バブルを謳歌した永遠のお嬢様、甘糟りり子氏の「赤いきつねWebCM批判」から、フェミニズム運動を読み解く
この記事は、2025年3月8日に発信されている。
国際女性デーにひっかけて「赤いきつねWebCM」を批判しているものだ。
概要はというと「赤いきつねWebCMは性的!赤=女性の押し付けもステレオタイプ!東洋水産のジェンダー感覚は、50年前と変わらない!遅れてるぅ!」といったところだろう。
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1975年のハウスシャンメンCM騒動
甘糟氏が記事中で持ち出したのは50年前のハウス食品工業の即席袋めんのCMである。
小ぎれいな洋風のキッチンで、若い女性と女児が踊り、最後に女性と女児が「私つくる人」といい、若い男性が「僕、食べる人」と言うという他愛もないものである。
「ハウスシャンメン」のCM。
バーモントカレーとプリンミックスとシチューミックスで売り上げを伸ばし、「ヒデキ感激!」の広告ヒットで売り上げを伸ばしていたハウス食品工業は、即席麺にもその勢力を伸ばそうとしていた。
当時、インスタント袋めんといえば「明星(チャルメラ)」「サンヨー(サッポロ一番シリーズ)」「日清(チキンラーメン、出前一丁、日清焼きそば)」が主流だったので、ハウスは新参だった(ハウスは「うまかっちゃん」まで袋めんのヒットはなかった)。
このCMは話題になったのを憶えている。
女性団体がでてきてケチつけたらしいってのも、ちらとおぼえている。
しかし、CMそのものに対する、私の見方は全然違った。
私は、甘糟氏と同じ1964年生まれで、埼玉育ちである。
まあ、「はぁ??」とは思った。
私の周りには普通に料理できる大人の男が結構いたせいだろう。
家庭内の役割分担として母が料理を作ることが多かったが、包丁を研ぐのと川魚をさばくのと鍋を磨くのは父の担当だった。
母は三陸海育ちで料理上手ではあったが、川魚の扱いは完全に父に丸投げしていた。父は雄物川の川育ちで幼いころから釣りもやるので川魚には慣れていたようだ。
ご近所や親類見回しても、ラーメンくらい作れる男はいくらでもいた。友人の父(電機メーカー勤め)で、やたらと海苔巻きが上手で時々ごちそうしてくれる人もいた。
というわけで、かわいいCMながら、ハウスシャンメンのCMには父母も「はあ?」ってな感じで呆れ顔であった。
「ラーメンくらい作れる男の人いくらでもいるよね」ってな感じで、バッチリ我が家の晩御飯時に「お笑い」をもたらしてくれたCMである。
というわけで、世間の実態に合わな過ぎる「間抜けなCM」ではあったとは思う。
なので、甘糟氏の言っていることはさっぱりわからない。
よほど周囲に料理をする男性がいなかったのだろうか?
1975年、非常に微妙な時期ではある。社会進出を果たしたい進歩的な女性たちにとっては侮蔑の対象となりはじめた「専業主婦」も、大方の女性にとっては「憧れ」や「ステータス」であったという側面もあるのだ。それを見ずにあのCMを語れない。
調理家電が爆売れし、ちょっとおしゃれな料理やお菓子作りの本が売れる時代。
ただ「インスタントラーメン」では「ステータス」にならないし…そういう意味では「間抜け」ではあったのだ。
甘糟氏は女性運動家のたちが手柄にしたいみたいだが…、大衆から見たら案外「お笑い」の範囲だったのだ。
だが、放送開始から1ヵ月ほどたって「行動を起こす女たちの会」から、ハウス食品にクレームが入った模様。
1975年9月23日、行動を起こす女たちの会は、NHKや民放における女性の活用方法やドラマ等での女性の描き方などを問題視し、NHKに改善の申し入れをした際の記者会見で「ハウス シャンメンCM」に対する批判を行い、ハウスへの抗議の予定があることを明かす。
同会代表がハウス食品工業を訪れ、抗議の申し入れをするとともに、CM取り下げに応じない場合は不買運動を起こすとの通告する
という二段構えである。
CM自体は商品切り替えを理由にその後1か月ほどで放送中止となったようだが、その後に訴訟事件が起こっている。
行動を起こす女たちの会→ヤングレディ(講談社)訴訟事件
「行動を起こす女たちの会」の抗議に対しては、かなり冷ややかな論評や雑誌記事が相次いだ模様。
以下はWikiからの画像引用であるが、まあ、そりゃそうだろうなあと言う感じである。
「経済往来」という雑誌に野原満男氏と言う方が寄稿されているのだが、その中に、記者会見の内容とともに、サンケイ新聞社が真顔で調査したと思しき記述がある。
…また、CMについても「ハウスシャンメン醤油味」の女の子が「私つくる人」といい、男の子が「ぼく、食べる人」というCMをとりあげ「男の子がまねをしてよくない、やめるようもうしいれるが、やめなければ不買い運動を始める」とか…。
このCMについては、十月七日付の朝日新聞とサンケイ新聞でとりあげていた。朝日新聞は読者の投書で「テレビのCMを騒いでいるが、おかしいのないか。あれを見て、女が作り、男が食べるものだ、という発想は起らない。お年寄りのひがみという感じ。あれもいけない、これもいけないでは、封建時代主義に逆戻りではないか」四十歳の主婦の意見と、「見るたびにユーモアを感じる。あの告発が理解できない」二十八歳の二児の母親の意見があった。サンケイ新聞の方は千人調査での反響調べで、市川議員らの主張を認めて差別と感じた人は四%、差別と感じない人は八七%であった。また同調査では、女性に女らしさを求めることは男女に差別をつくるものでよくないことだと思うか、当然のことだと思うか、の設問を出しているが、これに対してよくないと答えた人は7%で、当然のことだと答えた人が六七%となっている。
市川房江を中心とした女性運動家グループの「国際婦人年」情宣キャンペーンの生贄として、ハウス食品がターゲットになった感もしないでもない。
上記と同じ時期に出された、婦人問題懇話会(1961年~2001年に存在した女性団体)会報における吉武輝子氏の文章には、ほんのちょろっとしかハウスCMの件は出てこない。
「行動を起こす女たちの会」は、ターゲットを「ヤングレディ誌」に絞っての訴訟を起こす。
同会が「誹謗・中傷」として雑誌の出版元である講談社を提訴し、最終的には和解となっている。
「行動を起こす女たちの会」とは?
1975年の国際婦人年にあたって作られた団体のようである。
『女性解放の思想と行動 時事通信社 田中寿美子 1975』によると、初期の呼びかけ人は、市川房江、田中寿美子、もろさわようこ、樋口恵子、吉武輝子等であった模様。
この会が奉じていたのは「女性解放思想」という、一種の理想主義であり、「解放思想」の一種である。
発起人の中には今もいろいろ活動していらっしゃる樋口恵子氏もいる。
下記の真ん中の方である。
甘糟氏は「行動を起こす女性の会」を美化している
甘糟りり子氏は、ハウスシャンメンCM騒動をの一部を切り取り、女性運動の成功として美化しているように思う。
当時から、過激なウーマンリブ運動に対しては、冷ややかな目線があったにも関わらず、それがなかったことにされてきた。
「行動を起こす女性の会」は、表現弾圧の先鋒でしかなったように思う。
1976年、古谷糸子氏という評論家(元は毎日新聞の記者、毎日新聞論説委員であった古谷綱正氏の妻)が次のように書いている。
もともとこのCM自体、それほど大騒ぎすることでもない。実際にはこの抗議によってそのCMは打ち切られた。その意味では抗議が成功したといえるかもしれない。しかし、仮りにもっと違った表現や言論に対しても、いちいち圧力やイヤガラセがあって、変更させらりしたらどうなるのだろうか、
そのことをおもえば、多少困った表現、言論であってもやたらにそれを抑えることは考えものだと思う。”ものいえば唇寒し…”などという日本古来の風習に拍車をかけることになりはしないか…。そのほうがよっぽど怖い。
(中略)
要するに”村八分”などという封建時代の遺物が、いまもそのままどこの社会にも残存しているところに、日本の民主化など底の浅いものだという気がする。
その意味では”行動する女の会”の人たちが、あのCMは”怪しからん”子供たちに、変な影響を与えると、いうことで抗議することもいい。しかし、その反面、ヤリ玉に挙げられて白か黒かの決着を迫られるということは、裏返せば女性から村八分に会っているようなものである。
しかも世間からの村八分にするような性質のものではない。村八分にめげず女性が不当だと思うことに抗議することは一向に構わない。しかしことの性質によっては村八分をする側になることもあり得るなどというのでは困る。
言論、表現の自由を守るためには、お互いにその限界を踏み越えたはならないルールがある。言論には、あくまでも言論で対抗すべきではなかったかと思う。
この古谷糸子氏は右寄り…ということはないのは、他のページを読めばすぐわかる。
ただ、1976年時点では、こういう意見も書けたようである(「あとがき」から察するに、これは騒動直後に書かれたものではないかと思われる)。
昨今では、こういった意見が、オールドメディアから「村八分」に遭っているような気がしてしまう。
甘糟氏は「行動を起こす女性たちの会」への批判をどのように受け止めるのだろうか?
目を引く「ダサい」の連発
見比べてみると、女性だけ過剰に「うるうる・はあはあ」なのは一目瞭然。ダッセーなあ。本当にダッセー。しかし、ダッセーと思うだけでは済ませず、きっちり「性的」「不快」と声を上げる人が多数おり、いわゆる炎上状態になった。当然の流れで「あれを見て性的とか、いつもエロいこと考えているからじゃないの?」といったダメな昭和おじさんの思考を見事に継承したからかいも少なくなかった。
「私作る人、僕食べる人」の時代からインスタント麵は目を見張るような進化を遂げたけれど、残念ながらジェンダーについては大した進歩はないようだ。
ちなみに国際女性デーの象徴はミモザ。私も3月8日は自宅の居間に黄色い花を飾るようにしている。赤=女性という安易な発想は著しく時代遅れでダサいんですけど、東洋水産さんはどうお考えですか?
そもそも「ダサい」はいつ頃から?
1970年代に生まれた用語であると思う。
甘糟氏と同時代を生きてきた私としては、Wikiで済ませず、ちょっと自分の体験てきな「ダさい」の語の変遷を語ってみたい。(ドンピシャ同じ1964年生まれである)
元々は、東京近郊の、カバンをつぶしていたり、ちょっとスカートを長くしたりり、ボンタン(腰回りを太くしたズボン)をはいていた連中(まあ、俗にいう不良たち、いまでいうならヤンキーっぽい連中というところだ)が、「学校の生活指導ご推奨の正しさ」に反発し、それをバカにする(意味A)といった意味で使われていた用語である。そしてそれは熱血教師的なありようをバカにする意味でも使われた。
「学生カバン」を薄く潰さないのは「ダサい」優等生仕草ということになる。
「ダサい」は、あっという間に、「垢ぬけない」とか「田舎臭い」、「センスが悪い」といった意味(意味B)に転換しながら一般の女子中学生に拡がった。
1970年台後半、私が中学生の頃には普通の中学生にも浸透していたが、意味A・B両方をの用法が混在していた。
意味Aは、教員ご推奨のありように対する反発や、仲間に対する指南、仲間であることの確認的な意味もあったように思う。
そして、意味Bは、東京から北上してきた、マウント用語・侮蔑語・罵倒語といったところだろう。
中学生時代、カバンに12キロ、辞書やら本やらフルに詰め込んで通学していた私は、”彼ら”にダサいとは言われたことはない。まあ、そこまで重量級ブタカバンにするのはやはり普通ではないので、案外ダサくなかったらしいw。
解釈にやや困ったのは「意味B」である。
なにかにつけてファッションなどで「ちょっとそれ、ダサいんじゃない」とご注進してくる連中がいた。
基準が感覚であるらしいので、言いたいだけだろうと、「あ、そう」でスルーすることにしていた(私は無頓着w)。
茨城県からはこのような報告も。
意味Bは、東京や神奈川の人らが、非都市圏とその住民やそのファッション等をバカにするのにも転用されていく。代表例が「ダサイタマ」である。
ちょい悪の不良たちや、一斉を風靡した「竹の子族」の連中にとって、よい子ちゃんファッションは「ダサい(意味A)」のであるが、
意味Bの「ダサい」の意味では、ダイエーの衣料品チラシに載っているようなファッションが「ダサい」がダサいのである。
「オシャレじゃない」「古い感覚である」を「あってはいけないもの」のように言い捨てるための、意味Bにとして、「ダサい」は広がっていく。
意味Bの用法が拡がるにつれ、意味Aは廃れた。意味Aを使う者たちが言葉を失ったカタチになったともいえる。ちょうど「校内暴力」が世の中に吹き荒れたころである。
中~上流家庭の不良でもない女子の言う「ダサい」には、「反発」よりも「侮蔑」のニオイがした。
意味Bの「ダッセー」は反論を許さない言葉である
それにしても、いまどき、「ダサい」や「ダッセー」という強い語でディスるのは、ちょっと異様である。
大人が、それも文筆業を生業としている方が、批判的文脈で使う言葉として見ることがあるとは思わなかった。
意味Bの「ダッセー」というのは、ある意味「問答無用」と大差ない。
反論を許さないという要素がある。
ちなみに、甘糟りり子氏、松本人志氏の案件でも、「ダサい」を連発させている。
伝聞の形態をとってはいるが「集団のノリ」の押し付けにに近い使い方ではないだろうか。
還暦すぎて「ダサい」を多用する文化圏はそう広くはないだろう。
甘糟氏は、ご自身の感性のみをたよりに、赤いきつねCMを叩きまくるのだが、なぜそれが許されるのか?にもちょっと考えるをめぐらす必要があるかもしれない。
甘糟氏がどういう方かというと…
とりあえずWikiがあった。
横浜生まれ、鎌倉育ちのお嬢様のようで。 玉川大学文学部英米文学科卒、大学時代には資生堂のキャンペーンガールもやってたという。
そして、発言数はそれほどおおくないがXもやっておられる模様。
案外フォロワーは少ない。
クロワッサン世代の模範的な「おひとり様」?
古民家に住みながら「丁寧な生活」をする、そして文筆を生業として鎌倉という地域の魅力を発信する。
「産むこと」に拘らず、1980年代「an・an」や「クロワッサン」の描いていた「女性の自立とはかくあるべし」の模範のような方である。
奇遇なもので私も古民家住まいであるのであるが、優雅に「古民家」を楽しめるのは、補修・改修費用をふんだんかけられる富裕層だけであると思う。
(ケチな費用でDIYでしのぎつつ住む…というのが私の現状である。全く持って優雅にしている余裕はない)
そう思いながら読んでいて上記記事にご父君の名前があったので、検索してみると、ご両親のWikiがあった。
ご父君はマガジンハウス(旧:平凡出版)の副社長までつとめられた編集者であった。
横浜生まれ、府立高等学校(東京都立大の前身)、ここでちょっと引っかかる。イギリスのパブリックスクールをモデルに作られた7年生の高等学校であり、旧制高校あるあるのバンカラ色を排し「自由と自治」を標榜した学校である。そして東大仏文科卒。
早稲田の第二文学部の露文中退 >在学中より雑誌のフリーライターとして活動する。1960年(昭和35年)5月には向田邦子らと女性3人のフリーライター事務所「ガリーナクラブ」を開く
お母さまも才媛であられるようだ。
甘糟りり子氏が小中学生の頃は、鎌倉の古民家住まいでありながら、東京の最新の流行に常に触れられるといった環境であったのだろう。
甘糟りり子氏は神奈川県立鶴嶺高校のご出身であるらしい。 1970年台、神奈川県の高校百校新設計画の初期にできた普通科の高校である。
ここから、中学校は小中学校は公立に通われていた可能性が高いと思われる。神奈川の県立高校は、悪名高い、ア・テスト方式の手前ではあったが内申書重視の入試であったはず。
埼玉県民であった私は、東京の学校群制度や、神奈川の内申書重視の入試などを、ニュース等で聞いては、大変そうだなあと思っていた記憶がある。
いったい誰が赤い服を幼い甘糟りり子嬢におしつけたか?
赤い服に関しては、もっと具体的に拒否反応があった。
おしゃれに目覚め始めた私は、チョコレート色のスウェーターにチョコレート色のミニスカートを履き、靴下もショートブーツもチョコレート色というファッションで学校に行き、級友の男子生徒から「甘糟、全身うんこ色じゃん」とからかわれたりしていた。シックというスタイルをめざしていた私とって、赤い服を強制されることは恐怖だった。
これは、小学校時代のことだろうか。
全身チョコレート色で固める…というのは、ギャングエイジの男子児童からからかわれるのは、ある意味当然といえば当然である。
「全身うんこ色」というのは、シックにキメていたつもりの少女にとっては、許しがたいことだったのかもしれないが、そのファッションを選んだのは甘糟氏自身であったわけである。
そもそも、女児向けの服で、全身チョコレート色のコーディネートというのは、当時では今よりもさらに入手が困難であったのではないかと思う。そして、それを買い与えたのは、甘糟氏の親御さんである。
そして、1975年頃であれば、別に女児向けが赤い服…ばかりということはなかった。女児向けのジーンズは普通に出回っていたし、Tシャツなどは結構カラフルだった。まあ、ビビッドな濃い色の服は案外少なかったように思うが…。
いったいだれが「赤い服」を強制したのだろうか?
”赤は女”というステレオタイプは存在したか?
甘糟りり子氏は「”赤は”女というのがステレオタイプでダッセー、時代遅れ」と宣うわけなんだけど、 甘糟氏の感覚でいったら、下記のようなファッションのフェミニスト批評のお嬢さんも「ダッセー」と言うことになるのだろうか?
ちょっと横っちょにそれるが、赤いジャケットのよく似合う(ここは擦る気はないです、褒めてます)北村紗衣先生は、呉座氏や雁琳氏相手ではなく、甘糟氏のような、鎌倉育ちの永遠のお嬢様作家を相手に戦えば良かったのでは?と、思わなくもない。
東京神奈川育ちの、ハイセンス?なお嬢様達の「ダサい」という類の他者蔑視感覚こそが、たとえば北海道など、地方から上京する大学生を苦しめていたというのはあったという部分はあるような気がする。
「ダサい」の変化とファッション雑誌文化
「ダサい」が、徐々に自分の感覚で他者を貶める際に使われるようになった…というのは既に書いたが、これにはファッション雑誌の隆盛が関わっているように思う。
1970年台には、若者向けのファッション雑誌が大量に創刊され、おしゃれに目覚めた女子高校生などは、挙ってNON・NO(1971~)や、an・an(1970~)を読んでいました。JJ(1975~)は…コンサバ系女子大生ファッション誌というところ。
私が高校に入ったのは1979年ですが、埼玉の県立高校の教室内でも盛んに回し読みされていましたので、どれも読んだことがあります。
クロワッサンという雑誌もでましたね。
クロワッサンはちょっと大人向け…という感じですね。
当初はニューファミリー向けのものだったようです。
店頭でちょろっと立ち読みするくらいはしました。
ファッション雑誌では「ダサくないこと」が追い求められたように気がする。
雑誌片手に旅行に出かける若い女性たちが「アンノン族」とまとめて語られるようにはなるが、non・noとan・anではかなりテイストが異なり、non・noのテイストを好む女性から見ると、an・anは「妙に気取っていてダサい」ということになるし、その逆は「ぶりっ子でダサい」ということになる。
そしてJJ愛好者から見るとnon・noは「ガキ臭くてダサい」ということになり、an・anは「カジュアルすぎてダサい」ということになる。
結局「好みじゃない」の域を出ないにもかかわらず、好みのテイストどうして侮蔑しあっていたような印象であった。
そして勢い80年台の女子大生ブームあたりでは、ブランド志向が強くなってくる。女子大生ルック…というものがさまざまに登場する。
ダイエーやヨーカドーの衣料品売り場で買った衣料品は、まとめて「ダサい」のハコにぶち込まれる…といった感じである。
親に資力のあるお嬢様女子大生の天下である(ああ、勿論、東京都心部に限った話である)。
おや…ドンピシャ甘糟氏に当てハマるではないか…。
きっとさぞやシックなファッションできめていたのだろう…とおもいきや、そうでもなかったようである。
甘糟氏のボディコンワンレン真っ赤なワンピ姿が発掘される
甘糟氏のバッチリ決まった真っ赤なワンピース姿がみつかってしまった。
とても大事な部分なので、画像を引用しておこう。
赤いきつねWebCM批判の記事中の「赤い服を押し付けられるのは恐怖」の記述はいったいなんだったのか?
ああ、結構目鼻立ちのハッキリしている方なので、ビビッドな色合いがよく映えると思いますね。
(推定)小学生時代にシックな?ファッションに目覚めた甘糟氏は、玉川大学在学中の大学生時代には、「チャラいこと」が大好きで、「女子大生」という肩書?をフルに活用し、夜の東京に繰り出していたようである。
共学の大学生よりも「女子大」の学生の方がモテるとあらば、それと偽装することも別に抵抗がなかった様子である。
こういった感覚であれば、現在の「思い」をベースに過去の「こう感じていた」を修正することにも抵抗がないかもしれない。
とりあえず、都心部のごく一部の女子大学生たちが「モテ」に狂奔し、「モテ」で自己実現をはかろうとていたことがうかがわれる。
これが女子大生全体ではないのは言うまでもないことである。
この時代、東京圏の大学に通っていた知り合いも沢山いたが、たまには都心にあそびにもいくし、資力に応じてファッションにも気を使いもするが、勉強もするという子が多かった。
考えてみれば当たり前の話である。
女子大生ファッションのトレンドに全振りするのはかなりの資力が必要である。バブル期とはいえ、そこまでの資力を持っている子はそう多くない。
それに、若い時代がそう長くは続かないのは目に見えている。
美女として有名であったといわれる小野小町の有名な歌に
『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』
という歌がある。
そして、藤原道長が詠んだとされる望月の歌
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」
これも、摂関政治の終焉の歴史を知るものにとっては、”まあ、そう長くは続かない”といった意味合いで受け止められもしている。これは1964年生まれが学んだ課程では中学校の歴史で出てくる。
平家物語の「祇園精舎」も、諸行無常を説く
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
若い時代(自分に都合の)良い時代がいつまでも続く…と思うほうが、実は少数派ではなかっただろうか。
自分の感覚が「一般的」であると信じる不思議さ
またまたすごいものを発見してしまった。
こんなことを考えていたのは、富裕層のごく一部だけであったろう。
バブル期というのは、一見景気が良かったし「一億総中流時代」ともいわれたが、貿易摩擦で四苦八苦していたし、軽工業は1972年のオイルショック後の構造不況から抜け出せないままであった。個人商店もどはどんどん減っていっていたし、資力の乏しい零細企業は高金利に苦しんだ。
「ジャパンアズナンバーワン」と呼ばれるほど技術は上がったが、落ちこぼれを救え」を合言葉にした日教組と文部省は「ゆとり教育」に転じ、技術力が後の世代でも維持されるかは、実はいたく不透明であった。
「このまま続くわけがない」と思いつつ「もうちょっと続いてほしい」という相反した思いを抱く人達はいただろうが、バブル崩壊の時点で、そうそう簡単なものではないと理解した人も少なくなかったと思う。
それにしても、甘糟氏が「私たち一般人」という意識を持ち続けていたことは驚きでしかない。
大学を卒業された甘糟氏は、有名アパレルメーカーに就職するも一年ほどで退職、しばらく家でブラブラしていたようだが、大学時代の友人の情報誌編集者の手伝いをスタートポイントに、情報誌のライターとなる。
学生時代からの遊びの蓄積で、東京の新しいレストランやカフェ、ディスコ、流行しそうなモノ、コトに関する情報だけは豊富に持っていたので、いろんな編集部で重宝がられましたね。
当時はバブル期の真っただ中。世の中を俯瞰し、トレンドの実況中継をしている感覚。加えて、流行りを仕掛ける役割も担っていると自負もありました。たとえば、夜のカフェが元気だった80年代後半、「夜お茶」という言葉を思いついて、あらゆる雑誌に書くのです。すると、それがさもあちこちでいわれているように見え、“流行”として認知されるわけです。
「体験」と「若さ」を武器に、東京のトレンドを紹介する…というスタイルだったようだが、
フレーズを作り出し、あたかもそれが実在する流行であるように見せるというのが実情であったようだ。
まあ、ファッション雑誌などは「流行を作り出す」ことで食ってきた部分はある。
女性ファッション雑誌が「今年の流行のファッションは…」とやるのは1970年台からあった。1980年台には「今年のトレンドファッションは」に変わったが、やり方は変わらない。ただ、それは「デザイナー・パタンナーたちの創意・工夫」や「紡績・織物等、繊維工業の発達」「服飾付属品の発達」「染色・プリント技術の発達」「縫製業と供給ネットワークの形成」など連動もしていたので、1970年代だと全くの噓というわけではなかった。
ちなみに1980年には、ファッションを支える基盤産業は伸び悩み、かなり危機にあったのが実情である。
基盤となる「ものづくり」が脆弱なところに、感性だけで「トレンド」だけを作り出そうとすれば、末端までその”流行はいきわたらない。
ファッション雑誌や情報誌が紹介する「トレンドの遊び」「トレンドのライフスタイル」の、ウソ臭さが鼻につくようになっていったのは、気に入らないものを「ダサい」の枠に放り込む、バブル的な若い女たちの「思い付き」が犇めく世界だったからだろう。
バブル崩壊後、ファッション誌も情報誌も徐々に勢いを失っていった。
小説化へと転身し、「丁寧な生活」にめざめる甘糟氏
世紀末あたりから甘糟氏は、小説家にシフト。
きっかけは幻冬舎のカリスマ編集者のひとことだったようだ。
その後、ロンドンマラソン参加を契機に、健康的な生活にめざめたらしい。
そして、ここ10年と少しは、「産まない女性の生き方」と言う方向にテーマシフトされてきたようである。
『産む、産まない、産めない 甘糟りり子 講談社 2017』
『産まなくても、産めなくても 講談社 2019』
『私、産まなくてもいいですか 講談社 2024』
もしかしたら甘糟氏の周辺では「フェミニズム」がトレンドなのかもしれない。
2023年の甘糟氏のポリコレ批判論
「ダッセー」を連呼して、東洋水産を批判する甘糟氏であるが、実はご自身の映画批評エッセイの原稿をボツにされたことについて、抗議の声を上げられていたことがある。2023年のニュースポストセブンの記事である。
『バビロン』という映画に登場する中国人女性のタキシード姿を「マレーネ・ディートリッヒ」を思われせると、評したら、白人中心主義的というケチがついて、原稿の掲載が見送られたらしい。
第三者に確認したところ、原稿の見送りはそれ以外にも「原稿にキレがない」なども理由だという返答があったようだ。それを伝えずに「多様性やハラスメントに触れる箇所について疑問が生じる」だけを理由とするのは、こちらが反論しにくいからと踏んだからだと私は考えている。コンプライアンスを理由にすれば、たいていの人は一瞬躊躇する。さまざまなケースがある中で、果たして自分の行いや主張が「合っている」のかどうかわかりにくいだろう。しかし、安易に反論しにくい「差別やハラスメント、多様性」を理由に物事を通すのは大変危険な発想だと思う。「差別やハラスメント、多様性」は道具ではない。
だが、「ダサい」も、また、反論しにくい問答無用の言葉である。
ご自身の「ダサい」と思うという感覚を根拠に「赤いきつねWebCM」を批判するのは、まさにフェミニズム的ポリコレである。
かつて、若い女性が使うことで、その暴力性が見逃されてきた部分はあるが、前述の”意味Bの「ダサい」は紛れもなく言葉の暴力であったのだ。
まあ、甘糟氏は自分が不利になる方向性に対して声をあげているだけかもしれない。
反権力指向というよりは「自分の不利に対する異議申し立て」ではないかと考えると、集団主義型の学校的価値観ではないかとも思う。
とりあえず、そうであればそれほど不整合はない。
そろそろまとめ
1970年台の女性運動とCM騒動、「ダサい」の変遷、甘糟氏の人となりをおいかけきた。
何でもかんでも「ダサい」の枠に突っ込んでしまう、トレンドに敏感な自立した?バブル期のお嬢様達のその後の漠然とした不安が、フェミニズム市民運動の養分だったというところのようだ。
そして、甘糟氏は、「我こそが一般人」という意識をもつ、極めつけのバブルお嬢様だったようである。
「べっつに~、いまは古い家に住んでるし~、高級グルメにも執着してないし~、結構悩んでるし~、私って一般的な女性でしょ~。」
といったところなのかもしれない。
だが、アルファロメオを6台も乗るような人は、まぎれもなく庶民ではない。
人間、飯を食って💩をする存在であることにおいては、まあほぼ共通である。
だが、だからといって、皆同じではない。
マガジンハウスの副社長のご令嬢であり、飛び切りのバブルお嬢様&バブル勝ち逃げ組の甘糟氏は、「庶民」では決してない。
庶民の軽食「赤いきつね」のCMにクチを出すな!!
なのである。
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購入者のコメント
1あの人たち、70年からおよそ50年くらいこんな事やってるんですねえ…いい加減大人になって卒業すればいいのにね…