「以上のことから、この定理が導ける……これに関しては必要だったからね。じゃあ、この証明についてなんだけれど、今導いたのを補助定理として――――」
慈善活動の一環として、時々講義を行う。最初の頃はヘルタと話すときの感覚が抜けてなくて、受講生を置いてけぼりにしてしまった。評価が非常に悪かった。
相手に合わせて説明できるように練習すれば簡単だった。真に理解できているものの説明には、複雑怪奇に証明を並び立てる必要も、難解な専門用語を煉瓦のように積み上げる必要もない。
そういう意味では、僕はヘルタの研究を人に教えられるほど理解していない。彼女に届くことは無いだろう。
次の講義に向かう途中で、カンパニーからメッセージが届いていることに気が付いた。また、惑星予算規模の引き落としがあったみたいだ。
それでも、お金に関しては問題ない。
立ち上げた事業をカンパニーに売却したり、持っていた暗号資産が何千万倍にも膨れ上がったりと、凡人の考える天才のような、安易な成功を繰り返している。湯水のように溢れてくるが故に、価値がない。
僕とヘルタの関係は、この引き落とされるお金だけ――なんて寂しい状況でもなかった。やっぱりメッセージには返事が来る。年に一度くらいは通話してくれる。ヘルタの少しだけしわがれた声に潤いを感じられる。掠れた声は、ヘルタのかわいらしかった声に比べて大人らしい色気を孕み、年甲斐もなくドキドキした。
鏡を見れば僕も白髪が目立つ。臓器が不調を訴え始めて、関節が摩耗して、身体の反応も鈍くなる。いよいよ二度目の死が見えるところまで近づいてきていた。
「……」
弱音が漏れそうになって、代わりに強く唇をかむ。
前世と合わせて百六十年も生きて、あまり女々しいことは言いたくない。
「いや、この世界においては短い人生か」
とはいえ、やっぱり弱音を吐けば泣きそうなのでやめる。ヘルタに会いたい。
☆
「たしかに、長生きだよな……」
「……すみません。何の話でしょうか」
「あぁ、ごめんなさい、意見を貰いに来たのにぼうっとしてて……その、僕もまだ若いってことです」
近々発表する予定の論文について意見を貰うために、スクリューガムさんを訪ねた。
前世の感覚では百六十歳とか、仙人か妖怪かと言いたくなる年齢だが、この世界では短命と言える。最近は、長命種と会うたびにこんなことを考えてぼうっとしてしまうのだ。
「特別私が口を出す必要を感じるところはありません。提案:よろしければ予想される批判について纏めましょうか」
「ありがとう。でも結構です。これでも、一応は研究者なんで」
「こちらこそ差し出がましいことを言ってしまいました。それと……ヘルタさんの捜索についてですが、やはり未だ手がかりはありません。理論上ヘルタさんの人形から、その位置を割り出すことは可能でしょうが――」
「当然ヘルタがそんなことを許可するはずがないと」
「仮に許可を与えられたとしても、理論上可能というだけです。相応の対策はしているでしょう」
ヘルタとは会えずとも、なぜだか天才クラブの面々とは交流があった。
ルアン・メェイからも、時折アフタヌーンティーに呼ばれるくらいなのだ。
普通ならば滅多に会えない筈の天才と、不思議と会えてしまう。ヘルタにだけ、会えない。
いつもそうして辛くなり、スクリューガムさんの方から切り上げてくれる。紳士的な彼に、そんな態度を取らせてしまい……助かると思ってしまう自分が情けなかった。
ヘルタを探せども探せども、痕跡すらも見つけられない。他の天才たちですら居場所が把握できていないらしいのだから当然だ。
先ほどスクリューガムさんとの話にも出たヘルタの人形。僕の代わりに使っているのだろうか、雑用をこなすヘルタの人形たちがいるのだ。幼少の時のヘルタに少し似た人形は、天才クラブを訪ね、カンパニーに派遣され、僕の所にだけは来ない。
もはや僕は、ヘルタを本当に追い続けているのか、追いかけるふりを続けているのか、自分でもわからなくなってしまっていた。
ただ、ヘルタがいなくなって、それから悲しいほどに充実している。
スクリューガムさんを訪ねたのだって、僕の論文の意見を貰うためだし。引用数も多くて、充分立派な研究者だ。
資産は星を買えるほどに溢れかえった。
カンパニーには技術提供をしているし、そのせいで毎日のように誘いが来る。所属しろと言われたり、本を書けと言われたり。本はヘルタに関するもの以外なら何でも書くが、生憎とどこにも所属するつもりはない。
あと、活動と言えば――――
「……若返りかぁ……」
少し前にヘルタが発表した若返りの理論。僕にだけ、さらに詳細な理論が送られてきた。解説もついていて、僕に理解させようとしている。つまりは………………
今のところは三割も理解できていない。
しかし、理解出来そうな気がしている。ヘルタが自信満々に発表しているわけだし、この理論は確実に正しい。
それに形は違うけれども、ある意味僕は既に若返りを経験している。
輪廻転生。また、次もあるのだろうか。
☆
病院。窓は少しだけ開けられていて、吹き込む風に薄いレースのカーテンがひらひらと揺れていた。その動きに合わせて外の香りも運ばれる。木々の湿った匂い。夜のうちに雨が降ったのかもしれない。
ベッドは僅かな身じろぎにも軋み、サイドテーブルに触れてグラスに注がれた水が波を立てた。手元のリモコンで操作して上半身を起こして、キャビネットに置かれたモニターに電源をつける。
病室は前世の世界のモノを再現した。僕の言った通りに部屋を作って貰おうと思ったのだが、ついでだったので病院を一棟建てた。
ヘルタが病死したと報道されていたが、多分死んでいないのだろうなと思う。悲しくないから間違いない。ヘルタが死んで、僕が泣かないなんてことはあり得ない。だから、死んでいないのだ。
機能がやや衰えてきた脳は、様々な刺激に鈍くなった。鳥のさえずりに耳を傾けることも無くなったし、やっと付けたモニターに映し出された映像もぼやけて見える。網膜色素変性症らしい。視野が狭窄して、さらに白く霞む。淡い色と光だけが確かだった。
「おはようございます」
「おはよう……えっと?」
「朝の検温ですよ」
やってきた看護師は、穏やかな口調で言った。
赤外線体温計が音を立てるのを聞いて、
「今日は、誰がお見舞いに来る?」
看護師に尋ねてみると、少し悩んでから。
「いつも通りだと思います。カンパニーから何人か……他は聞いてませんね」
僕の貢献に感謝してくれているのか、スターピースカンパニーの高級幹部なんかが毎日訪ねて来ていた。
もう少しだけ先進的な医療に賭けてみないかという誘いも毎日。強力な薬で、副作用も辛いだろうと。最後まで足掻く方が、少なくとも僕の考えでは立派だと思う。でも、疲れた。
僕は、この生涯をヘルタに捧げられただろうか。自分に出来る最大限で、尽くせただろうか。自己満足、自分勝手な押し付けだけれど、ヘルタは優しいから文句を言いながら受け取ってくれるのだ。
「さて、すぐに朝食を持ってきます」
「……ありがとう」
看護師が去ると、またモニターを眺めた。なんだか騒がしくて、それが少し楽しかった。
お昼前に、スターピースカンパニーの幹部が来て、僕の遺産の話をした。
半分はヘルタのアカウントに、もう半分は病気の子供や紛争地への支援に使って欲しいと頼んだ。
僕がそう言うのだと分かっていたみたいで、カンパニーは既に書類を用意していた。僕の特許や著作物やらの権利もまた、すべてヘルタに譲渡することで確定した。良かった。
お昼ごはんはいつも美味しい。しかし今日は、随分と運ばれてくるのが遅かった。お世話をしてもらっている立場でありながら、あまり図々しいことは言いたくなかったが何度も指摘して、かなり遅めの昼食だった。生活リズムが崩れたからか、美味しいのにあまり食べられなかった。
夕方になって、ヘルタのことを思い出した。とても寂しくなって、モニターの音量を上げた。
窓は少しだけ開けられていて、吹き込む風に薄いレースのカーテンがひらひらと揺れていた。その動きに合わせて外の香りも運ばれる。木々の湿ったにおい。
今日は雨が降ったのかもしれない。
☆ ☆ ☆
「?」
確かに、ヘルタの助手にして、天才クラブともスターピースカンパニーともつながりが深い男。今琥珀期産まれだけに限定すれば、ヘルタの次の次くらいには重要人物だ。
ただ、それにしては厳重過ぎる。彼――アネモスのいる病院は、外見からは考えられないほどのセキュリティに加え、カンパニーの人間が大勢巡回していた。
忍び込むのは至難の業。
「なんてね。この程度のセキュリティは無いのと一緒だよ」
「ぁぇ?」
アネモスに、ヘルタは得意げに笑いかけた。とうに日は落ち、幽かな星の明かりだけが病室を照らす。
「しばらく会わない間に随分と偉くなったね。あなたのカルテ一つ手に入らなくて驚いちゃった。カンパニーの……それもかなり上の幹部が管理しているみたい」
「カルテ……か。僕も、あまり見せてもらってない」
「…………?」
数十年ぶりの再会。特にヘルタは若返っていて、もっと驚くはずだった。それが見たくて天才たちとのアフタヌーンティーの後、飛んできたのに。
異常なまでに冷静なその様子に、ヘルタは不満よりも疑問が勝り。
「ねぇ、私のこと、分かる?」
「分かるとも。ヘルタ。僕は、ずっとヘルタに会いたかった」
「……?」
やっぱり何かが違う。
「そうだ。今度スターピースカンパニーの人が来たら、僕の遺産について、話す必要があって……」
「そんな話する必要ある? 次のプロジェクトを進めたいからついてきて……っと、その前にまずは状態の確認からだね」
「状態……状態は、安定する」
かちりとスイッチが切り替わる音が聞こえた。むろん、幻聴。あるいは、目の前のアネモスの変化が音を伴わなければ不自然なほどに劇的だったから。
「アルミニウムを粉末にする際は必ずカンパニーの専用の機器を使用すること。細かければよいというモノではないから。それに加えて炭化チタン……そう。その配分でいい…………厳密には違うけれど……ようは積層構造にする。その際の厚さはそれぞれ――」
「そういうこと…………?」
「そう。そういうこと。モリブデンの比率は意外なほど多くないといけないんだ。エンジンの燃料が採れるのは決まった星系。奇跡的な資源だよ。合成技術の確立までは採掘するほかない」
スターピースカンパニーの幹部が毎日アネモスを訪ねていることは知っていた。それに、これほど厳重な警備。
「何をしゃべるか分からないから、監視が必要だったとかそんなところ?」
幹部が毎日わざわざ面会に来たのは、きっとまだアネモスの脳内にしかない情報があって、聞き出そうとしていたのだろう。
スクリューガムにアネモスの状態を確認して貰ったのは、半年前が最後。その時は元気そうだと言っていた。
そのあとからここまで急速に、認知症? いや、薬の作用かもしれない。痛み止め? 何か重大な……
身体がすっと冷えて、背中を蟲が這ったような錯覚。
途端にアネモスが、切り倒された枯れ木のように、それも風雨に晒され触れればぼろぼろと崩れていく腐ったもののように感じられてきた。恐ろしくてたまらなくなった。
「そういえば……私の若返りの理論を理解できなかったんだね」
わざわざ言葉にして、今気づいたようなふりをした。
そんなことはこの病院にいるのだから、最初から分かっていたことだが。出来の悪い助手に対してのちょっとした説教と、後は、未知の感情を誤魔化すため。不安なような、高揚しているような。
ヘルタの言葉に反応したのか、アネモスは譫言をやめて。
「……若返り?」
「うん。少し借りるね」
ヘルタはサイドテーブルに置かれていたアネモスのスマートフォンを手に、データを眺めた。やはり、ヘルタの若返りの理論について研究していたらしいが、四か月ほど前で止まっている。
「でも…………あと一歩だったんだね。仕方ない……か。ほら、分からないところは教えてあげるから。この私がここまでしてあげることなんて――――」
「違うだろう」
急に、ハッキリと聞こえて来たその声に、ヘルタは思わずびくりと体を怯ませた。
先ほどまで虚ろに、夜の暗闇に溶け込んでいたアネモスの眼に、光が宿っていた。ほとんど視力も効かないようで、曖昧にヘルタの姿を追いかけて、今、確かに目が合った。
「ヘルタ。違うよ。理解するには十分、見ればわかる、それすらわからないの。ヘルタはこの三つの言葉しか――」
「ダメ! 絶対にダメ。ふざけないで」
深く刻まれた皴だらけの手は、ひどく乾燥していた。ザラザラとした手を握ると、アネモスはまたうわごとを始めた。
「ヘルタが、本当にすごい所は、やっぱり優しい所だよ。力があっても振り回されていなくて……我儘だけれど。代わりに、僕が、くるくる振り回されて」
「だったら。大人しく振り回されたらどうなの?」
「でも、ヘルタは他人を尊重できる。本当に立派な人なんだ」
不思議とただ握っただけの手から伝わってくるものがあった。長くてもあとひと月か、いや、もっと短い。
アネモスの意志を無視して無理やり若返りをさせるとして、連れ出して、準備して――まだ間に合う。そうして彼の尊厳を殺して、嫌われて、それでも…………それで何になる。
僅かに荒くなった呼吸を落ち着かせて……意識した分もっとひどくなったような気がする。
「ごめんなさい……もっと早く……違う、もっとちゃんと……」
もっと早く若返りの理論を出せていたのならば、それ以前に怖がらずにもっと一緒に過ごしていられたならば。
アネモスは、ヘルタの手を握り返した。ほとんど力が籠っていない。
「温かい…………僕はさ、でも、次もヘルタの為に尽くしたい気持ちもあるけれど、もっと、星を。穹を、駆けて。それが前世の、夢で」
「前世……?」
「月は近いけれど、でも手が届かないでしょ? どうやって飛んで行くものやら。だから次なんだ。全部、次で叶う」
掠れた声で、けれどもハッキリと。決意に満ちていた。
「次だ、次は理解する。次は星々をめぐる。次は、ヘルタに──
最後にいい夢が見れた気がする。いつ頃のヘルタかな。ねぇ、ヘルタ。夢の中で愛する人に会えたならば、その意味は一つだけだと思うんだ」
「夢じゃないよ。夢じゃない……」
「だから、また会えるよ。きっと会える。来世、星の下で」