それは痩身の女だった。
顔は、見えなかった。
と、薄い面紗で覆われたかに見えるその
両の眼のあるあたりに、すうっと細く糸のような筋が走る。
ゆっくりと見開かれたそれの奥にあったものは、漆黒の深淵であった。
眼が黒いのではない。
その向こうに広がるのは、茫漠たる虚空、とでも言おうか。
ただそれのみだった。
薄黒いこの玄室が、真夏の陽光の下にあるとさえ思わせる。
それほどの黒だった。
椎の実ほどの大きさしか持たぬふたつの眼は、大海をも圧する黒い空虚を湛えていた。
ありとあらゆる存在を拒絶する、圧倒的な虚無。
いったんそこに踏み込めば、いかに確固たる姿形を持つものであろうとも、千々に引き裂かれ、存在の根幹から抹消される。
あれの向こうにあるのは、そういうものだった。
悲鳴をあげて逃げ出さない自分が驚きですらあった。
底知れぬ恐怖がある。
それは確かだった。
だが、なぜだか
強くあらねばならなかった。
強くなければ、生きることが許されない。
それが、ホンを取り巻く世界の理だった。
なされねばならぬことは全てなす。
たとえ、それがどれほど薄汚れたことであろうとも。
そうやって生きてきた。
こうして術師の徒弟となり、屈従を強いられる日々を送ってきたのもその理に従ったゆえの結果である。
だが、それにも終わりが訪れたようだった。
白いそれが、まっすぐこちらを見た。
「そうか、おれの番か」
不思議に落ち着いた心で、ホンは立ち上がった。
女の全身から迸った白が、あたりを埋め尽くしていく。
その向こうに、無窮の深淵が口を開こうとしていた。
1
手籠かなにか借りてくるのだった。
市場の外へ出たホンが最初に漏らした感想がそれだった。
今日はことのほか、雇い主のブ・サンの機嫌がよかったらしい。
余り物の根菜や魚の干物、大袋に詰まった白豆を胸元に抱えながら、ちびのホンは家路を急いでいた。
すべてブ・サンが寄越したものだった。
普段なら舌も出さない強突く張りが、なんとも珍しいこともあるものだ。
「この調子じゃ、明日には天地がひっくり返っているんじゃないか?」
ホンは苦笑まじりにつぶやいた。
まあ、なんにせよ悪くない。これで、しばらくぶりに母ときょうだいたちを腹いっぱいにしてやれるだろう。
ありていに言って、ホンの家は貧しかった。
父親はホンが十歳の頃にいなくなっていた。理由ははっきりしなかったが、おそらく生きてはいないだろう。
ちょうどその頃、蟲や獣たちがこのあたり一帯を通り過ぎていったことがあったからだ。
姿を消したのは父親だけではない。市場で働いていた人足の類が、両手に余る人数姿を消している。そのうちの何人かは食い散らかされた姿で見つかっていたから、むしろ見つかっていなくてよかったとすら言われたほどだった。
父親を失ったせいもあって、母親はそれ以来病で臥せりがちになっている。
弟ふたりはまだ幼かったし、妹はそのふたりの面倒を見るために働きに出られなかったから、いきおい家族の稼ぎはホンが一手に担っていた。
父親のつながりですぐに雇ってはもらえたものの、当時数えで十歳のホンにすれば、市場の仕事は過酷と言ってよかった。
その扱いに、ホンは自分たちがいかに貧しく、文句を言えない立場にあるか思い知らされたものだった。
とにかく、馘にされないためになんでもやった。
使い走りに始まって、荷の積み下ろしや在庫整理の力仕事、果ては汚物の処理、果ては商売敵の隊商への妨害まで、ありとあらゆる嫌われ仕事がホンに押し付けられた。
何度かは死にかけたこともある。
それでも、文句を言わずホンは耐え続けた。
その暮らしが四年である。
重労働の日々にもかかわらず、腕も足もちっとも太くならなかったし、身体はがりがりに痩せたままだった。背もほとんど伸びていない。
かわりに、貧相な身体でも力仕事をこなせる要領のよさだけは身についたが。
大の男たちが十人がかりで一日かかる作業を、たったひとり半日で終わらせたときのブ・サンたちの顔ときたらなかった。
「まあ、やつらの頭が悪いだけだけどな」
ホンはむっつりとそう言うと、小さく飛び跳ねて抱えた荷物の位置を直そうとした。
剥き出しの腕に、発疹のような鳥肌が走った。
「なんだ?」
額から汗が吹き出す。怖気と圧力が同時に押し寄せた感覚に、ホンは思わず膝をついていた。
恐怖心に打ち克って、ホンは顔を上げ、その方向を見た。
簡素な灰色の外衣を身につけた人影がひとつ、佇んでいた。
「これは驚いた」
ひどく
「わたしが見えているのか?」
ホンはなにも答えず、ただ目を瞬いた。少なくともホンの目には、その人影は実体あるものとして映っていた。
「ふむ、これは面白い」
外衣の前が割れて、中から小振りの腕が突き出される。皺ひとつない子供のような掌が持ち上げられ、ホンに向けられようとしたその刹那。
頭巾を被った頭がさっと別の方を向く。
「どうやら、おまえをどうするかは後回しのようだ」
ホンは目を剥いた。
なにかが、来る。
重い、とてつもなく重いものが、ありえない速さでこちらに向かってくる。
外衣の人影が小さく身をかがめたと思ったその瞬間、ホンは足元から突き上げるような衝撃に、思わず声を上げていた。腕の中の包みが踊る。
「うわっ!」
転ばないのがやっとだった。両足でなんとか踏ん張り、そのなにかが向かってくる方に顔を向けようとしたその時。
はるかに大きな衝撃がホンを襲った。
地面そのものに弾かれたように身体が宙を舞い、解けた包みを放り出しながら、ホンは地面に叩きつけられた。それに遅れて、芋や豆が周囲にばらばらと音を立てて落ちる。
「あ……う」
後ろ手に背中をさすりながら身を起こす。その目の前には、巨大な、見上げるほどの巨大な武者像が広げた両足を地面にめり込ませながら立っていた。
しゅうっと鎧の継ぎ目のあたりから、激しく湯気を吐き出しながら。
『逃しはせんぞ』
割れ鐘のように声を発したのは、その巨人の武者だった。
先細りの鉢に似た兜を被った頭をまっすぐ例の人影に向け、ぎろりと両の眼で睨みつける。
「はは、さすがは音に聞こえしウオル・タイガン。小細工など通用せぬか」
外衣の人影はそう応じながら、突き出した両の手の指先を素早く絡み合わせた。
ばん!
空気の弾ける激しい音と共に、いくつもの閃光が巨人に向けて飛ぶ。
とっさに耳を塞いだが、無駄だった。こういった類の
ホンは、物心ついた時から、ある種の音と光に囲まれて生きてきた。
他の人間には見えも聞こえもしないらしい。
どうやら、それが生き物の生命力に関係するらしいことに気づいたのは、それなりに長じてからのことである。
小虫はごくごく小さな、ほとんどささやきと言ってもいいほどの音しかたてなかった。
人間や獣たちは、その身の大きさや体調に応じた音や光を発した。小虫の類に比べれば
それらが健やかな時は音や光も穏やかで、病んでいる時には濁りが感じられた。不快な時は耳障りな響きやぎらついた光が混じり、断末魔に喘ぐ生き物からは、苦痛そのものが音や光の形をとって放たれた。
だが、いままで、ホンがこうして苦悶するほどの音を放つ存在はなかった。
「……なんだ、あいつら……は」
涙で霞む視界の向こうで、武人姿の巨人がさらに激しく蒸気を吹き出しながら、身を低く構えを取るのが見えた。
そのさまを呆然と見やるホンは、一瞬の間ののち、叩きつけてきた衝撃に思い切り叩きのめされていた。
「う……!」
呼吸ができない。
ホンは声も上げられず、首もとを押さえながら膝から崩れ落ちた。
例の人影の放った無数の輝きが、あらゆる方向から巨人に向かって襲い掛かったのは、まさにその刹那だった。
目も眩む輝きが、轟音とともに巨人を包み込んだ。
「む」
そうひとつ唸るや、外衣を纏った人影が、滑るように宙に舞い上がるのが見えた。
一瞬遅れて、そこに巨大な剣が叩きつけられる。ホンはその刀身を直視することができなかった。目も眩むような輝きを放っていたからである。
爆発と炎に包まれたと思われた巨人は、それを突き破りながらホンのすぐ目の前に飛び出していた。
一瞬、巨人はホンにちらと目をやったが、すぐに空中の人影に視線を戻し、手にした大剣を振り上げてその後を追う。
はるか上空に逃れた相手に、巨人が輝きを灯した剣を振るった。と、その切先から、剣のまとった力が刃のような形をとってまっすぐ飛翔していく。
人影の浮かんでいたあたりで、閃光が走った。
先刻に負けぬ衝撃が叩きつけてきた。だが、ホンの感覚はすでに麻痺し始めているらしく、頭が割れそうなほどの騒音と、胃の腑を突き上げるような吐き気を除けば、それ以上の苦痛は襲ってこなかった。
むかつきを堪え、肩で息をしながらようやく身を起こす。
巨人は、薄く煙が漂う以外なにもない空中をじっと見上げていた。
『くそ、逃したか……』
低くそう呟いて、巨人はきりりと剣を回して左腰の巨大な鞘におさめた。あれだけの巨大さにもかかわらず、鞘に滑り込む刃はわずかにも音をたてなかった。
そういえば、あれほどまでに巨人から発せられていた音が、一切聞こえなくなっていた。意識を集中すればささやき程度には聞こえてくるが、小さな畜獣かそれ以下の存在感しかない。
突然、巨人がホンに向き直った。
『何者だ?』
ホンは、ぽかんと見上げることしかできなかった。
巨人は品定めでもするようにじっとホンを見下ろしていたが、ややあって言った。
『どうやら、〈
気? 聞きなれない言葉に、ホンはわずかに眉をひそめることしかできなかった。
『その様子では、相当にあてられたようだな。よくぞ耐えられたものだ』
ホンの顔や衣服が、涙や涎でぐしゃぐしゃになっていることに気づいたのだろう。巨人の声音に気遣う響きがあった。
『それで、名は?』
ホンははっとわれに返ると、頭を擦り付けて平伏した。
「……アダカの
それだけを口にするのが精一杯だった。
そもそもホンには、目の前の巨人武者が何者かわからなかった。こんなに大きな人間がこの世にいるとは。
まさか神ではないだろうが、ホンのような人間には計り知れない存在であることに間違いはなかった。
『ホンか。覚えておこう。もし、おまえにその気があるなら、北都のオレインコでこのわたし、ウオル家のタイガンを訪ねるがよい』
ホンは目を見開いて顔を上げた。
オレインコと言ったか? それはたしか、このフラバルの国の都ではなかったか。話に聞いたことがあるだけで、生涯そんなところに行くことなどないと考えていた場所である。
「タイガンさま、ですか?」
『そうだ。その才がもし本物なら、そのように貧しい暮らしから抜けられるやもしれぬ』
ホンは困惑した。
「ですが、わたしには家族がおります。わたしの稼ぎがなければ、家族は暮らしが立ちません」
タイガンと名乗った巨人は歪んだ声で笑った。
『その才は、どの国でも必要としているものだ。認められれば、家族が何十人であろうとも養っていけるほどの俸禄が手に入るだろう』
「そ……それは本当のことでしょうか?」
ホンは思わず身を乗り出していた。
『待て』
巨人の右腕が背に回った。そうして、なにかをつまみ取り、ふたたびその腕がホンの目の前に差し出される。
巨人は指先を開き、手の中のものをホンの目の前に落とした。
『それを持って行くがよい。身の証となろう』
短剣だった。見たこともない、美しい鞘に収められている。柄は合わせ目のない磨かれた美しい木でできていて、柄頭に被せた金色の金具には小さな紋章が刻まれていた。
それがどれほどの価値を持つものか、ホンにもひと目でわかる。
ホンはごくりと唾を飲み込みながら、ふたたび巨人を見た。
『門番にそれを見せれば、たとえわたしが不在でもおまえを粗略に扱うことはないだろう……いや、できればこのままおまえを伴って戻りたいものだが、そうもいかぬ』
言いざま、巨人は斜め後ろを振り返り、低く唸るような声をたてた。
『いたな、ダハンめ。この〈ヤグ・アキフセ・ン〉の目を逃れられると思うな』
それだけ言い残すと、巨人はホンに背を向け、駆け出そうとするように大きく身をたわませた。
「あ、あの!」
その背中に向かって、ホンは叫んだ。
「オレインコの都には、あなたのような巨人がたくさんいらっしゃるのですか?」
巨人が、がくんと姿勢を崩したように見えた。
『〈
巨人の背中、ちょうど肩の間あたりにある大きな板が開かれ、中から小柄な人影が姿を見せる。
「これは人を乗せて戦うからくり人形だ。名をヤグ・アキフセ・ン」
澄んだ美しい声が響いた。無骨な革の上下に身を包んではいたが、その声の主はどう見てもホンとおなじほどの背丈の少女だった。
「さらばだ、オレインコで待っているぞ」
少女はそれだけ言い残し、素早く操兵の背中に姿を消す。ふたたびホンを吹き飛ばしそうな
ホンは、たったいままで巨人――操兵がいた場所を呆然と見やった。
どうやら加減してくれたらしい。
あの操兵が姿を消す直前、その中には先刻よりさらに強大な力が溜められていたはずだった。まともに解放されていれば、ホンはただでは済まなかっただろう。
「いったい……いまのは」
呟きながら、ホンは手の中の短剣に目を落とした。
これを売れば、どれほどの金額になるか。そんな考えだけが頭の中を回っていた。
気の才? 都での暮らし? そんなことはどうでもよかった。ただ、明日の食べ物を心配しなくていい。そんな暮らしが手に入りさえすれば。
ホンの眼が見開かれた。
背後に突然出現した気配に反応して振り返るのと、それが声を発するのはまったくの同時だった。
「フラバル・チョザンカ南方面騎士団筆頭、ウオル・タイガン……と言ってもおまえにはわかるまいが」
ひどく嗄れた声だった。
そこに立っていたのは、ついいましがた、あの操兵と戦っていた外衣を身につけた人影だった。
「それにつけても素晴らしいぞ。生まれついての才か」
ホンは短剣を懐に隠しながら、じりじりと後ずさった。
「あのタイガンの乗るアキフセ・ンさえ謀ったわたしの隠形を、こうもやすやすと気取るとは……世の中のなんと広いことか」
その時だった。さあっと風が吹き渡り、相手の深く被っていた頭巾が一瞬はためいていた。
その下からのぞいたのは、仮面、だった。
一度、祭りの時に芸人が顔に被って踊るのを見たことがある。転がっていた木皿を彫って真似をしたことがあったが、なぜだか親にひどく怒られ、捨てさせられた記憶があった。
当時はわからなかったが、いまはその理由がわかるような気がする。
目の前の人物の姿は、不吉をそのまま形にしたかのようだった。
被っている仮面そのものは、焼き物か、あるいは石を彫ったものか、無表情な人の顔を写し取っただけのものだった。彩色すらされておらず、形も卵の殻のようにつるりとした単純なものである。
にもかかわらず、ホンにはその仮面の放つ雰囲気がとてつもなく恐ろしかった。
「ほう、恐れを抱くか。これは本当に運に恵まれたようだ」
外衣の合わせ目の間から、細く、白い手が伸びる。
それを目にしたとたん、ホンの本能が悲鳴をあげた。仮面の人影に背を向け、あらん限りの速さで駆け出そうとする。
だが。
行く手に佇む人影に、ホンはたたらを踏んだ。
「どうした。逃げるのではないのか?」
いまや頭巾を跳ねのけ、仮面をつけた顔を隠そうともしない相手が、まっすぐホンを見返している。
「な、なにを――」
気圧され、ホンは思わず身を引いた。その目の前に、仮面の人影が身を乗り出してくる。
「タイガンの言った通り、おまえの持つその才は広く求められているものだ。
ホンの視界を塞ぐように、広げた掌が突き出される。その指先にぼんやりと灯る光を目にして、ホンは押し殺した悲鳴を上げた。ほとんど反射的に、懐に隠していた短剣を鞘から引き抜き、闇雲に切りつける。
音を立てて外衣が裂けた。のみならず、鋭い刃はその下にあった衣服も浅く切り裂いていた。
斜めに切り開かれた外衣と上着の間から見えたのは、畜獣の乳を思わせる純白の肌と、そして控えめに盛り上がったふたつの胸だった。
「なにを驚いている?」
動かないはずの仮面が、にやりとなったように見えた。
と、その仮面に手がかかる。すうっと外されたその下にあったのは、切れ長の目をした年端もいかない少女の顔だった。
「そんな、こいつ子供――」
ホンはその言葉を、最後まで口にすることができなかった。
するりと伸びた掌が顔を覆う。とたん、ホンの意識は、闇の底へと引きずり込まれていった。