中継
大学時代の友人と飲みに行った。人によっては大学卒業以来7,8年ぶりだった。
みんな職場で色々あったり結婚したりはもちろんあったけど、見た目は変わっていなかった。昔に戻ったみたいで楽しかった。ここまで気兼ねなく話して、これでもかと言うくらい酒を飲んだのは久しぶりである。恥ずかしながら酒は弱いモンだから、しゃっくりは止まらないし、半ば本能のままに日記を書いている次第である。これで明日記憶になかったら、恥ずかしすぎて自粛モンだろうな。
楽しかったけど、俺の人生は楽しんだら終わりではない。こうしてヘラヘラやっている間にも、大切な人は苦しみ続けている。その罪悪感が毎日消えないし、行動に起こせない自分が悔しくてしょうがない。今日も結局何もできずに終わってしまった。せめてもの救いで、本屋で「苦しみを苦しみと思わないための本」を2冊買った。それが、いま苦しんでいる人のためになるかは分からない。でも、何もしないよりはいいと思って行動に移した。
こういう小さなところから動いて行かないと、消極的な俺は何もしないだろう。もう、自分のためだけに生きるわけにはいかなくなった。俺の行動次第で死ぬかもしれない人がいる。それを自覚した時点で、もうこのままではいけないと確信するようになった。
仕事も、いよいよ見直す時が来たのかもしれない。上司から、俺に向けて、仕事のやる気を培うために「スマホが今の機能からずっと変わらなかったらどうする?」という出来レースな質問を受けた。そりゃあね、資本主義的な考えで言ったら、「もっといい機能を付け加えられるように常に意識します」みたいな回答になるわけよ。俺自身も、今の会社で上に行くなら、そういうマインドで行くのが最善だと思っているわけ。
でもね、その通りに出来たからと言って、いま死にそうな人が救われるわけではない。貧困で苦しんでいる人も、重病に罹って泣いている人も、生きる意味を感じられなくていつ死のうか迷っている人も、今の仕事を全うしたところで救われないのである。それが解せないし、自分もその一員になっていると思うと、吐き気さえ覚える。みんな、会社や自分のためだけに生きている。それがずっと気持ち悪いと思っている。そんなんで頑張っている人は、評価されるべきではない。本当に認められるべきなのは、苦しみながらも必死に生きている人や、人の死を心から受け止めて悲しむことができる人や、そういう人を救うために金銭関係なしで東奔西走できる人なのである。
学歴も良くない俺は、どのようにしてそんな世界に入り込むことができるのかずっと考えている。もう、自分のためだけに生きるわけにはいかない。目の前にいる苦しむ人を救うために、本当はすぐにでも動かなきゃいけないのだ。
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