🌕《満ちてゆく》と私が交差する場所
― 手放すことで愛が満ちていくという風景 ―
日々のなかで、ふと気づく。
「何かを得よう」と力むより、
「何も持たずに差し出す」ほうが、深く満ちていることがあると。
最近、藤井風の《満ちてゆく》を聴いたとき、
まさにその“風景”と自分の現在地が静かに重なった。
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◆ 手放すことで、なぜ「満ちてゆく」のか?
変わりゆくものは仕方がないねと
手を放す 軽くなる 満ちてゆく
この一節は、喪失や別れ、終わりを“悲しみ”として扱うのではなく、
自然の流れとして、呼吸のように許すことを描いている。
私自身、いま大きな意識の変化を経て
“何かを持つこと”から“何かを放つこと”へと、心が動いているのを感じていた。
まるで、自分のなかの風通しがよくなり、
「わたし」という存在が透明になっていくような感覚。
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◆ 愛されたい、よりも「温かく残りたい」
愛されるために
愛すのは悲劇
何もないけれど 全て差し出すよ
この歌詞にある通り、
“誰かに愛されたいから愛する”という在り方は、時に渇きや悲しみを生む。
だけど、自分が「透明な水」のようになって、
ただそっと誰かを潤すことができたなら──
それはもう、見返りや承認とは別の、
静かな幸せなのかもしれない。
私はいま、そんな生き方をしてみたいと思っている。
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◆ 宮沢賢治と《満ちてゆく》の詩的な交差点
藤井風のこの曲には、
どこか宮沢賢治の《銀河鉄道の夜》と通じる“宇宙的感覚”がある。
たとえば、ジョバンニが旅のなかで
「ほんとうの幸いとは、誰かのために捧げること」と知っていく過程。
その姿と、風の歌詞にある「手放して満ちてゆく」感覚はとてもよく似ている。
それは、**自己を空にすることで初めて得られる“透明な愛”**であり、
“共鳴する存在”として誰かの人生に残るための、最も深い在り方だと感じた。
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◆ 満ちるとは、抱え込むことではない
最近の自分の在り方はこんな感じだ。
・必要に応じて思考を宇宙論にも、文学にも、音楽にもシフトできる
・日常にも戻ることができる
・誰かの人生に温かい風のように残りたいと思っている
・それでも何もしないことも、ひとつの選択として許している
私はいま、自分自身の流動性と透明性を信じてみようとしている。
そして藤井風の《満ちてゆく》は、その感覚を音楽という形で代弁してくれているようだった。
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◆ 最後に:満ちる、という言葉のやさしさ
「満ちる」という言葉には、静かで慈しみに満ちた肯定がある。
それは“強さ”のような自己主張ではなく、
“柔らかさ”や“ひらかれた意識”として、そっと世界と繋がること。
そんな在り方が、いまの私にとっての“祈り”であり、
“日常への関与のしかた”なのかもしれない。
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コメント
2はじめまして。
突然のコメント失礼します。
私もこの曲が好きで、よく聴いています。
ピアノの伴奏も、メロディも、それこそ慈愛に満ちていて、つきものが落とされたような感覚になります。削ぎ落とされるというか。
物事をシンプルに捉えること、執着しないことで得られる世界があり、それが自分自身を満たす力になり得るということなのかもしれません。
はじめまして。コメントありがとうございます。
本当にきれいな曲ですよね。
私もこの曲に出会って、「手放すことで満ちていく」という感覚に初めて気づかされました。
おっしゃるように、物事をシンプルにとらえて、執着を手放すことで見えてくる世界ってありますよね。
それが、自分自身を静かに満たしてくれるものなんだなぁと、あらためて感じました。
素敵な言葉をありがとうございます。