【こんな時代が来るとは思っていなかった――故・角谷美知夫について】 中島らもが『アマニタ・パンセリナ』や、『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中で造り上げたにせ角谷君
先頃、角谷美知夫の没後2枚目のCD『‘87 KAD 3:4:5:6』が、WINE AND DINEより発売になった。その界隈ではかなりの反響を呼んでいるという。
35年も経って、眠っていた音源が新たに世に出たこと、そしてそれがアングラ界では評判になっているということは、亡くなった角谷君にとっては喜ばしいことだろうし、彼と親交のあった私にとってもうれしいことだ。でも、それと同時に、現在、ネット上に流布している彼のイメージを今さらながらに知り、違和感どころではない危惧のようなものを感じてもいる。
いわく、「精神病院を出たり入ったりしていた」「ギタリストなのにコードが弾けなかった」などなど。
それらは真実ではない。
どうしてこういうことになったのか、というと、どうやらそのほとんどは、作家の中島らもが角谷美知夫の没後に著わしたエッセイ『アマニタ・パンセリナ』、及び『バンド・オブ・ザ・ナイト』という小説のせいらしい。
『アマニタ・パンセリナ』には角谷美知夫が「カドくん」という通称(つまりは本名)で登場し、通常は事実に基づいたことが書かれているエッセイのはずなのに、かなりいいように脚色されていて、もう一つの『バンド・オブ・ザ・ナイト』のほうは、小説なので「ガド君」と少し名前を変えてはあるけれど、自伝的小説であるために、そこに書かれていることはおおむね真実だろうと読者にみなされているものだ。
特に『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中で描かれている、角谷美知夫をモデルにしたキャラクターは、戯画化されていると言ってもいいし、またある点ではいたずらにその人生の悲惨さが強調されてもいる。
その目的がなぜかは知らない。どうして、らもさんがそんなふうに角谷君を描いたのか。でも、もし、角谷美知夫を今、一介のアーティスト、あるいはミュージシャンとしてほんとうに認めるのなら、それらは正されなければならないだろう。
というわけで私も、34年ぶりに彼について語らねばならなくなった。
それには、まず長い前置きから始めたい。
【91年に『腐っていくテレパシーズ』のCDが追悼盤としてP.S.F.から出たいきさつについて】
角谷美知夫は1990年の8月に急逝した。31歳だった。
それを友人たちが知ったのは、少し遅くなってからだったけれど、亡くなったことを知らされた時、私はどうしようかと思った。
彼があのままの自分ではいたくなかったことは私は知っていた。表立った活動は沈静化し、つき合いのあった友人の数もその頃には減っていたけれど、音楽への興味を失っていたわけではなかった。しかし、突然の死とともに、彼の存在はこのまま人々の間から忘れ去られてゆくのかと思った。
でも、悲しむばかりでしばらくはなにも手につかなかった私は、ふと、彼が自宅で一人で制作していたテープがあるのを思い出したのだ。それは、通称レッド――南条麻人――が、P.S.F.から出してもらおうと言って角谷君に話を持ちかけておきながら、立ち消えになっているというものだった。そう、角谷君がぼやいていた。
それで、急遽レッドに連絡を取り、レッドのところにあるはずのテープを追悼盤として自分が出したいという旨を伝え、テープをこちらに送ってもらうことにした。送られてきたテープを聞いてみてから、私自身がP.S.F.の生悦住さん――生悦住さんも、残念ながらすでに他界してしまったけれど――に話を持っていき、CDとしてP.S.F.から出してもらえないかとお願いしてみたのだった。
もし、生悦住さんが首を縦にふらなければ、あの時私は自力ででも出すつもりだった。まだその頃の私はソロ活動も始めていなかったし、自主制作もしていなかったのだけれど。
追悼盤が出ることが決まると、次に私がしたことは、過去に彼が参加しているセッションのlive録音や、写真をかき集めることだった。たくさんの人たちに声をかけて、協力してもらった。
今は廃盤となってしまったそのCDの、ブックレットの真ん中のページにごてごて(としか言いようがない)ちりばめられた写真は、そうやって集めたものだし、収録曲も、彼が最後に遺したテープからだけではなく、そうやって集めたほかのミュージシャンたちとのセッションの抜粋も含めることにした。
それはみんな、私としては、彼にはたくさんの友人がいたことを、彼にわからせるためだった。一人ではなかったんだよ、と。
その中にはもちろん、中島らもも含まれていた。
今回のCDのメインになっている「‘87 KAD 3:4:5:6」は、打ち明けた話をすれば、その時にいったん中島家から送ってもらったものの、完成度の点から(やはり、習作であったので)私が使わずに送り返したもののうちの一つに当たる。ボーナス・トラックの、らもさんも参加しているセッションの「ケ・ス・ク・セ」は今回初めて聞かせてもらったが。
そうやって、自分としてはやっとの思いで、彼の遺したものをなんとか形にしたつもりだったのに、このネット社会の今となっては、そんな人の苦労にはおかまいなしに、YouTubeに追悼盤の曲が全曲上がっているわ、実際に角谷君に会ったこともない人がYouTubeで彼について語っているわ、Wikipediaにもいつの間にか項目が立っているわ、で、知らない間にずいぶんと、その業界では名の知られる存在になっていた。
それは、私としては、「なんとか彼の名を残したい」という自分の思いが実を結んだようなものなので、正直に言えばうれしいことでもあった。
彼はついにこうやって、ほんとうに人に語られる存在となったのだ。あの頃――90年代初頭――は、音源はレコードやCDという、実際に手に取れるものにしなければ世に出せなかったけれど、そのかろうじて出すことのできたたった1枚のCDのおかげで、今ではネットで多くの人が、彼の作ったものにアクセスできるし、彼を知ることができる。よくも悪くも、こんな時代が来るとは想像もしていなかった。
でも、それと同時にその人物評価がおかしなことになっているのに気がついたのだった。
【『アマニタ・パンセリナ』と『バンド・オブ・ザ・ナイト』をこれまで私が読んでこなかったわけ】
らもさんの『アマニタ・パンセリナ』に、角谷君が実名(「カドくん」という通り名)で出てくることは刊行当初から知っていた。
ある人が、角谷君のことが書いてある、と私に教えてくれたからだった。
そうか、らもさんは彼のことをエッセイに書いたのか、と思って書店で手に取ってぱらぱらとめくってみた。
すると、
“(カドくんが亡くなったのを)知ったのは、つい最近になってからだ。レコード会社の人が、彼の追悼CDを出すので、何かうちにテープが残っていないか、と言ってきたのだ。僕はカドくんの残した大量のテープを送った。”
と書いてあるのが目に入った。
中島家に電話で彼が亡くなったことを知らせたのは、そのとおり私だった。でも、これは事実とは言えなかった(小説じゃなくて、エッセイなのに)。
私はレコード会社の人じゃない、P.S.F.だって、とてもレコード会社と呼べるような商業主義のところではない。
私が電話で話したのは奥さんのミイ(ミー)さんのほうだったので、らもさんはよく理解していなかったのかもしれない。でも、言うなればここは、「彼の死を悼んだ友人」とでもすべきところだろう。
それに、テープを送ってきてくれたのはらもさんではなくて、その奥さんのほうだった。確かに差出人は中島らもの名前にはなっていたけれど、中に入っていた思いやりのある手紙はミイさんからのものだった。
それなのになんで、自分で送ったことにしてあるのか、そして、なんでこんな、営利目的でアルバムを出そうとでもいうような人たちが、あつかましいお願いをしてきたことになっているのか(しつこいけれど、エッセイなのに)。
私はそれ以上その本を読むことができなかった。
以来30年間、『アマニタ・パンセリナ』には私はいっさい手を触れずに今日まで来た。
でも、今回新しいCDが出るに当たって、発行者の森田さんから、『バンド・オブ・ザ・ナイト』というまた別の、角谷美知夫がモデルとして出てくる小説があることを教えてもらい、さらに彼についてなにか書いたのか、と思って、意を決してそれを読んでみることにした。
そうしたところ、故人をよく知る者としては、いくつもの腑に落ちないところがあった。
なので、いったいその前の『アマニタ・パンセリナ』ではどうなっていたのか、と思い、そちらも初めて読んでみた。
どうにも話がおかしいことになっていた。
私は関西での彼の人間関係は深くは知らないけれど、らもさんとほぼ同時期に彼と知り合っているようなので、彼から直接聞いて知っていることもここには書かれている。でもそれ以上に、とてもほんとうにあったとは思えないこともさも真実らしく書かれている。
中島らもはどうやら、『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中で自分でそう書いているように、(元々は)“広告屋”だから、話をおもしろおかしくするためなら平気でうそをつくのらしい(つまり、エッセイの中でも)。
実際、奥さんのミイさんも、その自伝の中で、らもさんが書いたことと、事実との食い違いを指摘していたりする。
ということで、以下、本題に入ります。
【その1、角谷美知夫は精神病院に出たり入ったりなどしていなかった】
『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中では、角谷君がモデルであることがすぐわかる「ガド君」のことを、
“ガド君は故郷の宇部市にある精神病院と「シャバ」との間を往ったり来たりしているほんものの分裂病者だったのである”
としていて、
エッセイであるはずの『アマニタ・パンセリナ』の中でも、
“彼は分裂症で、病院を出たり入ったりしているパンクスだった”
としているけれど、そんなことはない。
確かに精神病院に入院したことはある。
でも、それは私の知る限り、1回だけだ。もちろん私の知らないところで入ったということも、理屈としてはあり得る。ただ、彼の生前の言動からしてやはりそういうことはちょっと考えられない。
角谷美知夫が精神病院に入院したのは昭和56年――1981年――の秋、たぶん10月だった。
なぜ「たぶん」と言うかというと、その年の9月の下旬には、帰省先から東京に住んでいる私に電話をしてきて、「山口に帰っても東京にいても変わらない」とぶつぶつ言っていたのであり、次に10月の半ばに私のほうから実家に電話をしたら、お母さんから「入院した」と伝えられたからだった。
退院したのは、同じ年の12月半ば。特にここには書かないけれど、この時は退院予定日を前もって私に電話してきたから日づけもはっきりしている。そしてその数日後、冬のさなかにアパートのある高円寺に戻ってきた。高円寺にあったパンク・ニューウェーブ喫茶の「BOY」で会おうと彼に言われ、私はそこに迎えに行った。
この時の、行きも帰りもらもさんのうちには寄らなかった。
最初、しばらく山口に帰ろうと思う、と言われた時に、大阪で立ち寄るかもしれない先として、中島家の電話番号を教わった。
角谷君のアドレス帳には、「らもん・ミイさん」として、二人の家の電話番号が書いてあった。ついでに、ミイさんといっしょにお風呂に入っている写真も見せてくれた。さらに、言わなくてもいいことまで教えてくれた。それはなにも、私がここに書くまでもない。
それで角谷君が東京を発った日、そろそろ大阪に着いたかな、と私が電話してみたら、らもさんらしき男の人が出て、
「うちに寄るかもしれないと言っていたけど、まっすぐ山口に帰るそうです」
と言われたのだった(標準語だったと思うけれど、正確な言い回しは覚えていない)。
私は、なんだ、と思って電話を切った。
その後しばらくしたら、彼は実家の近くの病院に入院してしまったというわけだ。
「なんで入院なんて……」(確かに、出会った時からネガティヴなことを言い続けていた人だったけれど)と、私が電話口の向こうのお母さんに言ったら、
本人がそうしたいと言うからもうしかたがなかった、といった口ぶりだった。
でも、代わりに病院の電話番号を教えてくれたので、今度はその病院にかけてみた。そうして電話口に出た彼に、迷わず「じゃあ、お見舞いに行くよ」と言ったら、じゃあ、外泊許可を取って、君がこっちに来る日には家に帰るよ、と言われたのだった。
なんじゃ、そりゃ、だった。そんなに簡単に外泊許可が出るのか?
やっぱり、大したこともないのに好きで自分から病院に入ったのだった。
むろん角谷君は、入院した後で、おれは入院したんだよね、とあちこちに電話をかけまくっただろうから(そういう人だった)、らもさんも当然それで知ったに違いない。でも、何度も出たり入ったりしていた、というのは、らもさんの「創作」としか思えない。百歩譲って記憶違いか、なんらかの思い込みなのか。
角谷君を、小説の中でもエッセイの中でも、“正真正銘の分裂病患者”に仕立て上げたのはなぜなのだろう。
悪いけれどそれは、私には「ヘルハウス」と呼ばれたらもさんの自宅兼ジャンキーの巣窟の、ハクづけのためだったような気がする。
【その2、角谷美知夫にこんな狂暴性はなかった】
そのジャンキーの巣窟から、
『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中では、
ラムさん(小説のほうは、いちおう本人も名前を変えてある。でも、わかりやす過ぎる)は、「ガド君」といっしょにある日、東京にやってきたことになっているが、
“陽の光など薬にしたくてもできないようなどん詰まり”
にある、彼の薄暗いアパートの四畳半に案内されたところ、
隣の部屋から聞こえてくるお経の声にいら立った「ガド君」が、
“「ええい、うるせえな、あの婆あ」”
とののしり、
“「こらあ、殺してやろうか」
叫ぶなり、ガド君は裏に仏壇のあると思われるあたりの壁を蹴りとばした。”
と書いている部分があるけれど、これは完全に「フィクション」であることがすぐわかる。
なぜ、フィクションだと言い切れるのかというと、
このモデルになっている角谷君のアパートで、お経が流れてきていたのは隣の部屋からではなくて、通路をはさんだ向かいの部屋からだったからだ。
しかも、その場でお経を読んでいるのではなく、大きな音で流れてくる読経のテープだった。
住んでいたのはお婆さんじゃなくて、せいぜいでおじいさんだったのじゃないだろうか。
そのテープの音が流れてくることに、事実、角谷君はその頃、文句を言っていた。けれど、向かいの部屋のドアを、自分の部屋にいながら蹴りとばすことはできない。
そんなふうに暴力をふるうところなんて、私は見たことがない。ましてや年寄りに向かって。それに、「殺してやろうか」なんて人を脅すような言葉も聞いたことがない。
その先でも、この小説の中では、
“ガド君は頭を抱えたまま怒りと狂気でぶるぶる震えている。”
とオーバーな描写があって、まるで典型的な狂人のように描かれている。
この、らもさんの言う「狂気」ってなんだろう、と私は思う。隣(向かいなんだけど)の部屋の音に耐えられないこと? 角谷君はその頃、いわゆる、「発作を起こす」とか「錯乱する」とかいうようなこともなかった人なんだけれど。
らもさんは、角谷君のあのアパートで見聞きしたことを、こんなふうに重症の精神病者にふさわしい話に作り替えたのだろう。
実際に彼を知らない人なら、ここを読んで、きっと角谷美知夫とはこんな狂暴な人だったんだな、と思うに違いない。
そして、その部屋が彼をおかしくさせたかのようにも書いているが、
私が見たところ、角谷君がおかしくなったのは特にあの部屋のせいではない。私自身はむしろ、雰囲気のあるすてきな部屋だと思っていた。
ちなみに余談だが、このアパートは、82年には早くも取り壊された。
更地になった跡地を見に行こう、と角谷君に誘われたけれど、気が乗らなかったので断った。
私の代わりにいっしょに行った女の子が、
「ここにジャガイモを植えよう!」
と、更地を踏みしめながら角谷君がふざけていた、と教えてくれた。
つまり、ソヴィエト(当時)の主食なんでね
(わからない人は、追悼盤のブックレットを見てください。って、もう廃盤だけど)。
【その3、角谷美知夫はそんなにバカじゃなかった】
さらに、小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中では、
らもさんは「ガド君」に「ダメだっ!」ばっかり言わせていて、それを合いの手(ギャグ)にしてテンポよく物語を進めていっているし、『アマニタ・パンセリナ』の中でも、「ダメだっ!」と叫び続ける彼を
“ようよう寝かしつけ”た、
とかえらそうなことを書いているけれど、
実際の角谷君が、そんなに、ダメだ、ダメだばっかり言っていたかというと、もちろんそんなことはない。
ただ、追悼盤に収録した『現実』という曲が「もうダメだ」、で始まるし(あれが一番聞くのがつらい曲)、私がこんなことを言ってもなんの説得力もないかもしれないけれど、でも、こんなに「ダメだ」しか言わなければ、人とつき合えるわけがないでしょ。
他人のliveとなればおとなしく見ていたし、映画も一度座れば最後まで立ち上がらずに見ていましたよ。
確かにらもさんが『バンド・オブ・ザ・ナイト』の舞台とした、80年から81年のあたりは、
彼は分裂病(念のために断っておくけれど、現代の言い方では統合失調症)的な自分を他人にアピールする側面が強かったかもしれないけれど、
それとはまた別に直観的に物事を見て、なにかと鋭い発言をする人だった。
『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中のキャラのようにどもったりもしなかったし、気弱でもない。
むろん、本も読んでいた。
私が高円寺の、その――彼は自分の住んでいたところを、高円寺とも阿佐ヶ谷とも人に言っていた――
“湿気の多い、ほんとうにキノコの生えそうな四畳半”
ということにらもさんがした、彼のアパートに初めて行った時、
部屋は雑然としていたものの、ラジカセや簡素なレコードプレーヤーのほかに、ちゃんと本棚(いや、カラーボックス?)があって、しかもけっこういろいろな本が並んでいた。
シュルレアリズム小説や、ロートレアモンの『マルドロールの歌』や。
それで私が、「あ、こんな本読むんだねえ。あ、これも?」と意外そうな声を上げて背表紙を読んでいっていたら、
角谷君がこっちを向いて、
「君、ぼくをなんだと思っていたの?」
と苦笑いしながら言ったのだった。
ごめん、ただのパンクとかやってるバカかと
(と、思っていたのは最初は私も同じだが、すぐに修正された)。
【その4、五弦ギターの真実】
これが一番問題となるところだが、『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中で、
“ガド君はおれの手元を見て言った。
「いいなあ、ラム君はコードが弾けて……」
おれは目が点になった。
「え? ガド君はコードが弾けないの」
「うん、弾けない。ずっとノイズでやってきたから」”
という下りがあるが、これはこっちのほうが読んでいて目が点になった。
しかも、エッセイであるはずの『アマニタ・パンセリナ』の中でも、
“家で僕がギターを弾いていると、カドくんはよく言った。
「いいなあ。コードが弾けて……」”
としている。
こんなことを言うはずがない。しかもそんなに何度も。あり得ない。でもこう書かれているために、現在では、そうだったんだと信じている人たちがいる。
そして、「カドくん」及び「ガド君」が持っていたという、ペグの一つ取れた、“ぶっ壊れた”「五弦ギター」。これでチューニングもせずに弦をたたきつけるだけの奏法しか、「カドくん」及び「ガド君」は知らなかった、とらもさんはまことしやかに書いている。
これがなにを言っているんだか私には最初、さっぱりわからなかった。
念のために、彼の古い写真を引っ張り出して見てみたら、確かに抱えているギターのペグが一つなくて、弦が一本張っていなかった。
あ、これのことか、とは思ったけれど、そんなこと今まで一度も気にしたことがなかった(これは私がちょっと、いや、かなりマヌケ)。
だって、これでliveをやっていたし、私の目の前で、ベッドに座ってギターをじゃかじゃかかき鳴らしていた時だってなんの不自然さもなかったけれど?
だいいち、
「冬里はコードが弾けるけれど、おれは弾けないから……」
なんてくよくよしたことを言ったことも一度もない。
というわけで、ここはらもさんよりも古く、70年代から角谷君と友だちで、いっしょに演奏もしてきた工藤冬里に電話で聞いてみることにした。
「角谷君のあの五弦ギターって……」
「あ、あれはワザと切っていたの」
やっぱりね、という感じ。
切っていたのは一番細い弦だったから、使いたくなければ使わなくてもすむようなものだ。
冬里君によると、ディストーションをかけて、ギャング・オブ・フォーのジャッジャッとした塊みたいな音を出せるようにそうしていたんだそうだ。
もちろんコードも弾けたし、どんな曲でもカバーをしようとなったら、エイトビートでこなせたという。
それを、ギターを持ってらもさんの家にやってきたという角谷君が、らもさんに話さなかったとは思えない。
らもさんはどうして、角谷君がギターを弾けなかったことにしたんだろうか。
自分の書いたものの中で、角谷君にいったいどんな役をさせたかったの。
コードもなにも知らない、パンクキッズ?
それを、らもさんがやさしく音楽の世界に導いてあげたというわけ?
ここは小説として美しい下りになっているところなので、いたずらにケチをつけたくはないものの、土台が土台だから言わざるを得ない。
東京のアングラシーンをなめるな、だ。
こうやって、ひとつの事実を基にして話をでっち上げるから、始末に悪い。なにがうそでなにがほんとだかが、彼を実際に知っている人にも見分けづらくなっている。
そもそも冬里君も私も彼が「モヒカン」にしているところなんて見たことがない(関西仕様だったのか? 1回や2回、おもしろがってやってみただけじゃないの?)
だいいち、「ハードコアパンク」なんて角谷君はやっていなかった。
それに、「腐っていくテレパシー」じゃなくて、腐っていくテレパシーズだ(これら、カギカッコでくくったところはすべて、エッセイである『アマニタ・パンセリナ』の中での、らもさんによる「カドくん」についての紹介の仕方)。
完全に間違っている!
【最後に――誰のための小説か――】
しかし、語られる存在となった時、そこには必ず語る側の偏見や誤りがある。
そして以後は話に尾ひれがついて、おもしろいように語られていくのだろう。
かつて私が追悼盤につけた解説も、
自己投影の激しい、関係妄想に満ち満ちたものだった。
でも私にはその自覚があったから、彼の書き文字で、それに対する反論を横につけ足しておいた。
そして、その末尾には、
自分のこのような文章が、肉親の方々や、彼を知るほかの人々の胸に残るイメージを汚してしまったらすまなく思う、という断り書きもしておいた。それでもやはりある人たちの心を傷つけたし、批判もされた。一部の人からの信用も失った。
ただ、私は彼の生きざまを伝えようとしたら、ああなった。
そして、常に厳し過ぎる自分のこの視線が問題だ。
でも、らもさんはどうなのか。どうして著作の中では角谷君をいたわるような書きぶりでありながら、こんなに彼を貶めるようなことをし、あることないことつけ足したうえで、自分よりちっぽけな存在として描いたのか。
『アマニタ・パンセリナ』も『バンド・オブ・ザ・ナイト』も、らもさんの見事なほどドラッグまみれの生活をつづったエッセイと小説で、その中でらもさんがもし角谷君になんらかのシンパシーを抱いていたとしたら、それは同じミュージシャンとしてではなく、同じジャンキーとしてなだけだ。そもそもここには彼への敬意がまったくない。
そしてジャンキーのたどりそうな悲惨な末路を、自分の代わりに「ガド君」及び「カドくん」に作品の中で負わせた。
もしかしたらそうなるのは自分だったかもしれない、というニュアンスで、
『アマニタ・パンセリナ』の中では、
東京のアパートで一人で亡くなったことをことさらに強調し、
『バンド・オブ・ザ・ナイト』のほうでは、
“ある日、死んでいるところを大家に発見された。”
という話にまでした。
確かに、彼は病床で亡くなったのではない。
でも、らもさんが書いているように、大家さんに発見されたわけでもない。
それはいかにもらもさんが好きそうな、らもさんが「想像した」彼の最期だ。
ありきたりなドラマの顛末とでも言おうか。
いろいろと話を捏造しておきながら、想像力はそこ止まりだったようだ。
注意深く『バンド・オブ・ザ・ナイト』を読めば、ここがらもさんの創作であることはすぐわかるはずだけれど――なぜなら、この物語は1980年の年が明けたところから始まっていて、どう見ても物語の中で彼の家がジャンキーの巣窟ではなくなったのはその1、2年後なので。角谷美知夫が実際に亡くなったのは、それよりずっと後の1990年だから――これを真に受けて、世間には角谷美知夫の最期についてそのとおりに書いている人までいる。
この小説が自伝的小説であり、事実を基にし過ぎているばっかりに。そして、小説なのに、実際の名前に名を寄せ過ぎ(これでは、名前を変えた意味がない)、実際の故郷の名称もそのまま出しているために。
これは実在人物をモデルとした小説の書き方としてはかなりまずいのではないだろうか。
でも、今ならわかるような気がする。
なぜらもさんが、『アマニタ・パンセリナ』の中で、レコード会社が無機的に自分に連絡をしてきたかのように書いたのか。
「ガド君」および「カドくん」(これ、角谷美知夫じゃないよね、やっぱり。どちらも、らもさんに都合のよいキャラクターになり過ぎている)には自分たち以外に、彼のことを心から思う友人がいなかった、ということにでもしたかったのだろう。
私が追悼CDに彼の友人たちをできるだけ呼び寄せようとしたのとは逆さまに。
それは故人ではなく、自分たちを慰める行為だ。
角谷君は果たして、こんなふうに書かれて喜んだだろうか。
改めて問うてみるまでもない。
私は、『アマニタ・パンセリナ』の中で、すでにあのように角谷君が書かれていたのを30年も放置してきて、彼にすまないと思った。
あの時、くじけずにその先を読んでいればよかった。でも、たとえあの時気づいたとしたって、どこでなにが言えただろう。P.S.F.の『G-Modern』ぐらいでなら書かせてもらえたかもしれないけれど、話があまりにマイナー過ぎる。
だけど、今はネットの時代で、誰でもどんなささいなことでも自分で言うことができる。だから私はここに書く。
中島らもの著作から角谷美知夫を知ろうとしても無効だ。
あそこにいるのは、らもさんによって造り上げられた、らもさんの華々しきジャンキー・ライフを彩るひとつの駒としての角谷君にすぎない。らもさんは結局、そんなふうにしか角谷美知夫を見ていなかったと思われる。
私は、故・角谷美知夫のためにこれを書いた。自分のためじゃない。誤った風評が少しでも改められることを願っている。
付記:ミイさんにはなんのわだかまりもありません。その節は大変お世話になりました。改めまして、どうもありがとうございます。
付記2:気力がもったら、角谷美知夫の入った精神病院を訪ねた日のことも改めて書きます。それは彼が、病院に「入れられた」わけでも、そこで「薬漬けにされた」わけでも、ましてやそこが監獄のようなところだったわけでもないことを示すためです。
ほんとうに、どうしてそういう話にしたがるのでしょうかね。
そんなに精神病者が珍しかったのでしょうか。


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