乗圓融之嶺、開顕之花春鮮。五部惣持之園、智慧之菓秋盛。旁究学海之波浪、早為佛家之棟梁。弟子従弱冠之始、迄携杖之今、依其護持之力、全此愚昧之身。方今和尚春秋之筭。九旬全盈、可喜可懼、正是其時也。仍掃白河之勝形、敬致丹地之懇念。彼姫公旦之在洛邑也。未花文於禅林之月。智法師之老蘇州也。誰賀松年於巨川之波。今日之事少超古人。又源亜相〔師房〕述和歌序、其詞云、三冬之仲、子月下旬。関白尊閤忽排白河之花亭。設緇素之宴席。盖賀大僧正法印和尚九十筭也。和尚戒定内明。智行外朗。早為一宗之棟梁。久経数代之朝廷。過八十八廻、如来猶以不尓、超九々九歲、筭師所量也。是以因无漏无為之功徳。證不老不死之妙文者歟。遂感希代之鶴齢、命佳会之鸚盞。〈已上〉左大臣〔教通〕以下皆参。
 如来がそうではなく、筭師も計算できない年齢まで生きることは、人のよはひの概念を打破する。今までの考え方をヲハリ(卆)にしなければならないということか。霊異記・上・第五話に、「[大部屋おほとものや栖野古すのこ]春秋九十余にしてみまかりき」とある。「よみがえりのむらじの公」のお話である。
(注12)拙稿「神功皇后のアユ釣りについて」参照。
(注13)時代別国語大辞典の「わ[三輪・神](名)神。」の考察に、「「味酒ウマサケ瀰和みわの殿のアサにも出でて行かな」(崇神紀八年)「味酒三輪みわヤシロの山照らす」(万一五一七)「美和之みわノ大物主神見メデ而」(記神武)などとある大和の三輪の地の大物主神の神威が大きく、神といえば三輪の神が思い起こされたので、ミワに神があてられるようになったのであろうか。」(719頁)、「わ[御酒](名)神に供える酒。」の考察に、「鍋や甕の類を総称してワといい、御甕ミワで酒を醸したからミワというとみる説もあるが、鍋や甕の類をワといったという確かな証拠はない。」(同頁)とある。説明になっていない。
(注14)拙稿「餓鬼について」参照。
(注15)木下2010.に、「おそらく、古代から室町時代までは、シログワイとクログワイの両方を、クワイと総称していたと思われる。中華料理の食材にある黒慈姑は、……シロクワイの改良品である……。……『本草和名』、『和名抄』にクワイという名がありながら、万葉集ではなぜヱグと称したのだろうか。一つの考えとして、クワイは本草家の命名による烏芋という漢名に対してつけられた名であり、古くからある土名がヱグであったと思われる。ヱグイモすなわち「ゑぐい芋」の短縮形と考えられ、食べられるといってもかなりゑぐ味があり、かろうじて食べられるという程度のものであるから、正鵠を射た名といえるだろう。冬は食料の乏しい時期であり、米や雑穀の在庫が少なくなった場合、古代ではこんな芋でもご馳走であったにちがいない。」(626頁)とある。筆者は、クワイがまずいかどうかについてコメントを差し控えたい。命名については、クワヰという何とも元来のヤマトコトバ調でない点に、いわゆる和訓の臭いを感じている。
 また、図説江戸時代食生活事典に、「クワイは地下の塊茎を食用とするが、昔から正月のお節料理や三月の節供料理には欠かせなかった。香気が高く風味も高尚で、今では高級料理に用いられている。また、クワイは性欲を抑制する効があると信じられて、ことに僧徒に食され、さらにこの俗説にちなんだ艶笑小話もいくつか作られている。」(117頁、この項、植木敏弌)とある。本稿の主張する三輪山伝説半月説に関わりがあるように思われてならない。
 ヱグシイモ、クワヰのヱグ味については、灰汁あくの味も思い浮かべられる。
 ゲンは釜と甑が一体のものである。一説に、異民族を狩ってその頭部を蒸したともいわれる。「饅頭」にある「頭」字の由来なのだそうである。ところが、蒸すのに重要な蓋の仕方がよくわからない。蓋の素材が何か、また、把手を避けて蓋をするにはそれなりの仕方でなければならない。筆者の推測では、蓋は青銅ではなく木製で、落し蓋に見えるような入り方ながら、ご飯を炊く時に用いるようなある程度厚い蓋ではなかったかと思う。沸いている湯へ血が滴り落ちていたことをヤマトの人が伝え聞いて、とても野蛮な行為、人でなしだと感じていたとすると、甗の下部の鼎のような三脚のつくりと関係すると見て取られた可能性がある。クワヰの葉の形がまるで三つの波紋円の重なり合いによるのではないかと見えるところが、甗のなかを上からのぞき込んだ時の形と同じなのである。クワヰのアクはその葉の形、「人」字のようでありながら人ではないふうに現れると類推されたということである。アクに関する語に次の例を見る。

 醅〈釃字附〉 説文に云はく、醅〈音は盃と同じ、漢語抄に加須古女かすごめと云ひ、俗に糟米と云ふ〉はかたさけの未だしたまざるなりといふ。唐韻に云はく、釃〈所宜反、又、上声、釃酒は佐介之多无さけしたむ、俗に阿久あくと云ふ〉は下酒なりといふ。(和名抄、再掲)
 灰汁 弁色立成に云はく、灰汁〈阿久あく〉は淋灰〈阿久太流あくだる、上の音は林〉といふ。(和名抄)
 鐖 アグ(釣針の返し)
 悪 アク(三宝絵上(984年訓))

 酒をシタムとき、漉す器のしたみのいちばん上に輪状に白くアクが残る。灰汁は、上澄みの水を媒染剤などに用いる。植物のなかに含まれるえぐみや、肉を煮た時の肉汁の表面に浮かぶ白っぽい泡もアクという。冷しゃぶを作った後、鍋の水面すれすれに汚れの輪がついている。同じことが甗のレキの部分でも起こって、人でなしは「三輪」なのだと悟ることができる。民俗用語でいう釣針の返しのアグは、腸抉の矢の返しと同じ効果がある。魚は一度飲みこむと、吐き出そうとすればするほど引っ掛かって取れにくく刺さっていく。道徳的に悖ることが漢語の「アク」である。
(注16)釈日本紀・巻第七・述義三に、備後風土記逸文を所引する。

 素戔嗚尊、乞宿於衆神
 備後国風土記曰。疫隅国社。昔北海坐武塔神。南海神之女子与波比。日暮。彼所蘇民将来二人在。兄蘇民将来甚貧窮。弟将来富饒。屋倉一百在。爰塔神借宿処。惜而不借。兄蘇民将来借奉。即以カラ一為座。以粟飯等饗奉。々々既畢出坐。後年率八柱子還来。我将奉之為報答。曰。汝子孫其家在哉問給。蘇民将来答申。已女子与斯婦申。即詔。以茅輪於腰上。随詔令着。ソノ蘇民与女子二人。皆悉許呂志保呂保志コロシホロホシ天伎。即詔。吾者ハヤサノ雄能ヲノ神也。後世疫気在者。汝蘇民将来之子孫イヒ、以茅輪腰上ノタマフ。随詔令着。即家在人者将免。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/319)

(注17)大森1958.には次のようにもある。

 ……大神神社で、茅の輪の行事を、本社の祭としないで、その境内にある綱越神社の祭と認めてゐるのは、なぜであろうか。綱越神社は茅の輪行事を司る社である。このやうに茅の輪行事の司会の神を祀った例が他にもあるかどうかは知らないが、少くとも大神神社においては、茅の輪行事が極めて重要な行事であったために、その行事を職掌とする神が祀られることになったものと思はれる。境内の小社の小さな祀であるのではなく、特に司会する神の社がたてられるほど、重大な行事であったと見るのである。その社が一の鳥居の外にあるのは、そこが茅の輪行事が行はれて来た位置であることを示してゐる。茅の輪くぐりが祓であるかぎり、祓は本殿からなるべく遠いところで行はれるべきで、鳥居の外がその場所に選ばれるのは、順当である。……ナゴシは夏越とも記され、語源もその文字に即してゐるやうに思はれがちであるが、〈夏を越す〉とはどういふことか明らかではない。これは夏の行事であるために音の類似から夏の字があてられたまでであって、ナツコシがナゴシになるといふ音韻変化も解しがたい。名越・夏越ともに宛て字であらう。ナゴシをナゴスといふ動詞と関係があると見て、「神を和す」意味であるといふ解釈があり、和儺といふ記載法を作り、大言海などもその説を掲げてゐるが、これも行事の実際とは合はない。和儺はシナの儺・追儺に対する造字で、茅の輪の行事は、家家で個人個人の祓除をすること節分・大晦日の追儺に類してゐるけれども、これらの行事は、狭義の〈まつり〉とは言ひがたい。……みそぎはらへは、神へ近づく過程であり、手段であって、神への奉仕そのものではない……。……三輪を除いては、茅の輪行事は、人間のためにあるもので、神神をナゴメるためにあるとは言ひがたい。拾遺集に
 さばへなすあらぶる神もおしなべて今日はなごしのはらへなりけり
といふのは、語呂あはせに類する駄じゃれにすぎない。神を和ごすといふ言葉づかひも問題かと思ふが、さうした意味をこの行事が直接に負うてゐることはないのである。この解釈も言葉が先にあって、それに類似した言葉をおしあてた机上の解釈にすぎないと思はれる。(6~8頁)

 後半部において、ナゴシの祓の語源について論究がある。およそ語源は確かめられるものではない。上に批判されているナゴスという動詞との関係は、あながち間違いともいえないように思われる。八雲御抄に、「邪神をはらひなごむ祓ゆゑになごしと云也」、書言字考節用集に、「名越ナゴシノハラヒ 和儺ナゴシ 荒和〈或いは夏越に作る〉」などと見える。暴れる鬼のような存在を和ませることが祓の本質と捉えられてのことかもしれないのである。
 民俗学では、ケガレ(穢)という語はケ(褻)+カレ(涸・枯)の意ではないかとする説が有力視されており、ハレ→ケ→ケガレを時間軸に据えて循環過程として論じられることがある。が涸れて来たら、祓をして元気を更新しようというのである。日常生活がルーチンワークでマンネリ化してつまらないから元気をなくすと思われている。特に梅雨時の田んぼの草取りなど嫌になって逃げ出したくなるだろう。心のなかの鬼がつまらない考えを起こしているのだと言うこともできる。鬼というものを実体としてどう考えるかは難しいが、自分の中に在るのは、自分がどこから来たかにかかっている。形而上学的な宗教でいかに考えるかはさておき、動物として生れて来たからには当の本人はその親から生れてきている。親が亡くなってご先祖様になると、そんなつまらない考えを起こした原因もご先祖様のせいであると納得することができる。それを鬼と呼び、人神と言っている。老子・河上公注にも、「治身者、当除情去慾、使五蔵空虚、神之帰之也。」、「腹中有神、畏其形之消亡也。」とある。大物主神とはそんな鬼なのだから、つまらない考え方を起こさせる心の鬼を和ませることを、卆(九十)日を半割り、半分として見た百八十日でもって行うことに計算上不自然さはない。儺という鬼やらいの字を当てて「和儺」と表記した人にはそれなりの知恵があったのだろう。
 田んぼの雑草のなかには鬼のような葉をしたクワヰも生えている。クワヰは抜かずに放置することもある。えぐいながらも食べられるからである。水田稲作農耕を始める前のご先祖さまの時代、野生のヱグ(クワヰ)をごくふつうに採食していた。雑草として扱うなどバチが当たるというものである。祓の対象となる罪かもしれない。お節料理として永らく残ってきたのには、正月に米を隠して里芋を食べる風習の残っていた地域のあったこととの関わりからも探るべき課題だろう。坪井1979.参照。
 なお、時代別国語大辞典の「わ[輪・曲・勾]」の考察に、「なお「尾張国阿育知郡片〉里」(霊異記上三話)「愛知郡片〉里」(霊異記中二七話)のワは未詳であるが、「蕝」は子芮切または子悦切で、ちがやを束ねて立て、酒をしたたらせてこすものをいう。ワの訓は茅をたばねたもの、すなわち、茅の輪の意によるものであろうか。」(812頁)とある。茅の輪に一枚の茅の葉をたどっていくと、捩じれ回りながら輪に回ってもとに戻っている。ヤマトコトバにワという語意が、転回することを含意した曲郭であることから、まことにふさわしい形を得ていると認められる。どこかへ行くかと思えば戻っていていらいらするもの、道徳的に悖るものであるかに思われながら、老子のいう無用の用を果たすのがワということである。蘇民将来の話は、あるいは、世の中は巡り巡って戻ってくる因果応報的な循環、すなわち、ワがあると説いているものかもしれない。しかも、酒をしたむことと関わることらしい。説文に、「蕝 朝会束茅表位に曰く、蕝 艸に从ひ絶声といふ。春秋国語に曰く、茅蕝表坐に致すといふ」とあるのは、円座(藁座わらうだ)状にしたものを指すのだろうか。
(注18)一条兼良(1402~1481)・公事根源・大祓オホバラヘ 同日条に次のようにある。

大ばらへといふは、百官ことごとく朱雀門にあつまりて、ハラヒをし侍るなり。六月十二月二たびあり。天武天皇の御時より始まる。ヂヨは觸穢などの時もあり。神事を行ふ時は、臨時にも常にあれども、この大祓は百官一同にあつまりて、祓をするなり。またけふは家々に輪をこゆる事あり。
 みな月のなごしの祓する人は、千年のいのちのぶといふなり。
此の歌をとのふるとぞ申し伝へ侍る。然るに法性寺関白ノ記には
 思ふ事皆つきねとて麻の葉をきりにきりてもはらへつるかな
此の歌を詠ずべしと見えたり。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/771887/1/25)

 大麻を左右左と振る作法は江戸初期には行われていたことが確認されるという。丸山2015.参照。
(注19)それが三輪山の禁足地などに見られる祭祀遺跡かどうかについては他に委ねたい。
(注20)櫻井1981.に、「三ツ鳥居及び瑞垣は昭和三十四年に修理され、墨書及び発見文書より明治十六年に再建されたことが判明した。なお、三ツ鳥居の石製唐居敷には、使用されていない扉軸受穴があり、修理工事報告書では類例から推して、唐居敷の使用年代は鎌倉から平安時代まで遡りうるかとしている。」(827~830頁)とある。扉軸受穴がどの位置に当たるかわからず、戸(扉)の設置位置が推定できていない。
(注21)六月(水無月)の祓が一般化しているのは、この三輪山伝説に発端があると考えられる。三輪山は紡錘車で糸を撚りあげた形になっている。ミナツキのミナ(ミは甲類)には、同音にミナ(螺、ミは甲類)がある。今のカワニナやタニシの類である。その貝殻の形はぐるぐると巻いて積み上がるようになっている。形がよく似ていることにより、言葉と行為とを合致させるよう人々は言葉を考えている。拙稿「十月(かむなづき)について」参照。その結果、ミナ(螺)月はツミ(罪・紡錘車)な月だからお祓をするのがふさわしいことだと考えるように発展していったのだろう。言うまでもないが、万葉人の語感の問題で語源とは無関係である。科学的な語源探究が可能であるとしても、上代の人が意に介することではない。
(注22)わが国には奴婢はいたが宦官は存しなかった。三田村2012.参照。とはいえ、三宝絵詞に見られるように、そういう人があり得ることは認識されていただろう。そして、それを「ひと」と呼んでよいのかという論理矛盾について上代の人は面白がり、いわゆる三輪山伝説に通底するモチーフとなっていたのだろう。「人でなし」という考え方が導入されたのである。
(注23)宮中で平安時代に行われた大祓の場所、「祓所はらへど・はらへどころ」が朱雀門前やまれに建礼門のところであったのには、古くからの言い伝えとして黄門のことがあったからではないかと推測はされるものの、実証は困難である。三宅1995.参照。半分に割れる門戸を時に観音開きという。内に納められる仏像が観音像であったことに因むのであろうが、観音像の印象として両性どちらともつかない点があげられる。半月はにわりの話と絡めて理解されていたのかもしれない。
(注24)記紀の話が共通の立脚点に依っているとすれば、記の「夕」はユフヘと訓むべきであると知れる。
(注25)万葉集でモミジの紅葉を「黄葉」と記すことが一般的であったように、当時の色彩表記では同一系統としてまとめられていた。
(注26)中川2009.に、「近年、古事記の文章に漢訳仏典の影響が見られることが、……指摘されて[いる。]……古事記編者は大智度論や経律異相などの漢訳仏典の、阿難が神通力によってカギアナを通るエピソードをヒントにして、〝神壮夫カミヲトコ〟─美和山の大物主大神─の霊威を示すために、三輪山神話において、カギアナをもち出したのではないだろうか。」(166~167頁)とある。中川の言う「古事記編者」とは誰のことか不明である。また、仏教という壮大な思想体系のなかの断片を切り取ってきたとして、単に「霊威」を示す表現に使っただけで、そのできあがった話を聞くヤマトの人一般の側が理解できたのか不明である。ヤマトの人に仏教思想のバックボーンはない。唐突に、カギアナを通ることとは霊威あることなのだと感じることはない。聞く側が納得して了解しなければ、後世に伝えようとするものではない。稗田阿礼誦習とは、文字を持たないまま口づてに伝えたことを意味する。人々になるほどと思われて腑に落ちる話でなければ、話(咄・噺・譚)として伝わること、伝えることはできない。カギアナを話の焦点に持ってきていることの根幹を探る必要がある。稗田阿礼の話(咄・噺・譚)が先、太安万侶の表記はその後のことである。
(注27)合田1998.参照。「鏁子の[助数詞の]「具」は牡・牝で一体となる錠前と鍵とが一組みになっていたであろうことが想定され、鎰(鑰)[の助数詞]に「勾」が付されていることは、その形状が鉤型に大きく折れ曲がっていることを想起させることや、「柄」の場合は鉤(クルル鉤)の木質の把手部分を指したであろうことが容易に想像される」(108頁)とある。
(注28)なぜ杉が登場してくるのか。大神神社にしるしの杉となるのかについて、語学的には、罪のことを示す過失の「過ぎ(ギは乙類)」と「すぎ(ギは乙類)」との洒落、ないしは、同じ言葉は同じ意味をもつに違いないとする考えに基づいているものと考える。万葉集では他に次のような例が見られる。

 もろの かみ神杉かむすぎ(ギは乙類) …(訓未定)… ねぬ夜ぞ多き(万156)
 何時いつも かむさびけるか 香山かぐやまの 鉾椙ほこすぎもとに こけすまでに(万259)
 石上いそのかみ 布留ふるの山なる 杉群すぎむらの 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(万422)
 御幣帛みぬさ取り みわはふりが 鎮斎いはふ杉原 たきり ほとほとしくに をの取らえぬ(万1403)
 かむ南備なびの 神依板かむよりいたに する杉の おもひも過ぎず 恋の茂きに(万1773)
 石上 布留の神杉 かむびにし われやさらさら 恋にあひにける(万1927)
 石上 布留の神杉 神さびて 恋をもあれは さらにするかも(万2417)
 かむ名備なびの 三諸の山に 隠蔵いはふ杉 思ひ過ぎめや こけすまでに(万3228)

 「杉」と「過ぎ」との洒落が三・五・八例目に見える。いずれも「思ひ過ぎ」の意として使われ、思いが消えて忘れてしまうことを表している。ヤマトコトバのスギ(過)は、変化の程度が限度を超え、消えてなくなることを表し、人の場合は死ぬ意味に用いる。常訓とする「過」字は、論語に、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし。(過猶及。)」、「あやまちては則ち改むるに憚ること勿れ。(過則勿改。)」などとあるように、行き過ぎてよろしくないことである。悪意をもってなされた犯罪ではなく、つい過って犯してしまった過失、軽犯罪に近い。死罪、流罪、笞罪に処すべきではなく、示談、説諭、訓告で解決してかまわない。祓の対象領域である。
 本文にあげた万712番歌に、下級神官の「はふり」が「いはふ」のは、祓の対象となる程度の罪を祓うお祓いをすることである。大宮司は神を祀ることが仕事である。また、「石上いそのかみ」にはフル(布留)という地がもともとあって、それが「ふる」とも「振る」とも通じるから、古くから大麻おおぬさ(大幣)を振るって祓っていたに違いないとされたのである。上代においては、事=言であって言行一致こそが正しい行いであると広く思われていて、社会の要請となっていた言葉づかいだった。万2417番歌に「さらにする」とあるのは、フル(布留)というフル(古)の事柄をフル(振)ことによって更新させようということである。万1927番歌に「さらさら」とあるのも同様で、サラ(更)にすることによる言い回しだろう。そして、酒造には甑を使って米を蒸し、杉板の上で麹米を作ることも行われたから、言葉の上でめぐりめぐってスギ(過、杉)の一語に合流するようになっている。澱粉を糖にしなければアルコールはできないから麹を使って糖化するのであるが、そのためには米は蒸さなければならない。その際、シタミ(箄)が要にある点については本文で述べた。また、石の甕=イシノカメ→石上=イソノカミという音訛を楽しんでいたとも考えられる。拙稿「「石上(いそのかみ)布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」参照。
(注29)上代において、社会秩序のために中国に範をとった律令を導入しようとする以前から、道徳の内面化こそが必要なのだと気づいていて、年二回行う祓の儀式へとまとめ上げていたように思われる。祓は心の問題であり、その人の内面の秩序化が実はいちばんの基礎なのだと理解していたということである。良心というものが欠落していたら、何をしでかそうと呵責を起こすことがなくなる。悪いことをしたと反省し自覚することがなければ、いかに刑罰を課そうとも必ず再犯につながって社会は不安定になる。対処のしようがないのである。これを人でなしと考え、あるいは「鬼」と位置づけた。人間への深い洞察から古事記の三輪山伝説は創作されている。道徳の機能についてはデュルケーム1993.参照。
(注30)紡錘車を使った糸撚りの方法が竹内1989.に解説されている。紡錘車の出土例が数多いのは、半湿りのままにして置いておきながら次々と作業をして行くためであったからとされる。

 紡錘を使っての撚りのかけ方[は,]……右利きの人が右手で紡茎を持ち,時計の回転方向に回すものと仮定する.まず,紡茎の紡輪直上部分に糸の端を結ぶ.紡茎の上端部分で糸をひとひねりして輪を作ってから上端にからませ,紡錘ごと吊り下げる.こうすると紡茎上端に鉤をつけなくても糸は固定される.紡茎上端の30~40㎝ぐらいの部分を左手の指2本で押える.そして右手で紡茎を回すと,紡錘の回転が紡茎の上端から糸に伝わり,下から順に糸に撚りがかかり,左手で押えた部分まで撚りが行きわたる.好みの撚りの強さになるまで,適当に右手で回転を続ける.撚りがかかったら紡茎上端の糸の輪をはずし,紡輪上端に接して出来上がった糸を巻く.そして先ほどのように紡茎の上端で糸をひとひねりしておくと,紡茎に巻きつけた糸はズルズルと出てくることはない.このような動作を繰り返し,続きの糸に順に撚りをかけてゆく.なお,S撚りの糸が必要なら紡茎を左に(逆時計回り),Z撚りならば右に(時計回り)回す.撚りをかけ終って紡茎に巻きつけた糸玉は「三角錐」の形をしている.糸はあらかじめ湿らせてあるので,半湿りの状態の糸玉をそのまま放置して乾燥させると撚りを固定させることができる.このとき連続して撚りかけを行うためには,複数の紡錘を所持していなければならない.(12~13頁)

(注31)白川1995.に、「ていてい声。〔説文〕九下に「山居なり」とするが、「止居なり」の誤りとみられ、建物の地を平低にすることをいう。」(433頁)と、説文に対するテキストクリティークでは異議を唱えているものの、解釈では、「底は到りつくことであるからいたるといい、しんなどもその系列に属する字。国語でいえば「そこひ」「そきへ」というのに近い。」(同頁)とある。三輪山伝説に、至り止まったのが山だったとするのは、厳密な学としての哲学ではなく、口語のお話(咄・噺・譚)なのだからそれでかまわないと考える。稗田阿礼の記憶は字書ではない。太安万侶が説文の誤字(?)について掘り下げたとも思われない。
(注32)白川1995.に、「古くは祭祀の料として納入したもので、もとは宗教的な行為であった。」(724頁)とある。
 律令時代に、調みつきは、絹・糸・布・鉄・塩・農水産加工品・手工業製品などのさまざまであるが、その輸送には、地方の公民が貢調使引率のもと食料自弁で当たった。庸調の脚夫は帰りは勝手に帰るように放任されたため、途中で餓死、病死するものが多かったと続紀以下に記されている。五畿七道を整備する政策の当初の主眼は、徒歩での運送のためではなく、船や馬、荷車をもって行わんがために企図されたものではなかったか。本邦の乗物史では、後世、車を捨てて駕籠へと退化している。陸路を進むには必ず河口に程近い場所で川の急流を横切らなければならないという、大陸とは異なる国土の特色も影響したのだろう。語学的観点からは、ミツキ(調・貢)なのだから、上に論じたヤマトコトバの洒落からして車輪のついたものを使って運ぼうという理念があったに違いないと推測される。ヤマトコトバ上のコンセプトは、五畿七道のグランドデザインとして展開されて古代のアウトバーンが各地に出土するものの、実地段階において失敗したように思われる。車の側の問題、エンジンとなる牛馬が不足していた。農耕に用いた方が効率的だったから運送用には地場的にしか供出しなかったと思われる。列島にヒツジやヤギ、ロバがいなかったのは、移入されても高温多湿の環境に適さなかったから途絶えたのではなく、水田稲作農耕、麻栽培の方が牧畜よりも単位面積当たりの食料供給、繊維獲得の面で圧倒的に有利でだったからである。羊毛が欲しいとヒツジを飼い、田んぼに勝手に入られてイネを食べつくされたのでは堪ったものではない。人が多くて雑多に扱われて脚夫が帰路に餓死したという国と、人が少なくて異民族を狩ってきて隷人(宦官を含む)として扱ったのとでは、人とは何かという根本的な思想基盤に違いが出てくる。人口が過剰だから駕籠を使って人が人を運び、雇用を確保していた。
(注33)山中1994.にも次のようにある。

 これ[多氏古事記の話]は『書紀』と同じく女は倭迹迹姫、しかも『古事記』の鈎穴などなくて、小道具は針と綜麻だけだから、三輪の地名起源伝説としても、もう一時代古い伝承と思われる。麻によってあらわされる紡織のことは、農耕のはじまりと時期を等しくする。……『日本書紀』ではこの麻糸さえ除かれて、蛇が出現、神人共食の箸と、巫女の死によって終る、神婚悲傷となる。加上されている墓のことを除けば、最も簡明で、異教の霊異のものとのまぐわいを、蛇への畏怖と人間との親近をあらわす、農耕民の最も古い伝承ではなかろうか。あるいは縄文期、採集農業時代の面影をのこすものと考えられる。その最も古い異類神婚伝説に、百襲姫の名が結ばれたのである。(40~41頁)

 この解説は古事記の三輪山伝説を語ろうと始められたものながら、古事記本文から離れてしまっている。そして、説話の作者が何を企図していたかについて思いがめぐらされていない。氏に限らず先行研究では、神と人間の女性との聖婚という言い方で語られている。大物主神に関しても、記紀を読んでいくと、祟り神、三輪氏の祖先神、国造りの神、蛇神とあるようだからそう捉え、神の性格について問うている。しかし、記紀に載る荒唐無稽な説話は話(咄・噺・譚)の域を出ない。聖婚、祟り神、祖先神、国造り、蛇神といったことは、そういう次第であったというだけしか語られず、そこから展開してストーリーが広がっているわけではない。考えなければならないのは、話(咄・噺・譚)を造形するに至ったヤマトコトバのからくりのほうである。無文字時代には言葉は紙の上にはなく人の頭のなかにしかなくて、それでも互いに通じ合っていたのは、話(咄・噺・譚)が当時の日常言語にして子供でもわかるヤマトコトバばかりでできていたからである。わざわざ話(咄・噺・譚)が創られていたのにはそれなりの故があったからであって、その故は必ずヤマトコトバのなかにあって当時の人なら子供でもわかることのはずである。聞いても役に立たず、納得もいかないことなど話(咄・噺・譚)に仕立てる必要はないし、コストをかけて覚えることはなく伝えられることもないだろう。
 三輪山伝説においても古事記では蛇の譬えが確かになる前に話は完結している。蛇自体よりもその動き、とぐろを巻く様態に注意が向いていて、幾何学的な観点から採り入れられたモチーフのように思われる。三つの水滴の波紋の輪が重なり合ってちょうどクワヰの葉のようであると見て取ることができる。
(注34)近世に木綿の製造工程で綿繰わたくりという機械が用いられるが、それとは異なり、紡錘車によって糸を撚っていくことも三輪山伝説の話からワタクリであると言えよう。
(注35)わが国では縄で後ろ手に縛りあげる技術が巧妙になり、近世にはそちらが常用された。腕に綛糸を巻き返す風情が後ろ手でクロスしているものと思えばいいだろう。
(注36)米穀については古代のことは不明であるが、ジャポニカ種の脱穀には不向きだったようである。
(注37)刑具の「連枷」の変遷については劉2015.参照。新撰字鏡に、「枷 古牙、枷鎖、又連枷打穀具也」とある。和名抄には「楇」字が打つ意としてある。紡錘車を示す「鍋」字の別字としても「楇」は使われていた。「楇」は、①車の轂のなかにさす膏を盛る容器、あぶらづつのこと、②糸を紡ぐ紡錘車、③横に打つ杖のこと、をいう。車輪の回転、紡錘車の回転、連枷の回転、すべて回転に関係する語と捉えられる。説文に、「咼 口戻りて正しからざるなり。口に从ひ冎声」とあり、「わざはひ」の初文である。曲がりに曲がって一周して元に戻る回転により、災い転じて福となるのだと源順も認識していたのではないか。「過」、つまり、ちょっと度が過ぎたことを後悔して、反省のためにお祓いをしようということだったのかもしれない。
 「楇」の①義、あぶらづつは、車のかりもに仕組まれる。和名抄に、「釭 説文に云はく、釭〈古紅反、古雙反、くるま乃加利毛のかりも〉は轂口の鉄なりといふ。」、新撰字鏡には、「釭 又作〓(車偏に工)、古紅反、平、轂口䥫也、燈也、毛地もぢ」、名義抄に、「釭 工江二音、カモ、クルマノカモ、マロフ、コフ、コガネヌリ、又〓(車偏に工) トモシヒ」とある。轂が摩滅しないようにするために嵌めこむ鉄の管のことで、そこへ油を注したら軋む音もしなくなる。「楇」字には回転を円滑にするという字義が認められるらしい。
 名義抄で釭をカモとも呼んでいたことは重要である。崇神記の三輪山伝説記事には割注の付けたりがある。

 此の意富多多泥古命は、神君みわのきみ鴨君かものきみおやぞ。

 三輪氏や賀茂氏の祖先神話が天皇の神話である古事記に紛れ込んだとする注解が見られる。その実、これはかもの話だという符牒として、あるいは、話からして賀茂かも氏は関わらなければならないということを強調しているだけなのだろう。大伴氏がオホトモという名だから、とも、つまり、弓を扱う時の防具を表していて、矢を入れるゆきを負っていると自負するに至っているのと同じことである。大伴家持作の万478・480・1086・4332・4465番歌がその例である。おひ氏は上代語のものの考え方として定着していた。
(注38)日本書紀の音仮名を除く「鬼」の例をあげる。

 桃を用ておにふせことのもとなり。(神代紀第五段一書第九)
 吾、葦原中国のしきものはらけしめむと欲ふ。(神代紀第九段本文)
 是に、二の神、諸々のまつろはぬ鬼神かみたちつみなひて、……(神代紀第九段本文)
 のらかだましきおに有り。(景行紀四十年七月)
 亦、鬼魅おになりとまをして、あへて近つかず。(欽明紀五年十二月)
 是のさとの人、必ず魃鬼おにの為に迷惑まとはされむ。(欽明紀五年十二月)
 し此のちかひそむかば、あめわざはひつちわざはひし、おにころし人伐たむ。(孝徳前紀)
 亦、宮の中におにあらはれぬ。(斉明紀七年五月、北野本)
 是のよひに、朝倉山の上に、おに有りて、大笠を着て、喪のよそほひを臨みる。(斉明紀七年八月)

 第一例、桃でオニを退治するという話から、桃には邪悪なるものを遮る霊力があったとされていたとする説が昨今定着しつつある。そんなことはあるまい。モモ(桃)と同音のモモ(百)は九十(卆)を上回るという洒落にすぎない。いずれの例も、得体が知れず、扱いに困る存在として描かれている。ハラフ(掃・祓・払)ことでお引き取り頂きたい対象である。得体が知れないからお祓いぐらいしかできないのである。
(注39)比較神話学や、漢訳仏典の表記法、東アジア世界に広がる似たプロットに由縁を探しても、三輪山伝説の理解にはほとんど役に立たない。ところが、プロットさえ似ていれば本邦へ伝播されたと考えたがる研究者は多い。千野2000.に、「今のところ中国、日本、朝鮮、ベトナムを通じて「蛇婿入・苧環型」に対応する最も古い類話は、『古事記』(八世紀)の三輪山神婚譚とされる」(157頁)、「同じ「蛇婿入・苧環型」といっても、日本と朝鮮半島、大陸の伝承の質に決定的な違いがみられる」(162頁)、「三輪山神婚譚では異類の血筋は聖性を持ち、畏怖と尊崇の対象となる。反対に、半島や大陸では、異類は貶められ、人間に殺されるほど弱々しい。海を隔てて、異類と人間の力関係は逆転するのである。」(162頁)、「両者の性質の違いから、宋太祖出自譚などの王朝始祖譚は三輪山神婚譚の直接の源流とすることはできない。」(161頁)とある。
 瀬間2015.は、十三世紀に著された三国遺事の十世紀の記事に三輪山伝説と似た「以長糸針刺其衣。従之、至明尋糸」なる記述を見出して、「伽耶土器とその製作方法を伝えた集団の中で、[三輪山伝説は]伝承されていた可能性が残されることは留意されるだろう。」(90頁)とする。仮に伝わったものと考えるなら、時間の流れに従い、三輪山伝説が朝鮮半島へ伝わったととるのがふつうだろう。
 福島1988.は、三輪山伝説に「赤土」を散らしている点を、須恵器の製作者により伝承・保存されたからと考え、「朝鮮半島より将来された「三輪山伝説」が、陶工により伝承・保存される間に、女の許に通う男の住処・正体を知る目的で使用される糸は、轆轤と陶土との分離に其れが用いられる関係で欠落させられることなく、新たに「赤土」云々の一条を付加されたのであろう。」(436頁)と推測する。陶工が伝承、保存しているのは、伝説ではなくて陶芸の技術である。彼らは噺家ではない。
 古橋1992.は、苧環型(崇神記)、丹塗矢型(神武記)、箸墓型(崇神紀)とバリエーションがある点について、同じ神話的幻想から発生しているとし、「苧環型でいえば、針と糸という小道具をもって神話となりうる。……苧環型は、毎夜通って来るということはおそらく訪婚という習俗からの幻想であろうし、針と糸で神の正体を確かめるというのは始祖譚が要求されたゆえと考えてよいだろう。」(127頁)とある。本末転倒の創作裏話が虚構されている。
 佐竹1954.に、「神衣を調える為の機織を重要な任務として帯びている巫女を女主人公にした神話、否こうした巫女達が生み出して伝承したであろう神話に、父を探知する方法として苧環の糸が繰り出されるようになるという次第は、殆んど自然発生的でさえある。」(12〜13頁)といった伝承裏話をひっくり返そうとした試みがある。古事記には「以閇蘇紡麻針」としか書いていない。
 本居宣長・古事記伝は、「紡麻はたゞと訓べし【續麻ウミヲと云ことも、万葉などに多く見えて、古言なれば、コヽも然訓べきが如くなれども、既に閇蘇と云うへは、ウミたる麻なることは、モトヨリなれば、ワヅラはしく宇美袁ウミヲと云むはいかゞなり、然るに紡字をしも添て書るは、例の漢文なり、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/23)と断じている。繊維としてのは植物の高さ、およそ二メートル以上にはならない。それをむことで百メートルにも千メートルにもなり、巻いてあるのが閇蘇へそである。さらに紡錘車で撚りをかけて丈夫にしたものが糸で、それを針仕事に使う。ふつうなら糸に撚ってから針に貫く。閇蘇へそうみをそのまま針に貫いたりしない。縫っても弱くて切れてしまう。撚りかけて糸にすることも、そのまえの捩ってつなぐことも、同じくウムという一語にまとめて呼んでしまっているため混乱が生じている。古事記の語り口では、聞き耳を立てさせて話(咄・噺・譚)の枕にしている。糸づくりの現場が卑近にあった古代、変なことを言い出したとすぐ気づく。
 東村2012.は、「製糸 苧麻と大麻の糸づくりはほぼ同じである。まず、繊維を細かく裂く。繊維の長さは茎の長さに制限されるので、はじめに1本ずつ撚りつなげ、苧桶に貯める(苧績おうみ)。次に、湿り気を与えながら紡錘で撚りをかけ、紡茎に巻き取る(①撚りかけ)。糸が一杯になると、桛に巻き上げる。桛は、糸を乾燥させて撚りを安定させるとともに、糸の分量を計るための道具である(②かせ上げ)。桛から外すと、糸が幾重にも輪状に束ねられたかせいとができている。」(16~17頁)と簡潔に説明している。
 いわゆる「苧環」、ヲ(麻)+タマキ(環)とはヘソのことだろう。紡錘車、後の時代では糸車にかけられる前の段階で、繊維のつながりを巻いた半製品である。撚られて糸になる前の段階のものを言っている。すなわち、苧環に巻いてあるのは糸ではない。「苧環型」と称して説話を類型化しているが、誤解をもとにした議論である。そもそも説話にヲダマキという語は出ていない。言葉によって話(咄・噺・譚)を創ったら始祖譚と同じことにできあがっただけである。考究されなければならないのはヘソという言葉である。ウム(績・産)という言葉(音)が、ヘソ(閇蘇・臍)という言葉(音)の意を証明してくれている。ヘソの話をしたら臍の緒つながりで始祖譚になっている。古事記にある話(咄・噺・譚)とは言葉をもって言葉を説明した自己循環的な辞書、百科全書であると捉えることもできる。世の中は無文字文化であった。そうやって人に言葉=事柄を伝えたのである。

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竹内1989. 竹内晶子『弥生の布を織る─機織りの考古学─』東京大学出版会、1989年。
田中1984. 田中保「絵巻物のなかに描かれている牛車(ぎっしゃ)の表現」『名古屋大学教養部紀要B(自然科学・心理学)』第28輯、昭和59年2月。
坪井1979. 坪井洋文『イモと日本人─民俗文化論の課題─』未来社、1979年。
デュルケーム1993. É・デュルケーム、小関藤一郎・山下雅之訳『デュルケーム ドイツ論集』行路社、1993年。
虎尾2000. 虎尾俊哉編『延喜式 上』集英社、2000年。
中井2022. 中井かをり「三輪山の神と大物主─大物主祭祀伝承を考える─」『日本書紀研究 第三十四冊』塙書房、2022年。
中川2009. 中川ゆかり『上代散文─その表現の試み─』塙書房、2009年。
中山2013. 中山和敬『大神神社 増補第三版』学生社、2013年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
林1976. 林巳奈夫『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、1976年。
東村2012. 東村純子『考古学からみた古代日本の紡織』六一書房、2012年。
樋口1987. 樋口清之『新版 日本食物史─食生活の歴史─』柴田書店、昭和62年。
廣岡2014. 廣岡孝信「考古学からみた日本酒の歴史─お供えの酒・薬の酒・嗜好の酒─」『酒史研究』第30号、2014年9月。
福島1988. 福島秋穗『記紀神話伝説の研究』六興出版、1988年。
古橋1992. 古橋信孝『神話・物語の文芸史』ぺりかん社、1992年。
丸山2015. 丸山顕誠『祓の神事─神話・理念・祭祀─』三弥生書店、平成27年。
三田村2012. 三田村泰助『宦官 改訂版』中央公論社(中公新書)、2012年。
三宅1995. 三宅和朗『古代国家の神祇と祭祀』吉川弘文館、平成7年。
山口2002. 山口昌伴「火まわりの道具立て 釜甑(ふそう)」『食の科学』№291、2002年5月。
山中1994. 山中智恵子『三輪山伝承』紀伊國屋書店、1994年。
頼住2025. 頼住光子「三輪山神婚譚をてがかりとした古代日本の世界観の考察─比較思想的視座から─」『山口大学哲学研究』第32巻、2025年3月。山口県大学共同リポジトリhttps://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/29893
劉2015. 劉可維「北魏・唐における枷について─獄官令の検討から見た─」九州大学文学部東洋史研究会『九州大学東洋史論集』第43号、2015年3月。九大コレクションhttps://doi.org/10.15017/1657871
和田1995. 和田萃「三輪山祭祀の再検討」『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 下』塙書房、1995年。
※本稿は、2016年9~10月稿をもとに2020年10月に改稿、2025年9月に再改稿したものである。
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