『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』 (法蔵館・2020/5/15・瓜生崇著)のつづきです。この本が宗教書だと思わせる部分を転載します。
カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える。あなたの人生はこういう意味があるのだ、あなたの今まで生きてきたのはこの教えに遇うためだったのだ、そして、今後はここに向かって歩んだらいいのだ、と。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いを消し去ってくれる。「もう迷わなくていいのだ。これを私は「真理への依存」とか「正しさへの依存」と名付けている。
しかし見かけ上消し去っているだけであって、解決しているわけではない。「カルトの提供する答え」という目隠しをさせられているだけである。なので脱会して信者が元信者となり、いわば目隠しを外されたときに、何一つ問題が解決してないことに気づいて、深刻な空虚感や虚脱感に苦しむケースは多い。
なぜ「正しさ」は暴走するのか
思えば人生は迷いと選択の連続で、今まで様々なことに迷い、そのたびにその自分の決断を喜んだり、悔やんだり、苦しんだりしてきた。決断はそれが重いものであればあるほど苦しいものである。そして、自分の決断はすべて自分の人生の中で責任を取らなければならず、代わってくれる人はいない。
ところがカルトに与えられた答えによっ「正しさに依存」すると、この決断の責任を自分で取らなくてもよくなるのだ。つまりは重要な選択はその教団の教えや指導者の指示に従えばいい。そうすることによって、仮に自分にとって不都合な結果が生じてもかまわない。教義や指導者に従った上での結果は、それが一時的に自分や自分の周囲に耐え難い苦痛や不安を与えることになっても、結果としてそれが、自分の霊的な成長に必要な試練なのだとか、あるいは今は苦しいがもっと大きな幸福へ向かう過渡期にあるのだと説明されたら、それを信すればよいことになる。
それが明らかに非今理な指示であったとしても、自分にはわからない深遠な願いがそこにあるのだと思えばいいのだ。オウム真理教でもマハームドラーという論理が使われた。これはグルである麻原が俗物のふりをして不条理な指示を出し、弟子が本当に帰依できているかを試すというもので、地下鉄にサリンを撒けという、正気ならとうてい受け入れられない指示であっても「これはマハームドラーだ」と自らに言いきかせて、実行犯はその指示に従った。それによって自分にどんな結果が返ってこようとも、自分の判断を超えた「尊師の判断」によって、それに宗教的な意味づけがされるのである。そうやって「迷って生きていく自由」を放棄することで、人間は実に心地よく楽に生きることができるのだ。
こうした経験は私にもある。私は親鸞会に属することで「人間は最後に死ななければならないのに、なぜ今を一生懸命に生きるのか」という、長年自分を苦しめてきた問いから解放されていた。なぜなら親鸞会では「絶対の幸福」になることがその答えであり、それが死を超える人生の目的だと教えられていたからである。答えを与えられるということは、問いを放棄させられるということだ。人生の根源的な意味を求める宗教心は、教団から与えられた「正しさ」によって殺されてしまう。だから親鸞会にいる間はそこに迷いはなく、とても充実していたし、何よりどんな行動にも完全な意味が与えられていた。人生の無意味さに対する不安から解放されるのである。(以上)
