第二幕 雷獣一筆

 時は火の暦八七八年の三月二十日である。


 画代一筆斎がしろいっぴつさいは、金色の髪を海風に踊らせながら絵を描いていた。

 見た目は女。上背は五尺四寸ほどで、種族はおそらくハクビシンを由来としたもの。種族的には充分に頷ける体躯である。女にしては──種族的には──やや大きく、男にしては、少し小さいくらいか。

 耳にはハクビシンらしい、丸みを帯びた耳。前髪はひとふさだけ、雲のように白く染まっているのが特徴的だった。


 和深の地には実に様々な妖怪がおり、そして、かつてその妖怪と交わりを持った人間が多い。

 そのため、体躯のばらつきが激しい。なので一概に、この者を小柄か大柄かとするのは難しいが、純血の人間たちの平均とされるおおよその身丈──五尺三寸(一五九センチ)をそれとするならば、背は少し高いと言えるかもしれない。


 この者が男であるのは、風に揺れた和装の襟元からのぞく、鍛えた胸筋で知れた。ただの絵師というには、かなり、鍛えていると見える。

 そして脇に置いてある薙刀──矢張り、この男も「そう」なのだ。


 彼は宵闇無明流派の薙刀術の使い手である。絵師とはいえ、薙刀を持ってはならぬという決まりはない。むしろ、座卓は昨今の情勢を鑑み、自衛手段の研鑽を推奨。

 これは、一方で民草の反乱の危険を招く恐れもある。しかし座卓は、ある神を擁しており、それによって抑えられると自信満々であった。


 無論だが、一筆斎はそのようなつまらないことに時間を割くつもりなどない。妖怪は基本、寿命がないと言えるほどに長寿である。けれど、病に倒れ、凶刃にやられ、事故に見舞われれば、あっけなく死ぬのだ。そういう意味では、皆、平等だ。


 描いているのは波打ち際の岩壁である。その岩壁の上には一軒の、白亜のごとき診療所があり、そこには彼の親友が入院していた。

 絵師の親友の名は、澪桜みお。女のような名であるが、男だ。恐ろしい目に遭い、眠っている。いつかは起きると信じている。だが、彼を診た医者どもは、

 ──「叶わぬ希望です」

 とほざく。


(ふざけやがって)

 ヤブ医者どころかたけのこ医者もいいところ。

 起きる。起きるに決まっている。

 筆が震え、しかし皮肉にも、波の躍動感を際立てる。


 この坂東──かつて恵戸えどと呼ばれたこの地、そして、天海郷をはじめとする周囲の土地で一筆斎の名を知らぬ絵師・絵画好きはいまい。

 それほどまでになった彼の懐は随分と潤っている。しかし、その大半を親友の治療費に充てていた。


 ときに、巡査の月給がおよそ四円。太政大臣だじょうだいじんが月給八百円である。

 この一筆斎の絵は、時に、一服の絵画が十円(十万日本円)で売れることもある。無論、絵とは思い立って描いて、それで一呼吸の間に書けるものではない。

 長ければ何年もかけ、ようやく一枚描くこともある。無論、その間に書いた手なぐさみの絵が意外と売れることもあるが──。


 一筆斎は筆を走らせた。微弱な力の加減で波の強弱を乗せ、黒い墨汁を筆に渡らせ、流れるように描く。

 幼い頃からこれが好きだった。絵を描いていれば、その時だけは浮世のことを忘れられる。己はこの天地と同じ、無我になれるのだ。

 だから、絵を描き終わった後はどこか虚無のようなものを感じる。それは、己の無力を突きつけられるような、うちから食い破られるような無の感情である。それは決して、天地無我の境地とは違う。


(二度も郷を捨てた俺が、今更、どこで何を成す)


 ここがダメなら新しい場所で頑張ろう。そう言って、本当に頑張れるだけの胆力を持つ者が何人いる?

 そのような感覚を、一筆斎は「非凡」と称する。そして、非凡なものを持ち合わせているのであれば、元いた場所で自学し、出世するはず。そもそもの逃げ癖が、腰の引けっぷりが、新天地など甘ったれた戯言を生み出すのだ。


 

 

 


 蘇るのは姉の声。悲痛と、悲嘆と、呆れとわずかな憐憫。

 場所も、ひとも裏切った己が、今更何を……。


(だから、澪桜だけは救うと決めた)

 ──こんな、つまらぬ絵で?

 うちなる己が嘲笑うのが聞こえて、一筆斎は手にしていた紙をぐしゃりと握りつぶした。


     〓


 本名は尾張光希おわりみつきと言った。豪族の末裔で、雷獣一族の一派、尾張家の嫡男である。元は、燦仏天系の寺に使える武僧──いわゆる僧兵の家柄である。

 僧兵とは寺領を守護し、仏像や、仏典を守る者のことであり、転じて周辺の土地の警備、治安維持を担う者である。神社でいう武の神使に近い。

 尾張家は元旦寺がんたんじという地元の寺領に控え、代々、僧兵として燦仏天の仏天に仕えてきた。


 雷獣系一族はこの和深にいくつかあり、その中でも双璧を成すのが元旦寺の尾張、そして常闇之神社の大瀧という一族だった。

 技の尾張、力の大瀧とも称される。 


 つまるところ一筆斎とは芸名のようなもの。しかし、今ではそちらの方が通りが良いし、なにより都合がいい。

 本名を知られると面倒なのだ。あれこれ詮索してくる、無遠慮な輩が多い。


 光希は坂東の街を歩いている。千代田という土地だ。そこには無血開城した恵戸城がある。けれどもその天守は存在しない。元々はあったが、ずっと昔の大火で焼け落ちたらしい。

 その際の幕閣の一人が、「天守など泰平の世においてはただのかざり、今は民の暮らしを立て直すべし」として再建を後にしたのである。

 のちに再建の話もあった。とくに、十一年以上前のきな臭い頃には、より強固な要塞と化すように──とする軍議もあったと聞く。

 結局、武装費用やら兵の捻出のためにと幕府の埋蔵金は消えていったらしいが……。


 そういった理由故に恵戸城には天守がない。

 そして討幕から十一年を下手今現在は、海鳴水凪喪姫様うなりみなもひめさまがお住まいになられるご神域であらせられる。

 そのため灌漑工事で海の水が城内へ引かれており、海軍の小舟が常に回遊、目を光らせていた。もっとも、凡百な兵を掻い潜る程度の者に、神の弑虐が可能かと問われれば──些か疑問ではあった。


 光希はご神域を見上げる。現在、天守の再建が始まっていた。

 神様のご要望であらせられる。帝王学の一つであるが、時に、華美で壮麗、そして大きなものというのは権威に直結し、それはすなわち、要らぬ反乱の芽を先んじて叩き潰すのに役立つ──と仰せられた。

 それは真に的を射たり。民草の中にも納得するものは多い。そのための、学校制度の整備でもある。

 幕府が瓦解し、御一新した理由もそこにあった。すなわち、見誤ったのだ──民草の力を。


「どうして澪桜を助けてはくれないのです」

 その神様へ出た言葉は、ちっぽけな、けれどものっぴきならぬ恨み言であった。

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