掛け算の順序問題の不毛な議論の構造的原因 なぜ決着しないのか
背景
Twitter(X.com)で掛け算の順序指導を少しでも支持するや否や罵詈雑言のリンチに遭う状態が10年以上継続しているようだ。
真面目で誠実な小学校の先生等の教育関係者は悪意ある反順序(順序指導否定派)とも向き合い、そして傷ついたことであろう。お疲れ様でした。
私は1年以上この界隈をウォッチしてきた順序肯定派であるが、反順序な意見や反順序指導はそれはそれで尊重するという立場である。
概要・目的
まず、議論という構造を俯瞰し、討論はどうやるべきかを説明する。
そして、反順序の思想に触れつつ、彼らの議論や討論が破綻していることを見る。
これと関連づけて反順序がどういう人々なのかをまとめる。
以上をもって、殆どの反順序は討論の作法に反するので無視しても構わない、ということを読者に納得いただくことを目指す。
反順序に絡まれたときに「貴方がこの記事の通りでないなら話聞くよ」とフィルターとしても使えるよ。
注意
ここで言う「反順序」とはSNS上で活躍している者を念頭に置いている。反順序な意見を持つこと一般を批判するものではないので悪しからず。
議論の構造
議論とは主張を矢印で繋いだネットワークを成す体系である。
ある主張があるとき、その根拠を問うことができるだろう。
また、ある主張を元にして新たに言えることもあるはずだ。
根拠を始点とし、そこから言える帰結を終点とする論理的矢印の連鎖をイメージできるだろう。
公理・定義
ある主張の根拠となる主張のそのまた根拠...
このようにどこまでも根拠を掘り続けられる。一体どこまで繰り返せば終わるのか。
そこでこれ以上根拠を辿れない主張をエイヤと置く。根拠?知らん!これは正しいんだい!とね。
無根拠に置く議論の出発点となる主張を数学では「公理」と特別に呼ぶ。以後、主張の大元にある根拠を公理と呼ぶことにする。
なぜこれが特別なのか。それは、出発点となる主張が定まったら、そこから言える主張も論理によって半ば自動的に決まってしまうからだ。
公理は議論の帰結を支配する。
定義も公理と似たようなものである。エイヤと決めるものであるという意味で同じだからだ。
討論の作法
以上を踏まえて、相手の意見にケチをつけるためにはどうすればいいのか。
公理が間違ってると指摘することはできない。公理は無根拠に定めるものだから。
前提が変われば結論も変わる。当たり前だ。公理が違えば異なる議論、結論、意見になる。当たり前。価値観が違うから意見も違うというだけだ。
ただし、議論内で矛盾が出ることを指摘された場合はその議論を捨てるなり公理を見直すなりしなければならない。
つまり、討論でやるべきは3つ。
相手の公理を把握すること
相手の議論の中での矛盾や推論の間違いを発見すること
それができないのなら意見が平行線になるのは妥当だと理解して討論をやめること。
これが作法である。
反順序との議論が成り立たない理由
貴方も反順序の一方的な意見の押し付けを経験しただろうか。
意見や公理が俺と違う!あいつは間違ってる!という主張は意見の平行線の妥当さを解さない者の所業である。
討論では相手の土俵に入って公理を共有する必要がある。
相手の前提も矛盾も気にせずに、俺の公理、帰結が正しいんだ!でゴリ押しする無作法な反順序がよくいる。メッチャいる。
その場合、そいつは論理を理解してないので避けるのが賢明だ。自信を持って撤退しよう。時間の無駄だ。
これが判断基準レベル1である。正直、これだけで十分なフィルターではあるが、さらに反順序と噛み合わない理由を掘る。
数学は自然科学ではない
反順序が大合唱するキーワードがある。独自見解、独自定義、お気持ち、ご都合主義、ローカルルール、反科学、カルト、宗教などだ。
要は順序肯定を支える公理を無根拠だと批判しているわけだ。
たしかに、物理法則など制約はあるわけで、それに反した無根拠な「これは正しいんだい!」は通らない。
自然界の正しさは人の考え方に依らずに決まってしまうからだ。
自然科学と数学の違い
でもさ、完全に論理的な営みである数学にそんな制約あるんか?ないよね。
なので、数学は自然科学ではなく、人文学として分類される。
https://mojix.org/2013/03/02/suugaku-jinbun
宗教だって、神がいることを公理とした論理的な体系だったりするわけである。
しかし、神の有無をどうやって確かめられるのだろうか。そう確かめようがないのだ。
それが本当かどうか確かめられるか。これは科学と非科学を分かつもののひとつであり「反証可能性」と呼ばれている。
では、「本物の掛け算」を問うことができるのだろうか。
実在主義という信仰
数学の正しさは他に類を見ないほどである。エイヤで定めたはずの公理から始まる数学によって正当化されたものはことごとく現実でも正しい。
これは「数学の不合理な有効性」と呼ばれている。
故に数学の公理が恣意的なものなわけがない。それは自然界を支配する普遍的な実在であるに違いない。
こういう思想は「実在主義」と呼ばれていて、反順序の根底にある。
数学的な何かが存在していて、数式はそれを指し示している。それをローカルな決め事(算数の指導法)で歪めることは何事か!という発想だ。
数学的実在は本当にあるかもしれない。しかし、それを確かめる術はない。オカルトなのである。
同一性に及ぶ実在主義
算数では 2×3 は 「2を3回足す」みたいな「同じ数を繰り返し足す」こととして一貫して扱われる。
「2を3回足す」のと「3を2回足す」のは明らかに違う。九九でも2の段と3の段では同じ数を2とするか3とするかで異なる。
通常、これで理解できる。小学生でも分かる内容である。
しかし、反順序は 2×3 と 3×2 は同じ6であり全く違いはない、としてこれを認めない。
6と名付けられた数学的実在が先んじてあって、その別名の1つが 2×3 である、というのが反順序の数式の理解である。
2×3 も 3×2 も 同一対象の別名に過ぎず、字面の違いがあるに過ぎない。こういうことらしい。
この理解の延長すると、交換法則 2×3 = 3×2 は 「2を3回足す と 3回2を足す のは同じ、というか元々同じ」となる。
一方で算数では「2を3回足すのと3を2回足すのは同じ数になる」だ。アレイ図の回転によって、縦と横のどちらをひとまとまりとするかを入れ替えても総数は変わらない、という説明が算数にはある。
算数の解釈が正しいのか、反順序の解釈が正しいのか、どう判断すればよいのだろうか。
掛け算や数という概念は自然科学では問えない
掛け算の正しさを実験することはできない。
掛け算の公理・定義に従ったら何が言えるのか、という純粋に論理的な問いについて考えることしかできない。
なぜなら数自体がそういうものだからだ。飴が3個あるように見えるだろ!何言ってるんだ?そういう反論が聞こえてくる。
じゃあその飴を砕いてみようか。すると3個というのはどこかへ行ってしまう。
現実にあるのは素粒子の集まりに過ぎない。飴が3個あるというのは、何らかのまとまりを1とするような人間の見方に支えられている。
数とはどういうものか。掛け算とはどういうものか。この問いに自然界は答えてくれない。
議論の構造を思い出していただきたい。この議論における公理から帰結を得るだけである。
「ホントの掛け算」など知り得ない。その議論で掛け算をどう定めたのか、掛け算をこうとしたら掛け算はこうだ、と言えるだけだ。
公理に含まれたものを結論するだけのトートロジーが演繹である。
公理系は概念の表現のひとつ
掛け算の定め方の数だけ議論が分かれる。同一概念を対象としていてもだ。数学ではこういうそれぞれの議論を「公理系」と呼んで区別する。
公理系は概念の言語的表現の一つであり、いろんな言い回しがある。同一概念に対する複数の言語化の流儀があり、それぞれで議論のネットワークは異なる。
自然科学ではこういうことは起こりにくい。その公理や帰結の正しさを実験で確かめられるからだ。
算数は自然科学ではないので、色んな公理系が普通にあり得る。
掛け算を日本の算数と逆順に習う国もあるし、因数×因数として順序を気にしない国もあるのはそういうことだ。
流儀の違い
同一概念の異なる表現の例として、左側通行や姓名順序などがある。掛け算順序肯定派がこれらの例を持ち出すのはそのためだ。
しかし、反順序には突如意味不明な話が展開されたようにしか見えない。「交通ルール?姓名の順序?そんな話、掛け算と何の関係があるんだ?」という感じ。
なぜなら、議論の構造への無理解と数学的実在への信仰があるためだ。
「数学の議論はここにある。掛け算に順序はない。これは数学的実在に裏付けられている。俺が理解しているものだ。この理解が唯一正しい。なのに何で別の話を始めてるの?」となる。
しかし、交通ルールと姓名の順序は、まさに掛け算の順序問題と同様の問題だ。
日本では左側通行、アメリカでは右側通行という違いがあるが、どちらが本物で優れているかなどない。どちらもその国で定められたルール(公理)に従っているだけだ。
日本では「姓・名」、西洋では「名・姓」の順だが、これも文化的な流儀(公理)の違いに過ぎない。
信念の中間層としての公理系
公理系とは、要は主張を無根拠な仮定までブレークダウンする考え方である。
ポイントは全て仮定から始まるという点である。
「これは正しいんだ!」という信念を一歩引いて見る。思い込みを排除する。ここに数学が客観性を保てる源泉があるように思う。
流儀や信念の相違を体系の違いとして理解すること。
私は「公理系」という考え方に感銘を受けたものだが、数学に自信を持つ反順序には伝わらなかったようだ。
反順序の生態
反順序とは「数学的実在がある」という公理を持つ、議論の構造や討論の作法を理解しない者たちである。
自身の流儀と異なる理解のものを自然法則に反するが如く間違ってると断定する性癖の持ち主が多い。
話を聞かない反順序
反順序は相手の公理を把握しようとする習慣がない。
議論の構造や討論の流儀を理解していないので、論敵の主張の根拠は何かを全く気にしない。逆順バツ?!ケシカラン!しか見えない。正しいのは自分の意見であり、これと一致しない瞬間に偽と断定する。
そんな反順序に根拠を頑張って示そうとするのは悪手てある。指導要領解説や教科書を示しても、逆順バツスルナー!真理に反するな!権威を盲信するな!となるわけだ。
その結果、反順序は長年掛け算界隈にいるはずなのに、順序肯定の意見を全く把握してないに留まらず、
交換法則を否定するのか?!
2×3が数であると理解してないのか?!
など、順序肯定の根拠にこのような勘違いがあるのではないか、と疑う始末である。いや、あり得ないだろ。
反順序は議論のネットワークが個別にあることを理解していないが故に、相手の主張の前提を理解しようとしない人々なので、あまり真剣に相手しなくて良い。
反順序エコーチェンバー
反順序のアカウントを覗いたことがあるだろうか。彼らの殆どは高頻度で政治系や反ワクチンなどの話題をリポストする。
彼らは自身の理解が自然法則に準ずる真理だと確信しやすく、リポストによってその真理を拡散することは世直しのための善だと信じているに違いない。
そして意見が異なる者を正義の名のもとに一致団結し、「異教徒」を弾圧する。そこに躊躇はない。
自身と異なる見解は誤りに決まってるので、それを修正して「あげたい」。そういう上から目線が彼らには標準搭載されている。
算数以外の「誤り」を含むポストにも大挙してこれを反科学の名のもとにリンチする。
反順序エコーチェンバーとは、科学私警察集団でもある。
反順序の活動動機「恨み」
反順序を観察した結果、彼らはは昔学校で嫌な目にあったのを根に持っている人がかなり多かった。
俺はこんなものではない!もっとスゴイ!正当に評価できない雑魚教師!という気持ちで先生叩きをしているようだ。
それと符合するかのように、彼らは先生の説得を目的にしてないようだ。説得に失敗しても「これだから小学校教員は、┐(´д`)┌ヤレヤレ」と仲間内でボヤくだけなのだ。どこが失敗要因なのか、どう説得すればよかったのか。このような反省はなく、説得に成功しようとする意志がないようだ。
結び
以上、反順序とはなぜ議論が成り立たないか、どういう人たちなのか、を自身の経験を元に論じてみた。
相手する前にこの記事をぶつけてみてください。
意見が異なるだけでマトモな人もいるのではないかと1年間期待して観察し続けたが、悲しいことに一人もいなかった。
反順序指導が主流となる未来が訪れることはないだろうと確信している。


コメント
2親が公立小学校教員だったので順序指導に一定の支持をしている。
その理由はただ一点、世の中にはおそろしいほど学力が低く何でもルール化して叩き込まないと理解できない人が一定数いるからである。また、掛け算で順序指導することで、割り算をかろうじて理解できるからである。
この落ちこぼれたちの巻き添えを食ってしまった吹きこぼれについては、親が「これは採点が間違っているから気にすることはない」「悔しかったら頭の良い人たちのいる世界へ行け」と応援するしか無い
世間一般が2x3と3x2は一緒じゃんという解像度で語る意味は分かる。だって答えは6だし、日常生活レベルでは何も困ることはないから。
数学における正しい計算方法として2x3と3x2は別物として考えるのも分かる。(学問のことは分からない素人だが、順序問題が度々話題になるのだからそうなのだろう)
でも多分、"反順序"の主張の根っこは、愛する息子や娘が頑張って解いた問題をバツにする先生が憎しの気持ちからだと思う。畏まって言えば親と先生の教育方針の違いといったところか。