その①の続き
未だに幼児婚やダウリー(持参金)殺人事件に泣く女性がいる一方、首相も出たくらいなので女性の社会進出が著しいのがインド。「都市の風景」の冒頭を飾るのが銀行勤めのワーキングマザーが主人公の『十三階からの眺め』。
主人公は夫と2人の子供と共にボンベイ(現ムンバイ)で暮らしている。子供2人がいても働きに出られるのはメイドがいるからだ。だがメイドを雇うにせよ、 いいメイドが見つかるのは難しい。少しでも多く余分の金が手に入るとなれば、すぐあれこれお涙頂戴の話を聞かせ給金を手に入れ、翌日から出てこない。雇い 主の方もよりマシなメイドを見つけた時は、一年も働いていた“ねえや”を出し抜けに口実を設け解雇する。クリスチャンやネパール人のメイドは概ね評判がい いようだ。マドラス出身のメイドなど一週間しかたたないのに、主人公の7歳の娘は母にこう告げる。
「お母ちゃま、今日ね、ねえやんとこによその男の人が来たの。そしてお母ちゃまの寝室のソファーに座ってたのよ」
そんな折、主人公は年を取っているが誠実なメイドを雇うことが出来た。子供たちは新しいメイドにたちまち懐く。そのメイドは地方からボンベイに出てきてお り、主人公が住む高層マンションのすぐ側にあるスラムのボロ小屋から通っていた。家には4人もの成人した息子たちがいるが、彼らの仕事もあったりなかった りで毎日酒を飲んでいる有様。家で暮らすのに嫌気が差し、メイドとして働きに出たのだ。
彼女は仕事を立派にやりこなしていたが、ある時嫁いでいる娘に会いに行く、4日のうちに戻る、と言い仕事を休んだが、約束どおり戻らなかった。
メイドが戻らなかったのは既に死者となっていたからだ。メイドは娘に会いに行く前、息子に酒を買う金をねだられ、金を渡さなかった彼女は息子に酷く暴力を 振るわれ死亡したのだ。この息子は一番年下の息子で、小児麻痺に罹った時母親が食器類を全部売り払い、医者に治療してもらったこともあった。メイドの死を 知った主人公は夫に打ち明ける。夫は悩むことはない、その件は忘れろ、と言う。
「こんな事はこういう卑しい連中の間じゃ、日常茶飯事さ。酒を飲んでは殴る蹴る、悪口雑言、血を流すなんぞいつものことなのさ。満足に食えない、そのくせ6、7人もの子供をつくり女房を2人も持ったりする。今日工場で僕の下にいる者が、自分の最初の女房に殴られ出てきていた。頭に包帯が巻いてあったよ」
日本にも親に暴力を振るい死なせる馬鹿息子がいるから、インドの下層階級を笑えない。ただ、メイドの習慣は日本には馴染まないかもしれない。
信心深い者が多いインドでは信徒と神の仲立ちをするバラモンは何かにつけ頼られる。冠婚葬祭はいうに及ばず、事始に先立つ吉凶の判断、特に穢れや禁忌の浄 めではバラモンの独壇場となっている。その信心に付けこみ、善男善女から多額の金を巻き上げる似非聖職者を描いたのが『猫の顛末』。
ある家の若い嫁が、日頃家に入っては食べ物を食い逃げしている猫に逆上し、板で思い切り叩く。猫は声も出さず引っくり返るが、不殺生の戒律のあるヒンドゥーにとって、猫殺しは人殺しと同じ大罪だ。早々贖罪の儀式にバラモンが呼ばれるが、彼は朝に猫を殺した者は油攻めの地獄に落ちると説く。バラモンは贖罪の儀式に金銭や様々なお供えの品々を要求するが、その額の多さに仰天する姑に、「嫁ごには油攻め地獄が口を開けとる…事の次第をよく考えて見なされ」と不安を煽る。ほとんどバラモンの要求が通ったと思いきや、猫は姿を消していた。実は死んでなかったのだ。
「村の風景」はこれが20世紀でも行われていたのか、と愕然とする因習が出てくる。『怒りの河』には人身御供が 行われている村が舞台だ。河の氾濫にまじない師が祈祷しても河の勢いが衰えない場合、人間を投げ込んで罪を祓う。罪を犯したら生贄にされて当然、そうしな ければ村全体に禍が降りかかると村人は信じているのだ。この物語では若い後家が河に投げられる寸前で助かるが、こんな蛮習がもしかすると21世紀も片田舎 で密かに行われているのだろうか。
インドには様々な少数民族がいるが、その数は約7千万人とされる。通常先住民族と総称されるが、最大の人口数の先住部族ゴンド族の物語が『フリヤーの恋』。部族民もヒンドゥー化が進んでいるが、部族固有の規律もまだ揺るがない。
ゴンド族の娘フリヤーはある若者と恋に落ちるものの、「乳返し」という村の風習に阻まれ、恋は実らず嫌いな男に嫁ぐことになるのを暗示した最後で終わっている。「乳返し」とは他家の娘を嫁に迎えると、その返しとして自分の娘を嫁の兄弟に嫁がせることを指す。ゴンド族には若衆宿の風習もあるのは面白い。いかにフリヤーの父が娘の思いを叶えたくとも、村役や長老で構成されるパンチャーヤット(5名からなる村落自治機関)での決定は村人たちにとって至上のものだ。パンチャーヤットの決定でフリヤーの結婚は決まった。
短編集を見ただけで、やはりインドは途轍もなく広く多様な国だ。しかし、汚職役人や要領よく立ち回る者、親不孝者、似非宗教家などどの国にもいるのだから、人間社会の本質はそう変わらないのだろう。
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未だに幼児婚やダウリー(持参金)殺人事件に泣く女性がいる一方、首相も出たくらいなので女性の社会進出が著しいのがインド。「都市の風景」の冒頭を飾るのが銀行勤めのワーキングマザーが主人公の『十三階からの眺め』。
主人公は夫と2人の子供と共にボンベイ(現ムンバイ)で暮らしている。子供2人がいても働きに出られるのはメイドがいるからだ。だがメイドを雇うにせよ、 いいメイドが見つかるのは難しい。少しでも多く余分の金が手に入るとなれば、すぐあれこれお涙頂戴の話を聞かせ給金を手に入れ、翌日から出てこない。雇い 主の方もよりマシなメイドを見つけた時は、一年も働いていた“ねえや”を出し抜けに口実を設け解雇する。クリスチャンやネパール人のメイドは概ね評判がい いようだ。マドラス出身のメイドなど一週間しかたたないのに、主人公の7歳の娘は母にこう告げる。
「お母ちゃま、今日ね、ねえやんとこによその男の人が来たの。そしてお母ちゃまの寝室のソファーに座ってたのよ」
そんな折、主人公は年を取っているが誠実なメイドを雇うことが出来た。子供たちは新しいメイドにたちまち懐く。そのメイドは地方からボンベイに出てきてお り、主人公が住む高層マンションのすぐ側にあるスラムのボロ小屋から通っていた。家には4人もの成人した息子たちがいるが、彼らの仕事もあったりなかった りで毎日酒を飲んでいる有様。家で暮らすのに嫌気が差し、メイドとして働きに出たのだ。
彼女は仕事を立派にやりこなしていたが、ある時嫁いでいる娘に会いに行く、4日のうちに戻る、と言い仕事を休んだが、約束どおり戻らなかった。
メイドが戻らなかったのは既に死者となっていたからだ。メイドは娘に会いに行く前、息子に酒を買う金をねだられ、金を渡さなかった彼女は息子に酷く暴力を 振るわれ死亡したのだ。この息子は一番年下の息子で、小児麻痺に罹った時母親が食器類を全部売り払い、医者に治療してもらったこともあった。メイドの死を 知った主人公は夫に打ち明ける。夫は悩むことはない、その件は忘れろ、と言う。
「こんな事はこういう卑しい連中の間じゃ、日常茶飯事さ。酒を飲んでは殴る蹴る、悪口雑言、血を流すなんぞいつものことなのさ。満足に食えない、そのくせ6、7人もの子供をつくり女房を2人も持ったりする。今日工場で僕の下にいる者が、自分の最初の女房に殴られ出てきていた。頭に包帯が巻いてあったよ」
日本にも親に暴力を振るい死なせる馬鹿息子がいるから、インドの下層階級を笑えない。ただ、メイドの習慣は日本には馴染まないかもしれない。
信心深い者が多いインドでは信徒と神の仲立ちをするバラモンは何かにつけ頼られる。冠婚葬祭はいうに及ばず、事始に先立つ吉凶の判断、特に穢れや禁忌の浄 めではバラモンの独壇場となっている。その信心に付けこみ、善男善女から多額の金を巻き上げる似非聖職者を描いたのが『猫の顛末』。
ある家の若い嫁が、日頃家に入っては食べ物を食い逃げしている猫に逆上し、板で思い切り叩く。猫は声も出さず引っくり返るが、不殺生の戒律のあるヒンドゥーにとって、猫殺しは人殺しと同じ大罪だ。早々贖罪の儀式にバラモンが呼ばれるが、彼は朝に猫を殺した者は油攻めの地獄に落ちると説く。バラモンは贖罪の儀式に金銭や様々なお供えの品々を要求するが、その額の多さに仰天する姑に、「嫁ごには油攻め地獄が口を開けとる…事の次第をよく考えて見なされ」と不安を煽る。ほとんどバラモンの要求が通ったと思いきや、猫は姿を消していた。実は死んでなかったのだ。
「村の風景」はこれが20世紀でも行われていたのか、と愕然とする因習が出てくる。『怒りの河』には人身御供が 行われている村が舞台だ。河の氾濫にまじない師が祈祷しても河の勢いが衰えない場合、人間を投げ込んで罪を祓う。罪を犯したら生贄にされて当然、そうしな ければ村全体に禍が降りかかると村人は信じているのだ。この物語では若い後家が河に投げられる寸前で助かるが、こんな蛮習がもしかすると21世紀も片田舎 で密かに行われているのだろうか。
インドには様々な少数民族がいるが、その数は約7千万人とされる。通常先住民族と総称されるが、最大の人口数の先住部族ゴンド族の物語が『フリヤーの恋』。部族民もヒンドゥー化が進んでいるが、部族固有の規律もまだ揺るがない。
ゴンド族の娘フリヤーはある若者と恋に落ちるものの、「乳返し」という村の風習に阻まれ、恋は実らず嫌いな男に嫁ぐことになるのを暗示した最後で終わっている。「乳返し」とは他家の娘を嫁に迎えると、その返しとして自分の娘を嫁の兄弟に嫁がせることを指す。ゴンド族には若衆宿の風習もあるのは面白い。いかにフリヤーの父が娘の思いを叶えたくとも、村役や長老で構成されるパンチャーヤット(5名からなる村落自治機関)での決定は村人たちにとって至上のものだ。パンチャーヤットの決定でフリヤーの結婚は決まった。
短編集を見ただけで、やはりインドは途轍もなく広く多様な国だ。しかし、汚職役人や要領よく立ち回る者、親不孝者、似非宗教家などどの国にもいるのだから、人間社会の本質はそう変わらないのだろう。
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