きょうな、米こうてん。
車で取りに行った。
契約している県内の縁あ
る農家さんから直に分け
てもらっている。
大昔から米は米農家から
直に仕入れている。
玄米122kg。
ことしは今も小売りでは
店舗で5kgあたり銘柄米
が4900円程だが、同じ銘
柄米でも農家直売の玄米
だとかなり廉価に入手で
きる。
ただ、ことしは昨年より
も倍近く値上がりしたが、
農家さんも大変なので申
し出の金額を値切ったり
はしない。
うちでは米は食べる時に
都度コイン精米機で任意
の精米レベルに精米して
白米にして食べる。つき
立ての米は非常においし
い。
玄米は米袋のまま家屋内
にある米専用の大型冷蔵
庫にて保存し備蓄してお
く。
120kgあると家族で凡そ
1年間はどうにかもつ。
広島県の米は、田の使う
水の水系にもよるが、実
は結構おいしい。
米がかなりうまいなぁと
感じるのは宮城と新潟の
米だが(まじうまい)、
米どころとは呼ばれない
広島県の米も結構いける。
あと、意外なとこでは岡
山県。岡山の米はうまい。
岡山県の古い方言では米
のことを「まま」といい、
広島県三原市では「まん
まん」と呼んだ。
三原市では女性でさえ自
分の一人称を「わし」と
言ってた頃(笑
「うち」などという可愛
げのある中国地方の言い
方などしない。「わし」だ、
「わし」。女が(笑
「それはわたくしの物で
すよ」という時には「そ
りぁあわしのんぢゃ」と
言った。男も女も。男は
「わしのんど」という言
い回しが多かった。
私が小学生低学年の時、
幼稚園児のイトコが「そ
りゃあわしのんど。おみ
ゃーら東京へ、いね!」
とか言いながら瓜投げた
りしてた。「時代劇みた
いなしゃべり方するんだ」
と思った。
そのイトコはカタナ乗り
だったが、17年前にバイ
クで死んでしまった。
これは死んだカタナ乗り
のイトコが1982年8月の
高校の時に撮影した。
広島県は三ない運動強硬
推進県で、高校生は二輪
免許取得禁止という憲法
違反を犯している県だっ
た。イトコも高校卒業ま
ではバイクに乗れなかっ
た。
近年、最高裁判決での違
憲判断を受けて文科省は
三ない運動撤廃と早期交
通教育の重要性を全国の
高校に通告したが、未だ
に政府の指示さえ守らな
いない違憲措置を行う独
善的県や高校が多くある。
残念ながら私の東京の母
校もそれだ。教育を放棄
し、憲法を無視し、文科
省の指示さえもシカトす
る。生徒にそれで何を教
育するというのか。
高校は受験予備校ではな
い。
すっとこどっこいが学校
を牛耳っている限り、開
かれた教育の場は荒廃し
て行く。
現在の私の母校の高校な
どには絶対に入学しない
ほうがいい。
教育の場ではなく、受験
予備校と化している中味
スカスカの高校に変質し
ているからだ。
話を戻す。
私の都内文京区の高校時
代の担任は広島県呉市生
まれ育ちの早稲田一文出
の元ブント社学同叛旗派
だったが、呉市でも昔は
女性は「わし」と言って
いたそうだ。
それは1977年秋の現国の
授業中に語っていた。
担任は齢は私の10才上。
1969年早大入学だった。
私の高校卒業後に開成高
校に転勤し、程なく学年
主任から開成の副校長に
なっていた。
スヌーピーに顔が似てい
た(笑
私の人生で一番影響を受
けた人だった。
1970年代はテケトンなも
んで、私と同級生のサン
パチ乗り二人をその担任
は自宅に招いて奥様の手
料理で歓待してくれた。
ボトルを出してきて「い
けるクチだろ?どっちが
いい?」とダルマとリザ
ーブを並べて先生は破顔
一笑、というような具合
だった。
テケトンというか旧制高
校とかのノリだったんだ
ろうな。
もう50年近く前の話だ。
高2の俺らが担任教師と
3人で飲んで話し込む内
容は文学論と映画論だっ
た。あと実存主義につい
ての討論。
「映画は年間200本以上
は観ろ」と担任は言って
いた。まだDVDどころか
ビデオさえ無い時代だ。
フィルムセンターに行っ
たり映画館通いで観るし
かなかった。池袋文芸地
下や三百人劇場とかで。
高校の近所に映画館とい
う名前のJAZZ喫茶があっ
たのも幸いで、頼めばフ
ィルムを借りてきて上映
してくれた。我々の高校
の学内の隠密作戦グルー
プ(笑)はその店を根城に
していた。マスターは元
中大の叛旗の人だった。
私の大学進学後は激闘都
心部市街地デモの帰りに
明け方まで店で仲間数人
を「潜伏」させてくれた
事もあった(笑
マスターだけでなくお袋
さんまで一緒に起きてい
てくれて。
まあ、1970年代は大らか
であり、おおざっぱ。
バイクでダートでのドリ
フト走法を覚えたのは中
学の時に日大出の数学教
師が校庭で乗せてくれた
スズキバーディーだった
し、まあ昔は本当に大ら
かなもん。
というか、世の中全体が
こせこせしていなかった。
何もかもが大胆でダイナ
ミックだった。
ある種、無計画性の高い
世の中でもあったが、社
会全体像が大胆なイケイ
ケドンドンの現場主義で
あり、「ドーンといってみ
よう」という後先考えな
い大ブント的な時代でも
あったとも社会学的見地
からはいえなくもない。