2
ホンが目を覚ましたのは、籐で編まれた寝台の上だった。
「――はっ!」
薄暗い中、思わず身を起こし、震える身体で荒く息を吐く。腰のあたりにかかっていた、地厚の掛け布が滑り落ちた。
ホンはぼんやりとそれを見下ろしていたが、やがてのろのろと身を乗り出すとつかんで引き上げようとした。
力が入らなかった。さして重くもないだろう掛け布が持ち上げられない。
そうこうするうち、天地の感覚がひっくり返った。音を立てて硬い床の上に背中から転がる。
しばらくそのまま梁の横切る屋根裏を見上げてから、ホンはゆっくり身体を起こした。
片膝を立て、それを抱えるように身体を支えながら辺りを見回す。
空の寝台が三つ四隅に置かれている以外、部屋にはなにも見当たらなかった。
次第に意識が明瞭になってくる。
同時に、それまでぼんやりとしか感じていなかった肩と背中の違和感が、突然苦痛となって襲いかかってきた。
ホンは顔を顰めて背中を丸め、うめき声をあげる。
「くそ……いったいなにが」
「ふむ」
まったく気配を感じなかった。
目を見開き、顔を上げて声の方向に首をねじ曲げる。
途端、稲妻のように走った痛みに表情を歪めながら、ホンは戸口のあたりに立つ外衣の人影を見た。
「思ったよりも早かった。身体が頑健なのは好ましいことだ」
ホンが短剣で切りつけた娘ではなかった。
そもそも体格が違う。痩身ではあったが、頭ひとつかそれ以上背が高かった。
声もいささかかさついてはいるが、あの異様に嗄れたそれではない。
やはり深く被った頭巾のせいで、その奥の顔は見えなかった。
こいつも、あの娘のように仮面をつけているのだろうか。
「あ、あんたは?」
頭巾がかすかに傾げられる。
「
才、才、才。会う人間ごとに同じことばかり。あの仮面の娘といい、巨人――操兵に乗っていた女も然り。
ホンは内心うんざりしながら、こう尋ねた。
「教えてくれ。おれにどんな才があるっていうんだ。虫や蜥蜴の息遣いが聞こえるってだけで、他になにも――」
ブランは首を傾げたままその言葉を聞いていたが、ややあってこう答えた。
「虫や蜥蜴だけならば。おまえはこれからさまざまなことを学ぶが、それの一部でも身につけることができれば、その才はおまえをおおいに助けることだろう」
「学ぶ?」
ブランは大袈裟とも言える動きで大きく頷いた。
「いかにも。おまえは学ばねばならない」
ホンは痛みを無視して、胸をそらすように立ち上がった。
「学ばねばならない? 別に望んでここにきたわけじゃない。おれには面倒見なきゃならない家族がいるんだ、帰らなくちゃ」
「ふむ。好きにすればいい、それが可能なら」
ブランはそう言って半身を引き、扉の外へ差し招いた。
ホンは怪訝な顔でブランを見遣ってから、おそるおそるその脇を通り抜けた。
部屋の外は長い廊下だった。内と外を仕切る壁はなく、簾が巻き上げてある。
廊下の外は、白砂の敷かれた庭園になっていた。雑草ひとつ見当たらず、数
塀の高さはホンが腕を伸ばせば上に届く程度だった。作りも隙間だらけで、たやすく乗り越えられそうに思える。
あたりをうかがってから、ホンは廊下の縁から外へ飛び降りた。
見た目より白砂の目は粗く、砂利に近い感触だった。それを裸足で踏みしめながら、ホンは塀に向かって駆け出した。
ほんの数歩で塀にたどり着く。勢いをつけて飛び上がり、手をかけたと思った途端、ホンは寝台のある部屋の中に戻っていた。
「どうした?」
背後に立つブランが小首を傾げる。
ホンは驚きに目を見開いた。そうして身を翻し、ブランを押しのけて再び廊下に出る。慎重に見回すが、少なくとも先刻と変わるところはないように思えた。
ホンはひとつ深く息をつき、勢いをつけて外へ飛び出した。砂を強く蹴り、今度は数歩で塀の前にたどり着く。
そこでホンは足を止めた。
違和感がある。先刻は必死さが勝って気づかなかったが。
ホンは振り返ってブランを見た。
「ほう、気づいたか。これはまこと、ダハンの言う通りのようだ」
戸口から差し込む光を背に、ブランが立っていた。
ホンが立っていたのは、またも寝室の中だった。
「これは、どういう……」
「それを知りたくば学ぶことだ。学びを究められれば、われらを出し抜いて好きにすることもできるかもしれないぞ」
ブランが低く笑う。
ホンは言葉を失った。
外に出て庭を横切り、塀に取り付いたと思った瞬間、部屋の中に戻されている。
いったい何が起きているのか。
ただ、確信はあった。
これには、何か奇しい術が絡んでいるのだろう。
あの仮面の娘が、操兵と術で戦っていた光景を目の前にしたのだ。あれに類する何かがここで使われていないはずがない。
「さて、一緒に来る気になったかね?」
ブランがそう言って廊下の外に出る。ホンはその背中をじっと睨みつけたが、諦めたようにため息をつくと、それについて部屋を出た。
黙って従うしかない。
それがひどく業腹だったが、いまそれを晴らす時ではないことはわかっていた。
長い廊下の端は渡り廊下につながっていて、その向こうには大きな建物があった。
見たこともない造りだった。
建物を支える無数の柱は太く、まっすぐな木を滑らかに磨き上げたもので、継ぎのない一本の梁が、その端から端まで渡されていた。
それらの端々には緻密な装飾が彫り込まれ、彩色されていて、建物全体が巨大な美しい細工物のようですらあった。
「ここだ」
ブランは言って、渡り廊下を端に寄って振り返った。
「中に入れ。おまえたちの世話役が待っている」
「たち?」
ホンの言葉は無視され、ブランはただ頭巾を小さく傾げて見せた。
中に入ると意味がわかった。
そこには、ホンと似た年恰好の連中が四人、円座を敷いて座っていた。
一番身体の大きな少年が、不機嫌顔でちらとこちらを見た。
残りの連中も眉を顰めて振り返る。
その視線にきまり悪げな思いをしながら、ホンは一番手前に置かれた円座の上に腰を下ろした。
「揃ったようだな」
その声に顔をあげる。信じられないほど広い板張りの広間の真ん中に、見覚えのある人影が立っていた。
彼女は頭巾をかぶっていなかった。だが、例の仮面はつけたままだった。
「わたしはバラハン。おまえたちの世話役を言いつかった」
「世話役?」
そう声を上げたのはホンだった。
バラハンは仮面のまままっすぐホンを見返した。
その視線に射すくめられた瞬間、ホンは思わずうつむく。あの時、外衣の裂け目からのぞいた裸身が、残像のように目の前にちらついていた。
バラハンはなにも言わず、ただじっとホンを眺めていたが、ややあってふたたび全員に向かって続けた。
「ここで生きていく保証はしよう。見返りに、おまえたちはわれらの課す務めを果たさなければならない」
「別におれは、おまえたちに面倒を見てもらおうとは思ってない」
ホンが言う。
「ここに望んで来たわけでもない。家族はおれを待っている。帰らなければならない」
ふたたびバラハンの返した視線は、どこか面白がるような光を帯びていた。
「ならばそれでもよい。務めを果たさねば見返りもない。それだけのことだ」
言いながら、バラハンは残りの四人を見下ろした。
「おまえたちもだ。やつとおなじ考えなら、好きにするがいい。家に戻っても責めはすまい」
「そ、それだけはご勘弁を!」
例の大柄な少年が、這いつくばるように頭を下げる。
「おれたちには戻るところなんかありません。どうぞ、お見捨てにならないでください」
その声は哀れなまでに震え、ひび割れていた。
「帰ってもまた売られるか、山奥に捨てられるかだけです。どうかここに置いてやってください、お願いします!」
その言葉に、近くで呆然としていた残りの子供たちも、額を擦り付け平伏する。お願いします、と口々に懇願しながら。
ホンはただそのさまを見ているしかなかった。