その①の続き
正式な印パ分離独立は1947年8月だが、既に同じ年の初頭から宗派による夥しい人々の移動があった。インド側にヒンドゥー、シク教徒が、パキスタンにはムスリムが命からがら向かっていた。その間、女性や子供の誘拐も頻発するが、その混乱と悲劇を描いたのが「神に誓って」。誘拐の被害者を見つけ出す行動も始まっており、多くの男女がこの行為に参加していた。その様子を著者はこう記している。
「つまり、他ならぬ人間が同じ人間の犯した悪業の痕跡を消そうと一生懸命に努力しているのだ―貞操を奪われてしまった人たちを重ねての暴行から救おうとしているのだ…人間愛という針と糸を手に、他人が目をつぶっているうちに犯された傷口を繕い縫ってしまおうとしてか?」
誘拐された婦女子を救出するのは困難極まった。拉致した連中は神出鬼没で捜すのは容易ではない。勇気ある志願者がようやく女性を発見、連れ戻そうとしても家族が引き取りを拒んだり、ショックで気が狂った女、飲酒癖がついた娘もいたという。また小説から引用する。
「収容された娘や婦人たちについて考えようとしても、わたしの頭に浮かぶのは膨らんだ腹だけだ―あの腹はどうなるのだ―あの中に詰まっている、あれの持ち主は誰だ―パキスタンかインドか?それに、あの9ヵ月間の持ち運び料―料金を払うのはパキスタンかインドか?」
娘を拉致され、気が狂ってしまった母親もいた。感情を抑えたマントーの文体から、より一層、独立時の凄惨さが浮かび上がってくる。印パ双方で殺人、誘拐、 暴行を競い合ったのだ。このような動乱文学を読むと、今流行の「多文化共生」を謳う我国の文化人の人道主義など、何と薄っぺらに響くことか。印パ分離独立 は非常に特異な例だと思われる方もいるだろうし、ろくな教育もない野蛮な連中の犯した出来事と感じる人もいるだろう。しかし、識字率がずっと高いはずの欧 州のボスニア紛争(1992-95年)など、20世紀末に起きている。人間は時として野獣以下の怪物になるのだ。日本の知識人はマルクスなどよりも、動乱文学を読んでほしい。性悪説に沿って対策を立てた方が効果的なのだから。
21世紀になってもカシミール紛争は解決していない。第1次印パ戦争を扱ったのが「最後の敬礼」。豚の尻尾やら、壷屋(土器作りの職業集団で、低カースト)のろぱ野郎とかの罵声が飛び交うのは妙に滑稽だが、同郷の幼馴染が敵味方に分かれて戦っているのに戦争の悲劇がある。子供の頃からの親友で、戦友でもあった敵兵を心ならずとも射殺してしまう不条理。
インドにもオタクがいるのか、と思わされるのが「空瓶と空箱」。どうしてか空瓶と空箱集めに凝る独身男が登場するのだ。収集対象は違っても現代日本にも同類がいるではないか。
娼婦が主人公の「侮辱」も面白い。娼婦の微妙な心の変化を巧みに表現している。客に侮辱された娼婦が、ヒモに当り散らし叩き出すも、どうしようもない孤独さを感じる。
マントーは映画のシナリオライターをしていたので、インド映画界を題材にした小説が得意らしい。映画業界裏話も知れて、興味深い。映画会社に女性を連れて くる男は大抵彼女のヒモらしいが、これは日本の芸能界も似たような背景があるだろう。無名の女優の卵がスタッフと関係するのは珍しくないが、その処理とし て毎日20粒ものキニーネを飲む若い女の例が見える。この薬がマラリアの他に堕胎用にも使われるとは思いもよらなかった。
性的欲望の対象にされるのは、若い女ばかりではない。歌手志望の十代半ばの若者も名の知れた音楽家の同性愛の餌食となり、耐え切れなくなった若者は音楽家 を殺害する。歌手に取り立ててやる、と持ちかけ、若者を食い物にする不心得者など、日本にもいるのは確実だ。だが、音楽家を殺害した若者が裁判で事件をあ りのまま率直に陳述すると無罪となるのは、いかに小説にしても腑に落ちない。日印の法観念はかなり違うようだ。
またインドの映画界に結構ムスリムもいるようだ。やはりムスリムは同教徒同志で交流しているようだが、映画スターとなると、ヒンドゥー風の芸名を名乗ることも多いらしい。ただ、一般のムスリムは日本の在日のような“通称名”はまず使用しない。
それにしても、マントーの短編集はどれも味わいのある作品ばかりだった。南アジアの文学は日本で翻訳自体が少ないのが残念だ。英語に較べ、ヒンディー語やウルドゥー語の翻訳者があまりいないこともある。
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正式な印パ分離独立は1947年8月だが、既に同じ年の初頭から宗派による夥しい人々の移動があった。インド側にヒンドゥー、シク教徒が、パキスタンにはムスリムが命からがら向かっていた。その間、女性や子供の誘拐も頻発するが、その混乱と悲劇を描いたのが「神に誓って」。誘拐の被害者を見つけ出す行動も始まっており、多くの男女がこの行為に参加していた。その様子を著者はこう記している。
「つまり、他ならぬ人間が同じ人間の犯した悪業の痕跡を消そうと一生懸命に努力しているのだ―貞操を奪われてしまった人たちを重ねての暴行から救おうとしているのだ…人間愛という針と糸を手に、他人が目をつぶっているうちに犯された傷口を繕い縫ってしまおうとしてか?」
誘拐された婦女子を救出するのは困難極まった。拉致した連中は神出鬼没で捜すのは容易ではない。勇気ある志願者がようやく女性を発見、連れ戻そうとしても家族が引き取りを拒んだり、ショックで気が狂った女、飲酒癖がついた娘もいたという。また小説から引用する。
「収容された娘や婦人たちについて考えようとしても、わたしの頭に浮かぶのは膨らんだ腹だけだ―あの腹はどうなるのだ―あの中に詰まっている、あれの持ち主は誰だ―パキスタンかインドか?それに、あの9ヵ月間の持ち運び料―料金を払うのはパキスタンかインドか?」
娘を拉致され、気が狂ってしまった母親もいた。感情を抑えたマントーの文体から、より一層、独立時の凄惨さが浮かび上がってくる。印パ双方で殺人、誘拐、 暴行を競い合ったのだ。このような動乱文学を読むと、今流行の「多文化共生」を謳う我国の文化人の人道主義など、何と薄っぺらに響くことか。印パ分離独立 は非常に特異な例だと思われる方もいるだろうし、ろくな教育もない野蛮な連中の犯した出来事と感じる人もいるだろう。しかし、識字率がずっと高いはずの欧 州のボスニア紛争(1992-95年)など、20世紀末に起きている。人間は時として野獣以下の怪物になるのだ。日本の知識人はマルクスなどよりも、動乱文学を読んでほしい。性悪説に沿って対策を立てた方が効果的なのだから。
21世紀になってもカシミール紛争は解決していない。第1次印パ戦争を扱ったのが「最後の敬礼」。豚の尻尾やら、壷屋(土器作りの職業集団で、低カースト)のろぱ野郎とかの罵声が飛び交うのは妙に滑稽だが、同郷の幼馴染が敵味方に分かれて戦っているのに戦争の悲劇がある。子供の頃からの親友で、戦友でもあった敵兵を心ならずとも射殺してしまう不条理。
インドにもオタクがいるのか、と思わされるのが「空瓶と空箱」。どうしてか空瓶と空箱集めに凝る独身男が登場するのだ。収集対象は違っても現代日本にも同類がいるではないか。
娼婦が主人公の「侮辱」も面白い。娼婦の微妙な心の変化を巧みに表現している。客に侮辱された娼婦が、ヒモに当り散らし叩き出すも、どうしようもない孤独さを感じる。
マントーは映画のシナリオライターをしていたので、インド映画界を題材にした小説が得意らしい。映画業界裏話も知れて、興味深い。映画会社に女性を連れて くる男は大抵彼女のヒモらしいが、これは日本の芸能界も似たような背景があるだろう。無名の女優の卵がスタッフと関係するのは珍しくないが、その処理とし て毎日20粒ものキニーネを飲む若い女の例が見える。この薬がマラリアの他に堕胎用にも使われるとは思いもよらなかった。
性的欲望の対象にされるのは、若い女ばかりではない。歌手志望の十代半ばの若者も名の知れた音楽家の同性愛の餌食となり、耐え切れなくなった若者は音楽家 を殺害する。歌手に取り立ててやる、と持ちかけ、若者を食い物にする不心得者など、日本にもいるのは確実だ。だが、音楽家を殺害した若者が裁判で事件をあ りのまま率直に陳述すると無罪となるのは、いかに小説にしても腑に落ちない。日印の法観念はかなり違うようだ。
またインドの映画界に結構ムスリムもいるようだ。やはりムスリムは同教徒同志で交流しているようだが、映画スターとなると、ヒンドゥー風の芸名を名乗ることも多いらしい。ただ、一般のムスリムは日本の在日のような“通称名”はまず使用しない。
それにしても、マントーの短編集はどれも味わいのある作品ばかりだった。南アジアの文学は日本で翻訳自体が少ないのが残念だ。英語に較べ、ヒンディー語やウルドゥー語の翻訳者があまりいないこともある。
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ここが考えるスタートだと思う。
私は未だに小林よしのりさんの本は読んでいないのです。TVで見る限り、頼りなくて。
確か「朝まで生TV」だったと思いますが、小林さんが東大教授・姜尚中に「理性がなければ、国際社会で通らない」と反論され、何も言えなかったのを憶えています。逆に理性があれば国際社会で通る、と考えているなら、それこそ非理性的だと私は思いますが。