影が忍び寄るベンチ
深々と積もっていく木々のざわめきを聞きながら、大道寺典彦は境内に設置されたベンチに腰を据えていた。隣には柴犬を連れ、白髪を風と風の合間に縮れ巻き込まれ棚引かせている老人がいる。文庫本で横溝正史「白と黒」を読みながら、そちらの方をチラチラと犯罪宜しくの視線を注いでいると、右頬に忍び込んだ口元に陽光が煌めいて、恐らく女性かな、と思った。辺りは大道寺典彦と妙齢の女性と一匹の犬だけであった。ゆらゆらと佇む自然が彼らを囲った。
大道寺典彦は夕刻までだらだらと過ごすといった、怠惰に溺れるような生活を突発的な心機一転を図るために、また外出したのであった。とあれ、もう歩道に射す色はオレンジであった。そう遠くは行けぬ。とはいいつつも、だらだらと汗を流しながら、ちょいと近所までの積もりがかなりの距離を歩いていた。Tシャツと背中が汗でぴったりとくっついていた。ポケットに携えた文庫本も汗で濡れていた。もう帰ろうか、どうしてぼくは外になんか出ちまったんだ、と思っているところに、ふと顔を上げると「○○神社まであと300メートル」の文字が見えた。で、休憩がてら、訪れたのである。
ベンチに座りながら、頁を捲る度にペリッと音を響かせながら読み更けていった。横溝正史「白と黒」は頁にして五百ページほどある大長編である。三日前より読み進めているが、未だたった百頁ほどで止まっている。なにせ冒頭より登場人物が多い。彼の頭にはそれがちと覚えられないのである。思えば、現実で会う人々の名前も覚えられていないことが多い。高校までで出会った人を頭に浮かべてみると、片手ぐらいしか思い出せなかった。
「名前と顔、顔と名前、どちらか一方欠けちまうと、もう片方も忘れちまうもんだなあ。」とぼんやりと目の前に飛来してきた雀を見ながら思った。
「すみません」
雀が一羽境内に遊んでいると、また一匹飛んできた。チュンチュン跳ねながら土煙をあげて、地面に転がる虫を啄んでいる。
「あの、お兄さん、ここで何をしとるの?」
大道寺典彦は声の聞こえる方を振り返ってみると、思わずベンチから立ち上がってしまった。
「うへえ、こりゃあどうも。吃驚しました、どうかされましたかね」妙齢の女性が真後ろから覗き込んでいたのである。
「ごめんなさいねえ。驚かせて、うちのポンちゃんが暴れるもんやけん。後ろ手にまわっとったんよ。鳴きもせんかったけん、わからんかったやろうけどね。」
「いえいえ、僕も急に立ち上がってしまって、」読み差しの文庫に栞を挟みながら、空いた手で髪を掻き揚げ、「なにをしてるかというと、特別これといったことなく散歩ですな。で、ちょいと疲れましたんで休憩といった感じです。それに良い具合に木陰の下にベンチがあって、一服しながらの読書に好都合であると、まあそんな具合ですな」と、くどくどと吃りながら言葉を続けていくのであった。
「そうですか。珍しく若い方がいらっしゃるもんですから、私そのベンチに毎日同じ時間に座ってるんですよ。ポンちゃんの散歩コースなの。だから、それに、随分年期の入ったら懐かしい匂いのする本をお読みに…と思って気になってたの」
妙齢の女性は時折、膝下のポンちゃんを優しく撫でながら言った。夕暮れが大道寺典彦の目線の彼方で傾いていた。葉の擦れ合わさる音に間切れて、風が吹いて、そしてその言葉に促されるようにポケットから文庫を取り出した。
「ああ、これですか。この本は昭和四十九年発行で相当年期入ってますからね」
「あら私が十歳の時だわ」
大道寺典彦と妙齢の白髪の女性は再びベンチに腰を下ろした。彼らの足の間にポンちゃんも座った。珍しく全く吠えない犬である。時折、女性の方が撫でながら、「あなたを触ってみます?」と、よほど触りたそうに見えたのか、しかし典彦は動物好きではあるものの、触るといった行為には一寸怯んでしまう質であった。が、とあれ和んだ雰囲気を壊したくない良心に満ちていたので「それでは、」と掛け声みたく呟いて、ポンちゃんの背中にびっしと生えたふかふかの茶色の毛並みに手の平を添えた。が、突然「ワンワン!!」とこちらに飛び掛かって来る勢いで、ポンちゃんの猛り声が境内に響き、大道寺典彦の手は空中に舞って、夜の影が忍び寄るベンチで四肢を暴れさせながら立ち上がってしまった。
「だ、だ、大丈夫ですか、」
やっぱり、犬なんて…と思いながら、
「だい、だい、大丈夫です、よ。ポンちゃんも虫の居所が悪かったんでしよう。でも参ったなあ…あははは」
地面に落ちた文庫を拾い上げて、パタパタ砂を落としながら、こんちくしよう汚れちまったよ、と思いながらも、そうは口に出さないところが大道寺典彦である。
とあれ、もうすっかり夜風が吹き始めた。
スマホを取り出して時刻を見ると、思いの外、遠くまで散歩してしまった為に、そろそろ帰らなくては不味い時間になっていた。
黒のスウェットパンツに付いた砂を払いながら、「すみませんが、そろそろ時間ですんで、帰ります。楽しかったです。有り難うございます」
「あらそうですか、随分長い時間、どうも有り難うございました。私またここにいますから、ポンちゃんと」
大道寺典彦はにんまり笑って、「それではまた」とペコリと頭を下げて、ポンちゃんを見た。目元が垂れて、不思議と申し訳なさそな顔付きである。
「あ、そういえばお名前…」と大道寺典彦は忘れ物を思い出したみたいに言った。
すると、ベンチから上体を起こしながら、妙齢の女性は口元に笑みを浮かべて、
「私、工藤雅代と申します。貴方は?」
「ぼ、ぼくは大道寺典彦と申します」と髪を無造作に掻き揚げながら、ヨレヨレの白Tシャツを右手でパタパタと仰ぎながら言った。
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