第五幕 出立前夜
「妾は夢を見た。ただのまぼろしか、正夢かはわからぬが、妙に記憶にこびりついてな」
天幕の向こうから、そのように仰せになられるのは我らが郷の主祭神・
天嵐と豊穣の二面性を持つ荒神。もしくは、豊穣神。両方正しい。神とは、二面、あるいは、多面的である。一つしか司らぬ神などはおらず、みな、何がしか異なる側面がある。
戦となれば黒雲を背負い、龍女の姿で化身し、雷撃を持って数万の軍勢を一瞬で舐め尽くし炭に変える恐るべき力を振るう。
一方で、荒れた大地を雨で潤し、雷で耕し、豊かな土地へ戻す。この土地の山々が、青くしげるのはそのためだ。
神代の世において、天慈颶雅之姫様はあろうことか己の祖である
その凄まじい戦ぶりが、現在の山岳郷の独特な地形を作ったとされている。
天慈颶雅之姫様の豪雨と天雷と、常闇様の因果さえ捩じ曲げる神の力が激突した結果、この地は歪に隆起し、陥没し、剣山の如き地形になったと──。
噂では、見かねた
いずれにせよ。
聞くだに恐ろしい戦いである。
武神、戦神。そう呼ばれる猛疾様でやっと止められたのであって、並の神々では止めに入るだけ無駄だろう。下手したら、術の流れ弾で釣り銭がたんまり帰ってくるくらい、死んでいたかもしれない。
その当時に、ヒトがいたかどうかは定かではないが──少なくともそれを語り継ぐ下級神はいた。
──天慈颶雅之姫様の機嫌を損ねることは、すなわち、周辺の土地の検地と測量のやり直しを意味する。
年寄りは、そう語る。
……つまり、地形が変わる、ということだ。
ああ、恐ろしい。
「北東、
「……
「如何にも。野人どもが
空に黒い雲が湧いて、低く、太鼓のような音を唸らせる。
「……しかし、如何に野人といえど、人の持つ力を侮ることはできぬ。今、
おそらくこれは、六年前の玉兎事件──
そこに動乱が迫っている──ということは、遠からず、何か起こると見て良い。
現状、天海郷の郷長……現在の言葉で言えば「内務卿」だが……その人物は妖怪・神仏に親しい考えを持つ保守的な人間である。
大久保卿──内務卿
彼が舵取りをしている間は、よほどのことはないように思えるが。
しかし、その上で動乱、というならば──よもやそれは、
「内務卿暗殺……!」
「さすが、噂に違わぬ武の申し子。智の軍議に出るだけあり勘が良い。そうだ。……警告は投げておいたが、とはいえそれで屈するならば、長などやらぬよ」
神楽鈴が、じゃあんっ、と鳴った。
「神命を下す。山を降り、天海郷へ渡り、来る動乱に備えよ。大挙して行くことは許さぬ、護衛は一人だけつけて良い。仲間は、信に足るものを現地で作るべし。五月一日までに、東海道を上り天海郷の東の都、坂東へ入れ」
「は──!」
なつめは、身を丸めるように、深く深く、頭を下げた。
〓
和真は、夕刻頃に仕留めた一抱えほどはある大きなイワトビウサギを捌いてモツを抜き、串にさし、囲炉裏で焼いていた。
脂がぽたりと落ちると、囲炉裏の炭が赫く、熱される。
換気のために開けられた天井の煙突からは、狙い通り、煙が抜けていく。
小屋の中にはなめしておいた皮で作った毛皮の外套の防寒着やら毛布やらがかけられ、壁には弓が立てかけられ、太刀掛け台には、一振りの四尺刀が置かれている。
狩りに使う渋い緑色の鎧は手入れをし、しかと、乾燥させつつ保管していた。しけらせると、かびたり錆びたり、いいことが一個もない。
外はもう真っ暗で、満月が薄雲にかかっている。金の月明かりに照らされる、ボロの小屋。
和真の家だ。実家に居場所がない──いたくもないから、ここに住んでいる。建てたのは和真だ。
木を切り、切り揃え、土に溝を掘って縄で寸法を取り縄張りを取って、そこに釘を使わずに建てていった。
丸太に作った凹凸を嵌め込むやり方だ。そのほうがいらぬ部品を作らずに済むし、単純な作りだから見た目以上に頑丈である。
隙間には粘土質の泥を塗り込み藁を被せた。革張りの屏風を置けば、だいぶ隙間風を防げる。
イワトビウサギは、和深全域で見られるオオトビウサギの仲間である。北国ではユキトビウサギ、南ではスナトビウサギとも呼ばれる適応をしている。
運動量が多く、筋肉がしまっている。そのため筋っぽいが、歯応えがあり、食べ応えは抜群であった。
抜いたモツは鍋に入れて味噌で煮込んでいる。
鍋には山菜、キノコ、
天狗それぞれで味付けも具材も違うが、砂飯の団子を入れれば、天狗鍋と定義している。
肉食天狗は肉を入れ、菜食天狗は山菜や穀物を多く入れるのが特徴だった。
昨日獲った鹿の皮は、日が変わる前に内側の肉をこそげおとして処理。こちらのイワトビウサギも同様だ。
剥いだ皮に引っ付いた肉は、さっさと処理しないと腐って、皮が台無しになる。どうしてもその日できないのならば、塩揉みし、冷暗所においておくしかない。
そのように処理した皮は、天日で干す。諸々の処理が終わったら、里で売る。
和真は実家に居場所がない。母の登美が亡くなったのは、もうずっと前のこと。
父は家にいていいというが、兄弟が、それを許さないという顔を──口にこそしないが──しているのだ。
そのような環境で暮らせるほど、和真という男は図太くはなかった。
なつめは帰ってくるのだろうか。それだけが気になっている。
己は、彼女に鍛えられた。狩りの──生き抜く上の一切の基礎基本は、彼女から学んだ。なつめが行脚に出る際ついていくと言い張ったが、「山に師事せよ」と言われると、逆らえなかった。それが己への試練であるように感じられたからだ。
(なぜこんなにも寂しいんだ)
山での暮らしは悪くなかった。兄弟の目を気にせず自由に過ごせる。要らぬしがらみを遠いところへ捨て去ることができた。
けれど、己の肌が、皮一枚引き剥がされたように痛んだ。他者の体温というものを失い、そのせいで、自分の温度さえわからなくなった。
山に一人でいると、己が、妖怪としての鬼ではなく、邪鬼や悪鬼の類に堕ちていく錯覚さえ味わった。
そして、寂しい時にいつも浮かぶのはなつめだった。
その時、ゴンゴン、と家の戸を叩く音がした。
己の心の弱さゆえの幻聴かと思ったが、再び戸を叩かれる。
「誰だ」
和真は脇においてあった
神がおわす郷にも、夜盗山賊の類は出る。
「無愛想ね。師匠が尋ねてきたというのに」
「……! なつめ、か……?」
「他に誰が。開けるわ」
戸をがらりと引いて入ってきたのは、声が発した通りなつめだった。
妖力の乱れも、術を行使した残滓もない。
紛れもない本人だ。
彼女は戸をくぐると、
「幽霊でも見たかのような顔だ。私が、亡霊にでも見える?」
「帰ってきていたんだな。おかえり」
「ただいま。けれど、すぐに出立する。明日にでも」
「そっか……ならせめて、鍋でも食っていけ」
二人は囲炉裏を囲んだ。
横座には和真が座り、客座になつめが座る。
鍋はもう十分温まり、火が通っていた。和真は木のおたまで天狗鍋をよそう。
囲炉裏の炭の上に、肉の脂が垂れた。赫く、炭が火花を上げた。
「いただきます」
ばちり、ぱんっ、と炭が爆ぜる音に、なつめの
和真も椀をすする。豊かな味噌の香が鼻から抜ける。感覚的には、非常に具沢山な味噌汁である。そして、砂飯を使った、砂団子が入っているのがこの天狗鍋の特徴である。
もちもちの団子は、米が取れない山岳郷では貴重な主食である。また、オニガライモを使った芋団子を使った鍋は、
和真は鬼であるから(正確には、半妖鬼だが)、鬼鍋の方が“らしい”のだが、なつめと過ごした少年期の修行期間の影響で、彼は天狗鍋の方が好みだった。
この郷に限らず、大陸の民の多くは汗をかく習慣がある。武芸、労働、行脚──いずれにせよ塩分を消費するため、濃い味付けを好む。
特に武の神使隊であるなつめや、
鍋の味付けは、ひょっとしたら、普通の里で筆を取る学者先生や公家の方々が職されたら顔をしかめるくらい、塩っ辛いかもしれない。
「和真、旅に興味は」
「なんだよ、藪から棒に」
「質問をする前に、まずは質問に答えなさい」
筋を通せ。なつめは、言外にそう教えてくることが多かった。
名を聞く前に名乗る作法も、問いに問いで返すな、という作法も、そのように学んだ。
「悪い……。旅には興味がある。郷の外にしかいない
「人は斬れる?」
「夜盗山賊、人の道を外れた外道なら、斬れる」
「そう。……さっきのあなたの問いだけれど、私は今回の神命において、一つ許しをいただけたの」
和真は串を取り上げて、肉を短刀で切り分けて笹の葉の上に並べた。
葉を一枚なつめの前に渡し、和真は己の葉に乗せた熱い肉を一つ掴み、口に放り込む。指の皮が分厚いからできることであった。
「護衛を一人つけていいそう。……和真、どう?」
「俺……っ、ごっほ、がは……俺でいいのか?」
「実力だけなら中堅。けれど、誰よりも信に足る」
信に足る。
己が、尊敬し、尊崇する師からそう言ってもらえた。
「飯食ったら、すぐに支度する」
「そうして。事情は、その時詳しく話す。嫌ならその時断ってくれていい」
「断るかよ。俺の腕を見せる機会をもらえたのに!」
和真は、それこそ少年のように目を輝かせ、鍋を掻き込んだ。
その様子を、なつめはどこか嬉しそうに見やり、己の椀を傾けて美味い天狗鍋の味わいに舌鼓を打つのだった。
火の暦八七八年 二月十七日 日曜日
満月の夜、山岳郷(現:
神使の天狗・なつめと、
彼らは明る朝、早速山を降りる。
それは、隣の郷──
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