ミタマタケハヤ ─ 神ノ跫蹤 ─
夢河蕾舟
【修羅ノ章/序】玉兎血桜
玉兎事件
玉兎の夜であった。古来より、満月には兎が浮かびあがるとする者がいたが、なかなか想像力豊かであるし、言い得て妙であった。
事実、
金色の月明かりを浴びて、築地塀から顔を覗かせるように桜の花弁が開いている。風靡な微風が吹いていた。
ある屋敷から、若い侍が賑やかな声をあげて、何やら陽気に歌いながらぞろりと出てきた。
「はは、お前が祝言をあげるとはなあ」
「先を越されたな、遠間!」
「うるせえや、おい、このままもう一軒いこうや。俺のヤケ酒に付き合えよ、姉川!」
歳は十代後半の者から、二十代半ばほどの若い連中である。いずれも正装たる
さても、最も年下の十七の若侍である姉川雪平は、「いやはや、何から何まで申し訳ない……拙者でよければいくらでもお付き合い致しまする」と恐縮している。
「かたくなるな、姉川! のう! めでたい事じゃないか!」
「かー、あんな別嬪さんと、どう縁談をつけたんだ!」
陽気な五人の侍はいずれも彼の先達であった。
立派な侍である。尊敬しているし、これからも学ぶべきこと、見て盗む技術は山のようにあると思っている。
「お前、嫁さんの尻に敷かれるなよ?」
「滅相も……いやしかし、あれほどの別嬪の尻になら、敷かれるのも悪くないかなと」
「わはは、言うようになったなあ!」
築地塀に隔たれた通路を、
否。
月光を遮ったのは、桜ではない──。
何者かが築地塀の上に着地し、瓦を鳴らして迫る。
はっとして、侍たちは「何者か!」と
返答は、銀光を散らす凶刃を抜き放っていることが物語っている。
こちらもすかさず抜刀した。雪平は喉が凍りつきそうな思いで、鯉口を切った。抜かねば殺されるのだ、という非日常が、なぜ己に迫っているのか皆目見当がつかなかった。
──いや、この場合理屈ではない。己が武士の家の当主であるという事実が、あの者にとって十二分に、斬るだけの理由たり得るのだろう。
特権階級のように思われる士族だが、その実、常にこのような危険がつきまとうのだ。
責務と危険と職務は、時折、俸禄と結び付かぬことも珍しくない──。
凶手が塀から飛んだ。赤い、血のような色の羽織が尾羽のように舞い踊る。
大上段真っ向唐竹割。凶手が繰り出したその一撃で、粳間の脳天がかち割られた。血が吹き出し、夜を染め上げる。
すかさず敵は姿勢を低くして疾駆し、右の蓮池の脾腹を深く切り裂いて地面に沈め、迫る白刃を逸らしつつ、三人目の高階の膝に蹴りを入れる。
恐るべき早技に、雪平は状況を飲み込めない。
一体何が起こっているのか、まるで、酔ったせいで見ている悪い夢の光景のようであった。
しかし、紛れもない現実であることは、迸った絶叫が示していた。
凶手がすかさず袈裟に打ち下ろした一閃で高階を討ち取り、続く四人目・仁村がすかさず反撃に繰り出す、首狙いの払い斬りを、凶手は素早く屈んで躱した。
そうして刃を潜り、下から突き上げるような勢いで、己の
「姉川ッ、逃げるんだ! 生きろ、落ち延びよ!」
そのように怒鳴った遠間の胸を、凶手は素早く横真一文字に斬り裂き、血の海に沈めた。
姉川雪平は、あっという間に尊敬すべき者らが血の海に倒れ伏し、絶命する悪夢を──受け入れられなかった。
すぐにでも斬りかかれ!
理性は、そう叫んでいる。だが体が、闘争も、そして逃走をも拒否していた。両足が根を張ったように地面にへばりついて、動かない。
「な、なんだ貴様は! 拙者に、何の──、」
姉川雪平は震える声でそう絞り出すのが精一杯だった。手にした真剣は、震えている。
ひとしきり道場剣術はこなしたが、斬り合いは初めてだった。
肌がびりびりと痛む。腰が抜けそうで、足は震え、無様に泣き喚きたい衝動に駆られた。
妻の顔が、ずっと、脳裏から離れない。
「これは、狼煙にすぎない」
凶手はそう吐き捨て、刀を薙いだ。
姉川雪平が次の瞬間目にしたのは、上半身を失った己の腰から下で、そうして、視界が暗く染まって闇に呑まれていった。
冷たくなる己の肉体を感じていた。暗い、冷たい常闇に飲まれていくのを感じていた。
妻の名を溢したように思う。
──享年十七。姉川雪平は、無念のうちに、その生涯を終えた。
その理由も、目的さえも判然としないままに。
人斬りは血のように赤い羽織を揺らし、着物の懐から斬奸状を取り出すと、それで刀身の血を拭い取り、三つ折りの紙切れを放った。
流れるように納刀し、踵を返す。
冷徹な目つき、顔つき。晒しを巻いた胸元。歩き方はずっしりとしたものではなく、むしろ、ゆらりとした水のごとき歩み。
歩み方といい、体躯といい、男というには華奢である。──何より、月明かりに照らされたかんばせは、人斬りというにはぞっとするほどに麗しいのだ。
その凶手は、そう──女、であった。
さながら、あの惨劇を神が嘆き悲しんでおられるかのような──。
──悲嘆に暮れるのは、神だけではない。
そこには泣き崩れる若い女があった。
よもや、胴を泣き別れにされた者が、最愛の旦那であるはずがないと──半狂乱で泣きじゃくっているのだ。
むしろをかけられた旦那に縋って、「なぜ! なぜ雪平様がこのような目に遭わねばならぬのです! 答えられぬのですか! 誰ぞ、誰ぞ仇を見た者はおらぬのか!」と叫んでいる。
警察の者らも、あまりに気の毒でかける言葉も、まして、無理に引き剥がすのも躊躇うほどであった。
聞く者の御霊を引き裂き、叩き砕くような悲痛な叫び声が、雨天に響き渡っていた。
あれから、幾許かの夜を超えた。
初夜も迎えぬままに未亡人となった、姉川の夫人を労る者もいた。
事件から数年。
姉川夫人はすっかり様変わりしていた。
彼女がこの数年をどのように過ごしていたのか、実のところ、親族にさえわかっていない。
事件から半年ほどあばら屋にこもっていたかと思えば、彼女はその間、ひたすらに呪詛を書き連ねていた。
冊子、巻物、札、壁や天井床に至るまで、一切合切の恨み言を書き連ねていたのだ。
挙げ句彼女は、──どこか、
己の血を使った文字で「怨敵必滅」と記した鉢巻をして、山姥のような様相であばら屋から出てきた時には、食事を運んできた彼女の弟が悲鳴をあげ、まろぶようにして逃げ出したほどだ。
血走った目に、こけた頬、伸び放題の髪は白く色が抜け、体は垢だらけで黄ばんだ白無垢は、腐り果てた膿汁のような異臭を放っている。
にたにた笑い、錆びた短刀を握る、その異相。
──鬼。
そう呼ぶしかなかった。
その「鬼」は、にやつきながらあばら屋を出て、山に入っていった。
──彼女の弟は、このような言葉を耳にしたという。
「雪平様、雪平様。ああ……最愛のお前様。
この
……どのような、修羅に、外道に堕ちようとも……!」
──赤い羽織の凶手が起こした、都合六名の若侍殺傷。玉兎事件と称されるそれは、
しかし、その凶行は思想に裏打ちされた行動であり、無差別な辻斬りなどではなかった。
それが、赤き凶手の行動原理であっただろうと推測されているが、事件から六年経った今でも、くだんの人斬りの行方は杳として知れない。
同時に、事件から半年後に出奔した「鬼」……羅刹御前の行方も、また……。
我らが
五千年も昔の高度先史文明時代、三千年前の泰平の帝国時代、そして現在の、火の時代。
今がそう呼ばれる暦になって、時代は激動に揉まれこそすれ、幸いにも泰平の世──を標榜することはできていた。
無論、大陸内の国同士の諍いや、それにともなう暗殺、間諜、謀略は数えきれない。
さらに言えば、それらとは関係なしに巻き起こるのが、自然生命の化身たる
それゆえ侍という存在や、狩人、術師という者は廃れることなく存在していた。
さらに西洋の大陸から優れた技術を取り入れ、時に人流をも受け入れ、変動していく時代というものに適応しようともがいていた。
滅んだ二つの時代と、同じ轍を踏まぬように。
そんな時代である。
そんな時代故に、
これは西条地域──
一方で東条地域──和深大陸を東西に分断する、「
神仏妖異あってこその人の世であり、神も妖も尊敬を以て接し、時に友としてもてなし、もてなされるのだと。
六年前の三月二十五日に起きた事件は、その火の時代に、大きな渦をもたらすこととなる。
あの日そこで起きた人斬り事件は、この国を、一つの時代を動乱へ陥れる狼煙となるのだった──。
【表紙】https://kakuyomu.jp/users/YRaisyu89/news/16818792440211259000
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