長篠の戦い。武田軍が用いた馬はポニーのような国産の馬だった。
天正3年(1575)、織田信長と徳川家康の連合軍は、長篠の戦いで武田勝頼に勝利した。そのとき武田氏は最強の騎馬軍団を擁していたというが、いったいどのような馬を使っていたのだろうか?
長篠の戦いの際、織田・徳川連合軍は最新兵器の鉄砲を用い、武田氏の騎馬軍団を3000丁の鉄砲の三段撃ちで打ち破ったといわれている。しかし、近年の研究によると、3000丁の鉄砲の三段撃ちは疑わしいとされ、武田氏の騎馬軍団の存在も疑問視されている。
鉄砲対騎馬軍団という構図は、小瀬甫庵の『信長記』に書かれたものである。同書は客観的に書かれた太田牛一『信長公記』を下敷きにして、かなりの創作が施されている。したがって、近世初期に成立したとはいえ、歴史史料としては使えないと評価されている。
元亀3年(1572)の武田氏の軍役を確認すると、戦闘員28人のうち騎馬は3騎と少ない。その理由は、馬が高価だったからで、何も武田氏に限ったわけではない。したがって、上級の武将は馬に乗って出陣したが、残りの多くの下級兵士は徒歩で戦場に向かったという事情があった。
平成元年(1989)、武田氏の居館だった躑躅ヶ崎館で発掘調査が行われた。その際、一頭丸ごとの馬の骨が発掘されたのである。馬は肩甲骨が発達しており、手厚く埋葬されていたので、武田氏が用いた軍用馬ではないかと推測されている。
発掘された馬の骨を分析した結果、その体高は126cmだったことが判明した。明治以降、日本の在来種の馬は、西洋の馬と雑種化が進行したので大型化した。ところが、本来の日本の馬は、体高が150cmに満たない小さな馬で、ポニー並みだったのである。
日本の馬もそれなりのスピードで走るが、競馬で用いられるサラブレッドのように速くなく、持久力も乏しいと言われている。重量のある甲冑を着用した武者が日本の馬に騎乗し、戦場を駆け回るのには適さなかった。こうしたことも、武田氏の騎馬軍団の存在が否定される根拠になった。
フロイス『日本史』によると、日本人は戦うときに馬を降りたという。それは、上記の事情を裏付けているのかもしれない。映画「影武者」では迫力を出すため、体高約160~170cmのサラブレッドを用いたという。