第四幕 登る
武の神使たるもの、一切の武具の扱いを学ぶべしとするのが、この天嵐神社を含む、東条地域の思想の一つだ。
なつめは一通りの武具ならば、一戦級で扱える。特に杖術──仕込み杖の類は、達人、──否、魔人のそれ。
神速逆手打ち、などと仇名される技は、神使の武芸大会で多くの者の意識を一撃で刈り取り、天慈颶雅之姫をしてお喜びになられた技である。
これは杖の特性を利用した技だ。
右手で杖を握っている状態からの抜き打ちの場合、順手に握り直す手間を考えると、素早くそのまま逆手で打ったほうが早い。
敵の攻撃を、まずは杖の鞘で押さえこみつつ踏み込んで、蹴りで脾腹を打ちすかさず左の拳打を水月へ、そして瞬時に鞘を払って、逆手で刃を打ち込む──。
この一連を、呼吸半分の間に行う。速ければ、速いほど良い。なつめなどは、瞬きも許さぬうちに、やりきる。
模擬戦では当然木剣だが、行脚の際には実戦の機会も少なくない。
これで、愚かな賊を何人も沈めた。
さて──。
妖怪が統治する郷では、主祭神が頂点に立ち国家を運営する神社統治、もしくは仏閣統治制が一般的。現代風に言えば、宗教国家が普通なのだ。
元来妖怪とは、かつて神といわれたものが野に下り、野生に還った姿とされるためである。
そしてそこにいる神使、神職、氏子──坊主や僧侶は、聖職者であると同時に国防の尖兵でもある。
西洋大陸で言えば、「祈る人」と「戦う人」が同じなのだ。
全ての神社の祖流たる常闇之神社の「
我が天嵐神社の「
その流派、武技は、神仏の数以上にある。人や妖が創出したものも少なくない。
神使はそうした武芸の鍛錬と修行に励み、神に仕え、民に尽くすこと、防人としてのなんたるかを学び、神社仏閣につとめる者のあるべき姿を学び、実践するのだ。
そのための、行脚、であった。狭い寺領や社領にいては、頭も筋肉もかたくなるもの。
外へ出て、しばらく鍛えろ。それが、神々に共通する価値観である。
なつめは、そう、だからこそ武の神使になった。
生まれは
母の
梟福殿の直系は、みな、〈
なつめもそうだ。幼い頃から練習に励み、兄、姉、両親と競った。
そのような家で生まれ、なつめは末っ子として守られる側として生きてきたが……そんな己に飽き飽きしていた。
──弱い妖怪なんて、いやだ。
あるとき、
──私も強くなりたいのだ。
十になった晩、父に、そう談判した。
父はもともと茶の、そこに沈殿する苦い部分を口に含んだような鹿爪らしい顔だが、そのときはさらに渋柿を齧ったような顔で、山鳴りのようにうなり、兄二人、姉を見遣った。
母は瞑目し、黙っている。
家長は父だが、圧倒的に家で力を持つのは母であった。ゆえに、この態度なのだ。黙って見守る、余計な口は、挟むまでもない、という。
「良いではありませぬか。なつめももう子供で通る歳ではありませぬ。ときに、梟福殿の天狗としての自覚が芽生えておるのです」
長兄の橡がそう言うと、次兄の槐が「わしもそう思う。そも、わしらとて十の頃には木剣片手に父上に打ち込んだもの。なつめや、修行は途中ではやめられぬが。わかっておるのだな?」と優しく問いかけてきた。
なつめは「わかっておりまする」と静かに答えた。けれど、その声音のうちには、天狗火の如き炎が燃え盛っていた。彼女の青い目は、まさしく、火の如く熱かった。
姉のくちなしが、「ならば我らから言うことはあるまいよ。うちの天狗は皆頑固で、意固地だ。ご先祖の代からわかりきっておろう。こうと決めたら、石にさえ齧り付くぞ、親父殿」と父を説得する。
自立し、己の生き方を貫く子らに説得され、とうとう父も折れた。というか──父の櫻としても、嬉しかったというのが正直なところである。
母の欅が、「親父様、もう、答えは出ておられましょう」というと、父の顔が綻んだ。
「あいわかった。ならば、そちに師をつける。わしの懇意にしておる、獣狩の
「は。──必ずや、修行をやり遂げてみせます」
まさかその登美が鬼で、しかも、のちにその女の息子の和真が、のちに己の弟子になるとは夢にも思わなんだが──縁とは、まこと奇妙であるとなつめは思っていた。
……先ほど身体を清めた湯殿があるところからは、一般的な──とはいえ、神の居城に直々に参詣するわけだから、普通は来ることはできないが──参拝者はゴンドラを使う。
しかし、神使は己の足で、およそ九千段ある階段を登っていく。
なつめは杖をつきながら、無表情で進んだ。
(空気が薄い。懐かしい、郷のにおいだ)
思わず、微笑んだ。
天狗は山に来ると、無邪気になる。子供のようにはしゃぐ老天狗さえいる。そういうものなのだ。
空気はすでに、相当に薄い。天狗は空を飛ぶ種族ゆえに、高地適応能力が高く、山岳郷のような高山地帯でも問題なく活動できる肉体を持っているが、並大抵の地上妖怪では相当に苦痛だろう。
郷の者であれば、代々ここで暮らす関係上、慣れてしまうのだろうが──。
この、薄い空気というのが、どうも血の成分を高揚しやすい状態に持っていくらしいと、ある医者は考えている。
空気を構成するものの中には酸素というものがあり、それが一定の濃度を下回ると、血中成分に変化が見られるという。
天狗の血はその変化・適応速度が他の生物種に比べて独特なものらしく、それが、山に来ると気分が高揚するカラクリではないかと考えられていた。
なつめの──和深妖・人は、東西問わないが──足腰は強靭で、皆、健脚で知られる。
基本的に──行脚、武者修行、物見遊山など、どのような形であれ旅の基本は己の足で歩くことであるからだ。
馬に乗る、牛をはじめ獣に乗るという手や、力車や
そもそも、獣は荷を持たせる、牽かせるための労働力であって、いざという時の非常食であるから、乗るという発想自体があまりない。
戦ともなれば、騎乗武士も見られるだろうが、平時にそんな乗り方はしないのである。
そして力車や駕籠は、まあ、高くつく。
いずれも人か妖が引くわけだから、当然である。あれらはむしろ、旅行客が風靡な景色を楽しんだり、次の宿までどうしても進めない時に用いるものだ。
いくらくらい高いのかと言えば──。
例えば馬。本荷という馬に三十六貫目(約一三五キロ)の荷を二里(約八キロメートル)ほど運ばせる商売で、二十六銭(およそ二六〇〇円)である。
軽尻という人だけが乗る場合は少しは安いが、乗掛という人と荷物を乗せるというものの場合、値はあがる。
ちなみに蕎麦が三銭五厘(=三五〇円 註:和深では一銭=百現代円、一厘=一現代円として計算している)であるから、如何に高くつくかがわかるだろう。
相当疲れているならばまだしも、そうでないなら、頻繁に馬や駕籠には頼れないのがわかる。旅を全て乗り物に頼っていては、とにかく金がかかるし、健康に悪い。
駕籠は窮屈で身動きを取りづらく、血行が悪くなり、そのせいで亡くなるやんごとなき方さえおられるほどだ。
(そういえば、神浜から坂東までをつなぐ、
隣接する
(風情がないな。旅情もあったものではない。
八八〇〇段……八八〇一段……意外と、体力がついている。昔はここまで来る時には汗を浮かべていたが、思いの外、体が軽い)
杖の石突が、かつ、と鳴った。
象牙や、牛の角、銀を用いる石突だが、なつめたち神使が用いるものは、徹底した実用主義であり、この地で採れる特産鉱石・
薄緑色と薄金色、光の当たり方で玉虫色にも輝くそれが、陽光を照り返す。
とうとう、九千段。
山頂からは雅楽の雅な音色が響いており、吹物、弾物、打物の調和が取れた荘厳な音の領域がそこにある。
なつめが頂上にあがると、神使らが左右に整列して待っていた。
カン、カン、カン、と杖を鳴らす。なつめは石畳の左隅を歩いた。龍を模る鳥居の前で、深く、一礼。
杖を脇の神使に持たせ、なつめは一切の武装なく、拝謁叶うため、総本社の前の天幕がかけられた、一際高い拝殿の前でゆっくりと土下座した。
「よい、面を上げ」
天幕の向こうから、麗しい声がする。それは我らが神の──
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