先日亡くなった学生時代か
らの親友のバイク乗りは映
画好きで、私と『彼のオー
トバイ.彼女の島』(1986)に
ついてよく語り合った。細
かいマニアックなところま
で含めて。コロナビールを
ライムワンシェイクで飲み
ながら横浜元町や目黒通り
の店とかで。
特に私が横浜から都内転住
後には私の部屋に彼は実に
何度も何度も遊びに来た。
かなり酔っぱらって仲間を
引き連れて来た事もあった。
私も彼の家に何度も行った。
個人的な相談事も互いにし
たし、バンド活動もやって
いた。続けていた二輪の社
会運動や自分たち自身の今
後の方向性などについても、
情勢と照らし合わせて二人
で真剣に話し合ったりもし
た。
ホントに一緒によくバイク
も2台や3台で走ったし、飲
み歩きや遊び回りとかに行
ったりもした。彼に頼まれ
て何度か私がセッティング
した事もあったし、また彼
のほうからセッティングし
たりしたこともあった。
真面目なシーンでは、状況
から絶対に逃げない、とい
う点で私たちは共通の死生
観的立脚点を互いに持って
いた。堅いものとして。
そして私たち二人+乗り仲
間でもある主任代理人弁護
士+新たな組織代表(三代目)
で相互に確認した事は「運
動と組織を絶対に私物化し
ない」という事の徹底再確
認だった。このことは突然
到来した事態の中間総括と
して中央部の確認事項とし
て議論され尽くした事だっ
た。これは事務局の中でか
なり議論され、徹底事項と
して全体承認された。個人
ではなく動く主体全員で前
に進む案件だから当然だが、
そうした確認の徹底をしな
ければならない事態が突然
予期せずに訪れたからだ。
でないと運動そのものの破
壊者に自分がなりかねない
からだ。
到来した事態に猛烈に憤慨
した年配の人もいて、他に
もかなり厳しい意見も出た
が、中央編集長の私は静観
という態度を示した。親友
の彼は苦虫を嚙み潰したよ
うな顔で「ノーコメント」
とだけ発言し、更に意見を
求められても不機嫌そうに
「ノーコメント」とだけ答
えて黙して語らずを貫いた。
私よりも多分ずっと辛い思
いだったろう事がありあり
と解って、見ている私もと
ても辛くなった。
その時以降、私と親友と新
代表と弁護士で中心部の中
心を担い切ろうと誓い合っ
た。まだ若かった私と友の
二人のその状況下での落胆
は言い表せないものがあっ
た(二人とも奈落の底に落と
された気分だった)が、共に
我らは最後まで投げ出さず
にやり抜こうと相互に膝詰
めで話し合い、確認した。
兵士のように、確認後グー
で軽くパンチを合わせた。
日本でいうなら武士の金打
(きんちょう)のようなもの
だっただろう。
そして、今でもはっきりと
覚えているが、グーパンの
後にあいつは「これからも
よろしくな」と何を思った
のか私に握手を求めて来た。
驚いた。よせやい、気持ち
悪い。
だが、あいつの眼は真剣そ
のものだった。
きょうでサヨナラではなく、
きょう以降、二人でやって
こうなという日に、あいつ
はまるでそのうちいつか自
分がこの世から消えるのを
悟ったかのように、普段そ
んな事をしないのに、握手
を求めて来たのだった。
私は固くあいつの手を握り
返した。「頼むぜ」「ああ。
こちらこそ」と交わして。
以降、私とその友は公私に
亘り、堅いタッグとなった。
時代の流れの中である特定
状況下にポツンと捨てられ
たように残された私たちは、
互いに密に意思疎通をしな
がら最後の最後まで歯を食
いしばって共に頑張った。
そして、中央事務局の仲間
たちと共に1万6000人の公
的意思の代表の中心部分と
して、歴史的な、情況を突
破する事を成し遂げたのだ
った。
実際に現実的に社会構造の
変化をみる直前の最後の決
議を運動体の仲間たちと共
有する集まりには、私と彼
とバイク2台で山中湖まで
一緒に早朝都内から走って
行った。
私たち二人が行かなければ
ならない最後の話し合いだ
った。
1989年の秋の事だ。
集まりでは友は「みんなへ
の説明はあんたに任すよ」
との事で、私が現状況と弁
護団としての訴訟の流れと
帰結の説明をした。学生時
代が終わり、私は就職した
法律事務所正職員のパラリ
ーガルとしてもその訴訟に
関わっていたからだ。
私は公的にもプライベート
でも絶対にその訴訟案件を
途中で放り出す訳にはいか
なかった。
裁判書類の清書打ち込みも
私が職務としてもやった。
私たちの1983年からの足掛
け7年に亘る運動の成果を
確認して、運動体の解散を
する全体決議の提案を事務
局中央からのチューターと
して集まった仲間たちに私
が皆を説得するように提案
説明した。
それとは別に山中湖への道
中、今では笑い話となるハ
プニングエピソードが友と
私の両方にいくつかあった
が、それはまた別の機会に。
私たちはやり抜いた。自分
らの力で。最後まで諦めず、
日和らず、逃げずして。
私たちは本物の親友であり
盟友であり同志であり、何
よりも Best Fellow だった。
それは彼が死する時まで。
彼は死ぬ最期まで裏切らな
かったし、私も彼を裏切ら
なかった。
殴り合い寸前の熾烈な喧嘩
や対立をした事もあったが、
どちらともなく腹割って話
を詰めて、互いが己に自己
切開と自省の刃を向けて真
摯に接する事ですぐに打ち
解けた。意識は同列であり、
上下関係も先輩後輩も優劣
関係も無い。
同列であるには深いところ
での互いに敬意の存在がな
いと関係性の構築は不可能
だ。
本音で本気で付き合う者同
士とは得てしてそんなもの
だろう。無論、杓子定規や
他人行儀や慇懃無礼は存在
しない。
死んでしまった彼を思い出
しながら、以下の記事を再
掲したい。
----------------------------
映画『彼のオートバイ.彼女
の島』の時間軸の確認。
本作品は、主人公の橋本功
(コオ)の回想録としてナ
レーションで過去を語られ
る表現が採られている。
そのため、映像において時
間軸は行ったり来たり錯綜
する。
回想の中での回想シーンも
あるので、「今」は一体ど
こなのか分からなくなるが、
この作品での物理的な「今」
はナレーションしている未
来の時であり、1986年公開
時(撮影は1985年)より未
知の未来から1986年時点の
現在(それとて撮影時点の
1985年には未来)を回想し
ている組み立てとなっている。
オープニングは巧の回想ナ
レーションで始まる。
「思えば、あの頃はずいぶん
出鱈目な毎日を送っていた
ものだ。それが若さのせいだ
とはとてもいえないだろう。
僕は音大の学生だったが、
アルバイトで現行の輸送を
していた。
それは一人の女の子の紹介
でありついた極めて僕向き
のアルバイトだった」
いきなり回想ナレーション
だ。
そして、回想の中で回想シ
ーンが出て来る。
「女の子」とは沢田冬美
(渡辺典子)だ。
1980年代当時流行の雑誌で
出会いを求める「ペンパル」
募集によって出会う。今で
いう出会い系マッチングア
プリみたいなものなのだが、
当時は文通から始まった。
この冬美の住所は架空であ
る。
東京都練馬区中村は三丁目
までしか実在しない。
ここにすでに物語上の錯誤
が出て来る。
この冬美と出会うきっかけ
になったバイク雑誌は物語
上1984年物なのだが、1985
年に発売されたスペンサー
GP-1(¥33,000)とタイラ
レプリカ(¥32,000)が掲
載されている。
物語の上ではまだ存在しな
い物品が掲載された雑誌を
「過去」にコオは観ている
ことになる。
時間軸錯綜の大林手法だ。
この作品は基調がこの方法
で進行する。
冬美との出会い、信州の白
糸の滝へのキャンプツーリ
ングでコオは冬美の兄が仲
間と経営する全日本急送と
いうバイクプレスのバイク
便の仕事がある事を知り、
冬美に紹介されてそのバイ
トに就く。
信州行きは1984年だ。
冬美と関係を持った事によ
り、冬美の兄の沢田から職
場前の路上でコオはぶん殴
られる。
そして、冬美を忘れようと
深夜に都内のアパートを飛
び出す。
「極彩色の夢を見る奴がいる
という。
しかし、僕の夢はいつでも
モノクロームだった。
これは、いわばモノクロー
ムの夢の物語である」
というナレーションと共に
モノローグから本編が始ま
る。
そして1984年の「夏前」に
信州で白石美代子=ミーヨ
と出会う。
「風が彼女を運んできたよ
うだった」
と。
ミーヨはキャノンのニュー
キャノネット28(1971年
発売)でコオを撮影する。
雨に降られたコオは、革ジ
ャンをしまって走り、冷え
た体を温めようと温泉に入
る。
その法師温泉(群馬県利根
郡みなかみ町)でコオはミ
ーヨと再会し、旅館までカ
ワサキで送って行く。
東京に戻り、コオは冬美と
別れた。
泣く事と料理を作る事しか
知らないつまらない女だと
いうのが理由だ。
「あたしはね、一緒にいら
れるだけでいいの」
冬美の甲斐甲斐しさはコオ
には苦痛となった。
冬美と別れる事になり、コ
オは責任を取れと言ってい
た沢田の兄と決闘するはめ
になる。
決闘はバイクでの騎士同士
のようなすれ違いでの木刀
での殴り合いだ。
コオが勝ち、沢田は入院す
る事になった。
コオは冬美と別れた事を大
学の友人の小川に告げる。
場所はカフェ「道草」。
(撮影ロケ地不明。けた下
2.2Mの低い東急線ガードの
S字の横にある。推定自由
が丘)
コオが渡した入院費51万円
(本稿記述時の2021年価値
で約97万円)を冬美が「道
草」に返しに来た。
コオとも別れを告げて。
コオが作曲した歌を歌い、
泣きながら冬美は店を出た。
その晩、アパートに戻った
コオの元に一通の手紙が届
いていた。
差出人は
「〒663 兵庫県西宮市北追
川町2-5すみれアパート 白
石美代子」とあった。
この北追川町という住所は
実在しない。
そして、手紙を読んでいる
時にミーヨから電話が入る。
その電話越しにコオは大林
監督作詞作曲のくさい歌を
歌ってミーヨに聴かせる。
♪オッホーというやつ。
ミーヨの誘いで、コオは彼
女の島へ夏旅をしてみるこ
とにした。
本州からフェリーに乗り、
瀬戸内海の小さな島へ。
このフェリーのシーンは全
く彼女の島とは関係のない
航路の船で撮影されている。
原作での彼女の島は岡山県
の白石島だ。
源平合戦の落ち武者を悼む
白石踊りが残されている島
である。
白石踊りは武士の合戦描写
を描いた踊りだ。
映画では広島県尾道市の岩
子(いわし)島で撮影され
た。
このフェリーは伯方フェリ
ーという船で、現愛媛県今
治市の伯方島の北浦から現
広島県尾道市の生口(いく
ち)島の五本松を結ぶ船だ
った。1999年の高速道路の
しまなみ海道開通により廃
止された。
撮影では旧北浦港にコオは
上陸する。
そして、場面が変わり、岩
子島でのロケ地に入る。
ここが映画上の「彼女の島」
だ。
この畑は私が設立した三原
撞球会のメンバーの持ち畑
だ。
私が先年ロケ地探査訪問し
ている時、たまたま数年ぶ
りにここでその友人と偶然
再会した。ここでは分葱
(わけぎ)を作っている。
専業農家ではなく、彼は
趣味で今はやっている。
瀬戸内はワケギの栽培が盛
んで、三原市内の島は出荷
量全国一だ。
ヌタにするとこの上なくウ
マい。
彼女の島でコオはミーヨと
再会する。岩子島小学校
(現在廃校)が見える坂の
途中までミーヨが迎えに来
る。
その坂はこの映画を愛でる
人たちにとっては一つのモ
ニュメントのような場所と
なっている。
岩子島小学校の校長と住職
を兼任するミーヨの父(田村
高廣)に誘われて、コオは島
の盆踊りに出かける。
その盆踊りの踊りは三原の
やっさ踊りの変形のような
踊りだ。
そして数日が過ぎ、コオは
小学校の校庭でミーヨにカ
ワサキW3を運転させる。
ミーヨにはライディングの
才能があり、コオは驚く。
盆踊りの晩に、海に浮かぶ
鳥居の浜で二人は気持ちを
確かめ合う。
この場所は『男たちの大和』
でもロケで撮影された。
あの映画には友人たちが何
人かエキストラで海軍軍人
の役で参加している。
ちなみに、機銃掃射で倒れ
るかわいい女優さんは、そ
の浜辺の海の家跡地に移り
住んだ私の友人宅で寝泊ま
りしていた。
ホテルではなく友人宅で歓
迎され、気に入ってそこで
寝起きして撮影に臨んでい
たようだ。
今でも「岩子島のお父さん、
お母さん」と手紙が来ると
いう。
とても性格が良く、魅力的
な少女だったと撞球仲間は
私に言う。彼は撞球会では
ないが、尾道市内でビリヤ
ードカフェを経営している
古い知己だ。
東京に戻りバイトに明け暮
れていたコオの職場に沢田
が退院して戻って来た。
「俺とお前との間にはもう
何もない」
とサッパリしている。江戸
前風味。
そこにミーヨから電話がか
かってくる。
コオに会うために西宮から
上京して来たのだという。
ミーヨを迎えに行き、バイ
クの後ろに乗せてアパート
に戻るコオ。
コオのアパートには友人の
小川が遊びに来ていた。
小川は音楽大学卒業のため
の作曲をしている。
コオは自分のことを「落第
してもう一年」と言う。
この時、映画の流れから
すると冬美と出会った翌年
の1985年。
彼ら二人は大学4年生とい
う事になる。
設定は映画ではコオもミー
ヨも22才だ。
コオと小川、ミーヨの三人
はスナック道草に歩いて食
事に行く。
コオのアパートは狭い路地
の下り坂の途中にあり、坂
の上には寺の建物がある。
アパートの坂上隣りも寺院
の敷地、坂下の隣も寺院の
墓地。
つまり寺の敷地にぐるりと
囲まれたアパートがコオの
住居だ。部屋は203の二階
部分。向かいは古い家屋の
民家。
道草に行った三人は、そこ
で専属歌手として歌を歌っ
ている冬美を見る。
実は冬美と小川は「できて
いた」。
初見でコオの曲を譜面を見
ながらそこでピアノ弾き語
りで歌うミーヨ。
かねてからの計画通り、小
川の卒業作品の構想練りの
ために、通行四輪車のミラ
ーを叩き壊す行動をコオと
小川は実行する。
環八沿いで次々と四輪車の
ミラーを割る小川と追跡車
を妨害するコオ。
そして、事を終えてスナック
道草に集結した。
そこに1台の250が追いかけ
て来た。小川の250に乗った
ミーヨだった。
無免許運転かと思い激怒す
るコオにミーヨは免許証を
見せる。
このシーン、映画の時間軸
確定で決定的な映像となる。
ミーヨの免許証の内容はこうだ。
・交付昭和60年2月14日05140
・昭和63年の誕生日まで有効
・(二・小・原)昭和54年08月20日
・(その他)昭和57年03月09日
コオ「中型免許・・・」
ミーヨ「西宮で取ったの」
ミーヨは1984年にコオと出
会い、彼と一緒に走りたい
がため、1985年2月14日に
自動二輪(中型限定)免許
を取得したのだった。
小型二輪免許は1979年8月
20日の時点で持っていた。
このシーンの描写から、こ
のスナック道草での時間軸
は1985年時点であることが
確定的となる。
そして、ミーヨは小川の250
を借りてコオと信州にツー
リングに出かける。
バイクのコーナリング方法
や走り方の基本をコオはミ
ーヨにコーチする。
ミーヨはよく乗れていた。
(走行時の撮影はスタント吹替)
信州でロケ。
二人はキャンプツーリング
を楽しんだ。
「それからしばらくして」、「僕
たち」は「サーキット場」
にいた。
冬美の兄の沢田たちとコオ
とミーヨは伊豆のサイクル
ランドに来ていた。個人的
走行練習会のためだ。
そこでミーヨは沢田のW1
(1971年製47PS)に乗せて
もらい、非凡な才能を見せ
た。
免許を取ってまだ3ヶ月と
聞いた沢田はコオに
「死ぬぞ。彼女の事が大事
なら彼女をオートバイに
乗せるな」
と告げる。
ちなみにカワサキW1は1966
年発売の650の車両で、当時
国産最大排気量の二輪だった。
ここでも時間軸が明らかに
なる。
免許を取って3ヶ月。
この伊豆での走行会はミー
ヨの免許取得の2月から3ヶ
月後の5月ということになる。
その後、雨の頃のシーンへ
と移るので、このあたりの
時間軸は錯綜していない。
いつしか二人はコオのアパ
ートで同棲するようになっ
ていた。まだ夏前の雨季。
雨が続いてバイクの乗り方
教えてくれないとミーヨは
ぼやく。
「いつナナハン免許を取ら
せてくれるの?」
と尋ねるミーヨにコオは
「夏のツーリングに間に合
えばいいんだから」
と答える。
二つの事が判る。
それはミーヨは「従う女」
であった事と、この時が夏
以前の雨季である事だ。
この何気ない描写は大切で、
その後のミーヨの「転」の
布石となるシーンだ。
コオの仕事仲間が事故に
遭い、急遽コオが代理で
原稿を届けることになる。
雨だし近くだから250で行く
とコオはミーヨに告げて出
かけた。
「いってらっしゃい」と見
送るミーヨ。
だが、仕事を終えてコオが
アパートに戻ると、カワサ
キが無い。
ミーヨもいない。
ミーヨはどうしても乗りた
かったからと勝手にコオの
革ジャンを雨の中着てW3
を条件違反(中型免許で
大型運転は無免許運転で
はなかった時代)で乗って
いたのだった。
戻って来たミーヨを詰問し、
大雨の中、殴り合いとなる
二人。
コオはミーヨの覚悟と熱意
を感じ、ナナハン免許(自
動二輪限定解除の当時の俗
称)を取ることを許すのだ
った。
「それから半年過ぎた」
コオに大きな変化が起きた。
・冬美が小川の子を身ごも
った
・ミーヨがいなくなった
・「僕のカワサキ」もなく
なった
・置手紙が残され、ミーヨ
が島に帰る事を手紙は告
げていた
「夏が近く僕は苛立っていた」
1985年の雨季から半年が
過ぎた
というのは凡そ同年の11
月頃だ。
ここで矛盾が出て来る。
雨の殴り合いから半年。
それから半年後の11月頃
ミーヨがいなくなった。
だが、その時コオは
「夏が近く苛立っていた」
のだ。
夏が近い?
さあ、本当の「今」の季節
はいつであるのか。
時期不明の頃(のち判明)、
コオは市ヶ谷でずうとるび
の新井君が運転する大宮ナ
ンバーの四輪車とトラブル
になり、暴行で飯田橋警察
署にしょっ引かれる。釈放
時のガラ受けは大学の友人
小川がCB400フォアで迎え
に来た。
コオはミーヨが乗っていた
小川の250を借りていた。
道草に行ったコオと小川の
前にお腹が大きい冬美が店
員として現れた。
そして、「きのう小包が届い
たの」と言う。
ミーヨから赤ちゃんの産着
と手紙が添えられていたと
告げる冬美。
そして、コオのことは何も
書かれていなかったが、そ
の手紙はなんだかコオにあ
てたようだった、と。
「ひとっ走りどうだ。彼女
の島へ。表に俺のCBがある」
と小川はコオにキーを投げ
る。そしてウインクする。
てんで台詞と風貌が合って
いない。この違和感爆発は
何なのかよく分からない。
撮影上意図したものではな
いだろう。
大林映画はマジモンでズレ
ずれの描写を本気で「イカ
したかっこいいもの」と
思って描いているフシがあ
る。戦後間もない日活無国
籍映画のような事を1985年
時点で本気でカッコいいと
か思って撮っているフシが
ある。
実際のところは1986年時点
のバイク乗りたちはこの映
画を「お笑いのネタ」とし
て捉えて観ていた。
だが、スルメイカ映画なの
で何故か引き込まれて何度
も観ている。多くのバイク
乗りたちが。
大林マジックなのだ。
だが、正直なところは、出
演者の演技は超絶学芸会以
下だ。
観るに堪えないしどさ。
コオは小川のヨンフォアで
彼女の島へ行く。
島では昨年のように盆踊り
をしている時期だった。
コオは盆踊りの中にバイクで
乗り付ける。
ミーヨは予想していたように
待っていた。
そして二人は「彼女の島」か
らバイク二台で走り出す。
ミーヨがコオのカワサキに乗
り、コオは小川のヨンフォア
で。
まずは、瀬戸内海沿岸。
ここは向島(むかいしま)。
そして尾道三原(尾三=びさ
ん地区と呼ばれる)北部のエ
リアと三次(みよし)市内。
これは三次市内の県道28号線。
「この先の橋のたもとにドラ
イブインがある。そこで待っ
てる」
と
コオはミーヨに言う。
このトンネルの分かれ道は広
島県御調郡御調町、現尾道市
木ノ庄畑のトンネルだ。
二人は別々のルートをお遊びで
走ってみる。ここはロケ地尾道。
だが、物語上の「この先」は、
実際のロケ地は畑のトンネル
から約880km離れた群馬県の
国道17号線ぞいのドライブイ
ンだった。
この映画の撮影時には山陽自
動車道は開通していない。
東名もしくは中央高速を使っ
ても、尾道のこのトンネルか
ら群馬県のドライブインまで、
撮影隊の移動は大移動という
ことになる。
それを映像編集で一回のツー
リングのシーンとして繋げて
違和感がないかのようにして
いる。
こうした手法は映像作品では
よくある。
仮面ライダーが街中でショッ
カーと対峙して「トゥ!」と
ジャンプしたらなぜか山中の
鉱山での撮影地に降り立つ、
みたいなものだ。
あくまで物語では新三国大橋
を「この先の橋」とした設定
だ。
ドライブイン一美の現住所は
群馬県利根郡みなかみ町吹路
99番地。
現在このドライブインは廃業
しており、廃墟となっている。
しかし、2018年から駐車場部
分で車両出店による軽食と、
駐車場に遊戯エリアを架設し
た「グンマーSARAアジト」が
店舗を構えるようになった。
このドライブイン一美(かずみ)
で、先着したコオが待っている
中、トラック運転手たちが話す
女ライダーが大事故でつい先ほ
ど付近で即死した事を耳にする。
もしやミーヨかと不安になり外
に出たコオの前にミーヨが到着
する。
雨がひどくなってきたので革ジャ
ンを途中で脱いでいて遅れたの
だった。
「ごめんね。遅れちゃって」と
ミーヨは屈託のない笑顔を見せ
た。
「ミーヨ・・・」と安堵の吐息
を漏らした回想シーンから
コオのナレーションが入る。
「一つの夏ともう一つの夏の
間に彼女はいた」「彼女は僕
の物語となった」
この重要なシーンはブルーレ
イ版の字幕では「ミーヨ・・・」
ではなく「いいよ」になって
いる。最低のメディア円盤製
作者の仕事ぶり。
「この記念写真から何が始
まるのだろうと今度彼女に
きいてみよう。
そんな事、人にきくもんじゃ
ないわときっと彼女は答え
るだろう。
すると風が吹くだろう。
時はまさに夏だろう。
そして、夏は僕にとって、
ある心の状態なのだ」
この草原の写真が撮影された
のは、状況からして1986年と
いうことになる。
回想する「僕」がミーヨに今
度尋ねてみるのは「夏だろう」
としている。
そして、たぶんそれは、生き
ているミーヨではなく、「物
語となった」ミーヨであり、
ミーヨの遺影に向かって尋ね
てみるコオがそこにいるのか
も知れない。
伏線と含みが多すぎるこの映
画の作り込みの延長では、そ
のような結末しか想定できな
いともいえる。
だが、大林監督はインタビュー
ではカラーとモノクロで重ね
撮り交差撮りしたのはたんな
る気まぐれと嘯く。
はたしてそうか。
大林監督は言う。
ミーヨはモノクロで撮ろうと
宣した、と。
だが、カラーは生きている者
たちの「命」であり、モノク
ロームは「去った者」の「物
語」ではなかったろうか。
この映画は、そうした「まだ
見ぬ未来」を予見させる映画
作品として、いつまでも観る
者の心を釘付けにする。
(2021年記)