スマホが何度も鳴っているのはわかっていた。だけどクライアントとの打ち合わせ中に出られるはずもない。ちらり、と横目で確認すると、会社からの着信。
用件は気になったものの、とりあえず目の前の仕事に集中する。打ち合わせを終えてビルを出ると、結衣は鞄からスマホを取り出した。不在着信は10件を超えている。
(何か緊急の用事?)
いち社員である結衣に、それほど急を要する用事がアルとも思えない。疑問に思いつつ、結衣は部署に繋がる直通番号をタップした。
「…あ、東山です。何度か電話頂いていたみたいなんですけど」
電話の相手は賤ヶ岳。入職当時から何くれとなく面倒を見てくれている先輩だ。
『お疲れ様。…電話、福永さんだから代わるね。ちょっと待って』
えー、と結衣は思わず顔をしかめる。先日、新たに就任した上司である福永清次が、結衣はどうしても苦手だった。
『…あ、東山さん?ごめんね、何度も連絡して』
「いえ。何か緊急の用事だったでしょうか?」
『あのね、種田君が倒れて救急車で運ばれたんだけど。東山さん、様子見に行ってくれないかな?』
「はい?」
明るい口調と話の中身が乖離しすぎていて、結衣は咄嗟に理解できなかった。──救急車?
『湾岸記念病院に運ばれたらしいからさ、帰りに寄って来てよ』
大根買って来て──そんな感じの軽い口調に、結衣の苛立ちは募る。
「私、まだ出先なんです。病院まで30分以上かかりますけど」
『うん、大丈夫。それにほら、種田君とは知らない仲じゃないんだからさ。そんなに嫌がらないでよ』
別に嫌がってるわけじゃない。──ってか、2年以上も前の話を持ち出すな。
『種田君もさ、君が来てくれた方が安心だと思うし』
結衣は思わず溜息をついて、軽くこめかみを押さえた。よく晃太郎が理解できない時にやっていた仕草。
「…わかりました。病院寄ってから帰ります」
『うん、宜しくねー』
部下が倒れて救急車で運ばれたというのに、この明るさはなんだろう?──ほんと理解できない、と結衣は口の中で呟いた。
福永清次、制作四部の部長。長く零細企業の社長だったらしいが、数ヶ月前に専務の丸杉が連れてきた。会社は整理した、と本人は言っているが、どうやら経営不振で倒産したらしい。
(まあ、えげつないほどブラックだったしなぁ)
社長だったわりに経営手腕は皆無。情に流されやすく、無責任。部下に苦労と努力、献身を求めるが自分は楽したい人。
つい先日まで関わりのなかった相手を、なぜ結衣がこんなにも詳しく知っているのか。それは福永清次が、かつての婚約者だった種田晃太郎の勤める会社の社長だったからだ。
納期や予算など無謀な案件を引き受けてきては、部下に無理を強いていた。その犠牲になっていたのが晃太郎だ。もちろん晃太郎だけでなく、その会社にいた多くの社員は心を病み、未だ社会復帰できていないと聞く。
深夜残業、徹夜、会社への泊まり込み、挙句の休日出勤──働きすぎる晃太郎と、それを甘受できない結衣。働き方の違いは2人の間に溝を生み、やがて婚約解消という形で別れることになった。
2年の時を経て、晃太郎は『上司』として結衣の目の前に現れた。結衣と別れたのと時を同じくして転職していたらしい。かつての婚約者にして、今は単なる上司──複雑すぎる立ち位置に、結衣は頭を抱えた。
病院の受付で確認すると、すぐに病室を教えて貰えた。脳神経外科、と言われギョッとする。
おそるおそるドアを開けると、ベッドで晃太郎が眠っていた。濃い陰影に結衣の胸は痛む。
(こんな至近距離で晃太郎の寝顔見るのって久し振りだな…)
当たり前のことを考えながら、結衣は近くにあった椅子に腰を下ろす。
かつて、結衣が晃太郎と別れると決めたのは、いつか晃太郎を喪う恐怖に耐えられないと思ったからだ。目の前で晃太郎を喪うぐらいなら、いっそ2度と会えない方がいい──そう思い、結衣は晃太郎に背を向けた。
大好きだった。ずっと一緒にいたくて、彼の1番になりたかった。でも晃太郎の1番はいつだって仕事で、その状況に結衣は耐えられなくなった。
だから別れたのだ。こうやって寝顔を見つめていると、否が応でもあの頃の気持ちを思い出してしまう。
「…結衣?」
どれくらい時間がたったのか、不意に晃太郎の声がした。ついウトウトしてしまっていた結衣は、その声に飛び上がる。
2年も前に別れているのに、晃太郎は今でも『結衣』と呼ぶ。何度「東山でお願いします」と言っても、一向に直そうとしない。
「良かった…。気が付いたんですね、種田さん」
意識が戻れば心配ないです、と病室に案内してくれた看護師から聞いていた。ホッとして結衣は言ったが、晃太郎は不可解そうな表情を浮かべている。
「…どこか痛いところあるんですか?」
「いや…。ってか、何でそんなに他人行儀なんだよ?」
「はい?」
「俺のことも『種田さん』って言ったよな、さっき」
少し考えるように視線を彷徨わせ、それから結衣を見る。
「覚えてないんだけど…また喧嘩してた?」
「え?」
晃太郎の言葉に、結衣の頭も混乱する。──何を言っているのか。そもそも喧嘩するような仲でもない。
「…あ、納品!今、何時?」
「15時だけど…。納品の予定なんてないですよ?」
「え?…いや、でも確か昨日は…。あれ?」
さすがに晃太郎もおかしいことに気付いたのか。
「ねえ、どうしちゃったの?どこか変なとこぶつけました?」
結衣の言葉に、晃太郎は不思議そうに顔を向けた。
「…何か、すごい距離感じるんだけど」
「何が?」
「やっぱり、何か怒ってんだろ?…病院なんかにいるから?」
「ちょっと待って、種田さん。何か勘違いしてない?」
「勘違いって何だよ?ってか、だから何で『種田さん』なの?いつもみたいに『晃太郎』って呼べよ」
「え…?」
苦笑まじりに告げられた晃太郎の言葉に、結衣は言葉を失った。呆然と、目の前の男を見つめる。
バタバタと医師と看護師が駆け付け、晃太郎はストレッチャーに乗せられて検査室へ連れて行かれた。記憶喪失かも知れない、という結衣の言葉は、医師たちを驚かせたようだ。
「…じゃあ、種田さんは貴女とお付き合いしていた2年前まで記憶が遡ってるわけですね」
結衣の話を聞き、女性医師がゆったりと頷いた。
「多分…そうだと思います」
「東山さん、でしたよね。今の貴女と種田さんの関係は?」
「会社の上司と部下です。ここへは、別の上司の指示で来ました」
そうですか、と彼女は思案顔になって頷く。
「MRIの結果を待たなければなりませんが、おそらく記憶障害だと思います。頭部をぶつけたショックで記憶が混乱している可能性があります」
「それは…記憶喪失とは違うんですか?」
「記憶の混乱は一時的なものですから、時間がたてば元に戻ります。記憶喪失は失った記憶を取り戻すために何年もかかる場合があるし、一生戻らないこともあります」
そう言われ、結衣は言葉を失う。何と言えばいいのかわらかない。
「記憶のメカニズムって本当に不思議で、まだまだ解明されていないことも多いです。でも先程お話した感じでは、ご自分のこともちゃんとわかっておられました。貴女のことを恋人と勘違いしているだけ」
「…はい」
「しばらく様子を見させて下さい。すぐには判断できないことも多いので」
「あの、彼に本当のことを告げても?」
「構いません。というか、伝えるのも診断の一種なので。その時は同席させて貰います」
「はあ…」
白衣の似合う女性は賢く見えるな──全く関係ないことを考えつつ、結衣はぼんやりと頷いた。結衣も理解が追いついていない。
********
「──ちょっと待って。え?…俺、すげー混乱してる」
結衣の話を聞いて、晃太郎は文字通り頭を抱えた。こめかみを強く押さえている。
「俺と結衣は別れてんの?結婚するって話じゃなかったっけ?」
「だからね、それはもう2年も前の話で…。顔合わせに来なかったの、晃太郎」
「顔合わせ?…それって親同士を引き合わせるやつだよな。それはまだだろ?」
「え?…晃太郎の中で、私たちの結婚話ってどこまで進んでるの?」
時系列の擦り合せ──すなわち晃太郎が『どの時点』まで記憶を遡らせているのか、確認作業は結衣に一任された。自由に話していいから、と事前に言われている。
「どこまでって…。こないだ結衣と一緒に実家に行った。お前が酒飲んで酔い潰れてたのは覚えてる」
「余計なこと思い出さなくていいから」
思わずツッコんでしまう。種田家へ結婚の挨拶に行き、ついお酒を飲み過ぎて酔い潰れてしまったのは、結衣の完全は黒歴史だ。
「…そうだ、母さんが『東山さんにご挨拶しないと』って言ってた。皆の予定を合わせなきゃって…」
──そうだ、晃太郎の中ではまだ結衣と恋人同士なのだ。顔合わせに晃太郎が来ず、別れることになった経緯を覚えているはずがない。
「…それ、2年も前の話?」
「うん、そうだよ。晃太郎が忙しくてなかなか予定が合わなくて、年が明けてから顔合わせをしようって話になったの。それで1月の中頃って決めた」
「…俺、それに行かなかったのか?」
晃太郎が混乱と困惑に揺れる瞳で結衣を見た。信じられない、と言いたげな表情をしている。当たり前だが、こんな不安そうな晃太郎は見たことがない。
「…晃太郎、ずっと働きづめだったの。それで顔合わせ当日、家に帰って気が抜けたんだろうね。マンションの玄関で…寝てたんだよ」
言いながら、結衣は泣きそうになってしまう。死んだように倒れ込んで眠っていた晃太郎。そんな晃太郎に投げつけた、残酷な言葉。
「…そうか。ごめん、全然わからない」
「晃太郎のことだから、ずっと不眠不休で働いてたんだと思うの。顔合わせの2週間くらい前だったかな。その頃から晃太郎は桁違いに忙しくなって、殆ど音信不通だったから」
「……」
結衣の言葉に、晃太郎は何かを考え込むような表情になった。長い沈黙の後、改まった表情で結衣を見る。
「…ひとつ、聞いていい?」
「何?」
「俺、今どこで働いてる?」
「…ネットヒーローズ。今、晃太郎は私と同じ会社にいるんだよ」
再び晃太郎の右手がこめかみを押さえた。理解できない、というよりは、必死に『理解しよう』としているように見えた。
「…今の晃太郎はネットヒーローズ制作四部の副部長。私の上司だよ」
「…結衣と俺は別れてて、俺は結衣の上司で…。だから『種田さん』だったのか」
少しずつ理解できてきたのか、晃太郎が呟く。元々、賢い男なのだ。
「…俺、ネットヒーローズに転職するって話、結衣にはしてなかったよな?」
「そうだね。私がそれを知ったのは…晃太郎が転職して来てからだった」
結衣と晃太郎が別れ、2ヶ月ほどが過ぎた頃だった。
「…結衣が、俺をからかってるわけじゃないんだな」
「からかってません」
──そうだ、当時は晃太郎が転職を考えているなんて知らなかった。何も知らされないまま、結衣と晃太郎は別れた。もしあの時にわかっていたなら、別れずにすんだのだろうか。
晃太郎が結衣の日常に再び入り込むようになってから、何度となく考えた。──どうしてあの時、別れてしまったのだろう。別れずに済む方法はなかったのか。
********
疲れたから休みたい、と珍しく晃太郎が言ったのを機に、その場はお開きとなった。晃太郎がベッドに横になると点滴が始まり、やがて規則正しい寝息を立て始める。
「…東山さん、少し良いですか?」
黙って話を聞いていた女医が、結衣に声をかけた。再び診察室に案内される。
「余計なお世話かも知れないけど、話しておいた方がいいかなーと思ったから。デリケートなことに口出ししますけど、差支えなければ教えて下さい。別れを切り出したのはどっち?」
確かにデリケートな質問だ。だが、不思議と不快には思わない。結衣は答えた。
「私です。例の顔合わせの日、私が別れようって言いました。…もう無理だよ、って」
「種田さんは何て?」
「わかった、って」
結衣に背を向けたまま、晃太郎は冷ややかな声で答えた。わかった──その一言で、それだけで終わってしまった。
「付き合いは長かったの?」
「2年くらいです」
「…そう」
彼女は少し考えるような表情になり、それから結衣を見た。
「人間の脳っていうのは解明されていないことが多く、今も研究段階なんです。記憶のメカニズムも同じって話はしましたよね?」
女医の言葉に、結衣は頷く。
「私の恩師は、この分野では権威と呼ばれるよーな人なんだけど。彼が面白いというか、興味深いことを言っていたんです」
話の展開がわからず、結衣は眉をひそめる。女医は気にした様子もなく、言葉を続けた。
「人間の脳って都合が良い部分がたくさんあって。記憶喪失や記憶障害もそのひとつだと言うんです」
「え?」
「記憶喪失になってまで忘れてしまいたいような辛い記憶、あるいは拘り続けている強い記憶が抜け落ちてしまうことが多いと。…種田さんにとって、貴女とのお別れは耐え難いほどに辛い記憶だったんじゃないでしょうか」
「…そんな、まさか…」
「本当のことはわかりません。でもさっきの彼の様子を見てて、そう思ったの。だから結婚が決まって、いわゆる1番幸せだった時に記憶を戻したのかな、って」
涙が溢れてきた。結衣は顔を覆い、涙を流す。彼女は何も言わなかった。ただ黙って、ティッシュの箱を結衣の前に差し出してくれた。
(続)